2021.7.25 の週報掲載の説教

<2020年2月23日の説教から>

ルカによる福音書4章31節~37節

その言葉には権威がある
牧師 三輪地塩

イエスが会堂で教えを語り、人々がその教えに非常に驚いていた場面での出来事。会堂にけがれた霊に憑かれた男が入ってきてこう言った。「ああ、ナザレのイエス。かまわないでくれ。我々を滅ぼしにきたのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と。これは大変興味深い言葉である。悪霊は、キリストが「神の聖者」であることと、自分が悪霊であることを分かっている。自分が出て行かねばならない存在であることも、悪霊自身知っている。自分がこの男に取り憑いていることが「相応しくないこと」を知っているからこそ「かまわないでくれ」と懇願する。

この箇所で印象的なのは「権威」という言葉である。権威と聞くと、単に「偉い人」や「(政治的)権力者」のイメージを持ちがちである。だが権威とは、本来、その事柄についてよく知っている専門家ということである。聖書に出てくる権威は、「律法学者」や「祭司長」が有名である。彼等は聖書をよく勉強し、神についてよく知っていた(と自負していた)。それが当時の宗教的・信仰的権威者であった。

しかしここで注意したいのは、神に「ついて」よく知っている人は、必ずしも、神「を」知っている人とは異なるということだ。例えば、多くの人たちは「モーツァルトを知っている」と言うだろう。だがモーツァルトとランチをしたことがある、とか、家族ぐるみでモーツァルトと旅行に行ったことがある、という人はまず存在しない。モーツァルトに「ついて」知っているだけであって、モーツァルトの知識がある、という程度だ。知っているとしても、音楽の専門家・研究者であるか、国際モーツァルティウム財団と関係を持っているぐらいであろう。

それは律法学者も同じである。神に「ついて」知っている。つまり「知識」としての学者でしかなかった。だがキリストは、神「を」知っている、のみならず、「神そのものである」。それは神を知っているとは決定的に違う。キリストは、「神の身分でありながら」我々の前に現われた、とパウロが述べているとおり、キリストという存在がすでに「三位一体の神」そのものである。それが「律法学者の権威」と「キリストの権威」の決定的な違いである。この違いは極めて重要である。なぜなら、教会の内部にも「権威を取り違える罪」が潜むからである。