2021.8.8 主日礼拝の案内

2021.8.8 主日礼拝の案内
週 報 76 巻 32 号 2021.8.8
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、

『わたしどもは取るに足りない僕です。

しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

(ルカによる福音書17章10節)

主 日 礼 拝   午前 10:30
奏楽 板 垣 玲 子

<神の招き>
招 詞 ヨハネによる福音書4章23節

*讃 詠  546

*聖 書 創世記3章1節~13節  (旧約P.3)

*日曜学校説教 「へびの誘惑」 岩 本 道 子

*讃美歌 465〔1-2〕

<神の言葉>
聖 書 レビ記19章17節~18節(旧約P.192)

ルカによる福音書17章1節~10節(新約P.142)

祈 り           森 﨑 千 恵

*讃美歌 196〔1-2〕

説  教 「赦し、信仰、奉仕」 三 輪 地 塩

<神への応答>
*讃美歌 214〔1-2〕

公 告

*主の祈り

*頌 栄 540

*後 奏

礼拝当番(今週)増田裕子

(次週)野田昭子

ライブ配信当番
(今週)新畑信

(次週)小出勝

2021.8.8~8.14 週報集会案内

2021.8.8~8.14 週報集会案内
      集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会

〇朝カフェ            休 会

〇入門の会            休 会

〇クワイア練習          中 止

〇コイノニア           中 止

〇礼拝堂・1階の消毒(有志)   礼 拝 後

*本日礼拝後、会堂改修の打合せ会を開催します。

今 週 の 集 会
◎祈祷題 「平和記念礼拝・世界平和のため」

〇聖書の学びと祈りの会は9月9日まで休会です。

次 週 礼 拝
<こどもとおとなの平和記念合同礼拝>
説教 「カインとアベル」  三 輪 地 塩
創世記4章1節~12節

ローマの信徒への手紙6章12節~14節

讃美歌
545A、15 (1-2)、517 (1-2)、191 (1-2)、541

加 藤 純 子

*日曜学校礼拝は第2主日と第4主日に行います。

2021.8.8 週報 教会からのお知らせ

2021.8.8 週報 教会からのお知らせ
会堂改修工事について
8月2日(月)から第1期の改修工事が始まりました。

次の順で工事をいたします。

工事個所のトイレは使用出来なくなりますので、ご注意ください。

82(月)810(火) 2階トイレ工事
8日(日) には、2階トイレは全て使用できませんので

1階トイレをご利用ください。

815(日)915(水) 1階トイレ工事
8月15日、22日、29日、9月5日、12日各日曜日の

1階トイレが使用出来なくなります。

1階で礼拝する方も2階のトイレを使用していただくことになりますが、

階段の利用が困難な方は、どうぞ

長老・執事・お近くの方に遠慮なく介助を依頼してください。

2021.8.8 の週報掲載の説教

2021.8.8 の週報掲載の説教
<2020年3月8日の説教から>

ルカによる福音書5章1節~11節

しかし、お言葉ですから
牧師 三輪地塩

シモン(ペトロ)は、兄弟アンデレと共にガリラヤ湖畔で漁師を営んでいた。彼らは漁のプロだった。だがその日、シモンたちは夜通し苦労しても、何も獲ることが出来なかった。プロの漁師が、夜通しかけて獲れなかったのだからもう諦めるしかない。これ以上あがいてもどうにもならない。彼らの経験値から出された結論は、「今日は帰ろう」だった。

彼らが岸に戻り漁の網を洗っていたとき、イエスの話を聞こうと集まった群衆が押し寄せてきた。イエスは舟が2艘あるのを御覧になり、シモンの舟に乗り、沖に少しこぎ出して欲しいと言われた。シモンは応じて舟をこぎ出した。群衆への話が終わると、イエスは突然シモンに向かって、「沖に漕ぎ出し、網を降ろして、漁をしなさい」と言われた。シモンの立場になって考えてみれば、イエスの言葉は迷惑だったかもしれない。漁師が素人の指図を受けるのはプロの沽券に関わる。もしかすると、イエスのこの指図にシモンは憤慨したかもしれない。シモンは即座に「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした」と反論した。この言葉に漁師のプライドが垣間見える。「これ以上は素人に何を言われても湖の状況は変わりませんよ」という自負心。だがこれはシモンのみならず現代に生きる我々にも同じことが言えよう。自分が誰よりも知っていると自負することや、誰にも負けない経験を持つ人は、誰の話も聞かなくなることが往々にして起こりやすい。自分より知識や経験が豊富にあると認めたくないからだ。恐らくシモンも最初はそう感じたと思うのだが、ここはさすがイエスの一番弟子となった人物である。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ってイエスの言葉に従ったのである。自分の経験と誇りに掛けて、意固地になるのではなく、柔軟に主イエスの言葉を聞き、具体的に実践しているのだ。

神を信じるとは、人の知識や経験を超えて神が働かれることを信じることにある。「しかし、お言葉ですから」という言葉は、言い換えると「人間を相対化する」ことだ。絶対化され易い「自分」という存在を、神の光の下で「相対化」する。そのとき自分の傲慢さや自信過剰、過度のプライドが、神の下で小さく惨めなものとなる。「しかし、お言葉ですから」という言葉は、私を超えるあなたを信じます、という信仰告白となる。