2021.7.25 主日礼拝の案内

週 報 76 巻 30 号   2021.7.25
しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、

天地の消えうせる方が易しい。

(ルカによる福音書16章17節)

主 日 礼 拝   午前 10:30
奏楽 板 垣 玲 子

 <神の招き>
招 詞 イザヤ書42章1節

*讃 詠  545B

聖 書 創世記2章7節~9節  (旧約 P.2)

日曜学校説教 「もう一つの人間の創造」

松 谷 信 司

*讃美歌 461〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 イザヤ書58章3節~8節  (旧約P.1156)

ルカによる福音書16章14節~18節(新約P.141)

祈 り         三 浦 勇 二

*讃美歌 504〔1-2〕                                                                                               説  教 「神はあなたたちの心をご存知である」

三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 196〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 539

*後 奏

礼拝当番
(今週)安井国雄

(次週)加藤純子

 
ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)新畑 信

2021.7.25~7.31 週報集会案内

2021.7.25~7.31 週報集会案内
      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休  会

〇朝カフェ            休  会

〇入門の会            休  会

〇クワイア練習          中  止

〇コイノニア           中  止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)     礼 拝 後

〇日曜学校教師会         礼 拝 後

〇第5回臨時小会           礼 拝 後

今 週 の 集 会
◎祈祷題 「世界の教会を覚えて」

(教会を覚える日・8月1日)

〇聖書の学びと祈りの会は休会です。

 
次 週 礼 拝
説教 「金持ちとラザロ」

三 輪 地 塩

イザヤ66章22節~24節

ルカによる福音書16章19節~31節

讃美歌、546、11 (1-3)、502 (1-2)、213 (1-2)、544

三 輪 志 都

*日曜学校礼拝は第2主日と第4主日に行います。

2021.7.25 週報 教会からのお知らせ

2021.7.25 週報 教会からのお知らせ
◇聖書の学びと祈りの会は、7月15日~9月9日まで夏期休会となります。熱中症に気を付けてお過ごしください。

【オンライン一日神学校のご案内

日時:9月20日(月・休)10:30~14:30

<プログラム>
10:40~12:00講義「日本キリスト教会の教会論」

講師 松田真二(組織神学部門講師)

13:00~13:20礼拝(チャペルでの礼拝をZoom配信)

13:20~14:30神学校紹介ビデオ、神学生との交わり

校長との面談(希望の方)

*申込方法8月31日までに申込書をFAX、またはメールで

神学校に申込んでください。(申込用紙は掲示)

2021.7.25 の週報掲載の説教

<2020年2月23日の説教から>

ルカによる福音書4章31節~37節

その言葉には権威がある
牧師 三輪地塩

イエスが会堂で教えを語り、人々がその教えに非常に驚いていた場面での出来事。会堂にけがれた霊に憑かれた男が入ってきてこう言った。「ああ、ナザレのイエス。かまわないでくれ。我々を滅ぼしにきたのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。これは大変興味深い言葉である。悪霊は、キリストが「神の聖者」であることと、自分が悪霊であることを分かっている。自分が出て行かねばならない存在であることも、悪霊自身知っている。自分がこの男に取り憑いていることが「相応しくないこと」を知っているからこそ「かまわないでくれ」と懇願する。

この箇所で印象的なのは「権威」という言葉である。権威と聞くと、単に「偉い人」や「(政治的)権力者」のイメージを持ちがちである。だが権威とは、本来、その事柄についてよく知っている専門家ということである。聖書に出てくる権威は、「律法学者」や「祭司長」が有名である。彼等は聖書をよく勉強し、神についてよく知っていた(と自負していた)。それが当時の宗教的・信仰的権威者であった。

しかしここで注意したいのは、神に「ついて」よく知っている人は、必ずしも、神「を」知っている人とは異なるということだ。例えば、多くの人たちは「モーツァルトを知っている」と言うだろう。だがモーツァルトとランチをしたことがある、とか、家族ぐるみでモーツァルトと旅行に行ったことがある、という人はまず存在しない。モーツァルトに「ついて」知っているだけであって、モーツァルトの知識がある、という程度だ。知っているとしても、音楽の専門家・研究者であるか、国際モーツァルティウム財団と関係を持っているぐらいであろう。

それは律法学者も同じである。神に「ついて」知っている。つまり「知識」としての学者でしかなかった。だがキリストは、神「を」知っている、のみならず、「神そのものである」。それは神を知っているとは決定的に違う。キリストは、「神の身分でありながら」我々の前に現われた、とパウロが述べているとおり、キリストという存在がすでに「三位一体の神」そのものである。それが「律法学者の権威」と「キリストの権威」の決定的な違いである。この違いは極めて重要である。なぜなら、教会の内部にも「権威を取り違える罪」が潜むからである。