2021.8.8 の週報掲載の説教

2021.8.8 の週報掲載の説教
<2020年3月8日の説教から>

ルカによる福音書5章1節~11節

しかし、お言葉ですから
牧師 三輪地塩

シモン(ペトロ)は、兄弟アンデレと共にガリラヤ湖畔で漁師を営んでいた。彼らは漁のプロだった。だがその日、シモンたちは夜通し苦労しても、何も獲ることが出来なかった。プロの漁師が、夜通しかけて獲れなかったのだからもう諦めるしかない。これ以上あがいてもどうにもならない。彼らの経験値から出された結論は、「今日は帰ろう」だった。

彼らが岸に戻り漁の網を洗っていたとき、イエスの話を聞こうと集まった群衆が押し寄せてきた。イエスは舟が2艘あるのを御覧になり、シモンの舟に乗り、沖に少しこぎ出して欲しいと言われた。シモンは応じて舟をこぎ出した。群衆への話が終わると、イエスは突然シモンに向かって、「沖に漕ぎ出し、網を降ろして、漁をしなさい」と言われた。シモンの立場になって考えてみれば、イエスの言葉は迷惑だったかもしれない。漁師が素人の指図を受けるのはプロの沽券に関わる。もしかすると、イエスのこの指図にシモンは憤慨したかもしれない。シモンは即座に「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何も獲れませんでした」と反論した。この言葉に漁師のプライドが垣間見える。「これ以上は素人に何を言われても湖の状況は変わりませんよ」という自負心。だがこれはシモンのみならず現代に生きる我々にも同じことが言えよう。自分が誰よりも知っていると自負することや、誰にも負けない経験を持つ人は、誰の話も聞かなくなることが往々にして起こりやすい。自分より知識や経験が豊富にあると認めたくないからだ。恐らくシモンも最初はそう感じたと思うのだが、ここはさすがイエスの一番弟子となった人物である。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ってイエスの言葉に従ったのである。自分の経験と誇りに掛けて、意固地になるのではなく、柔軟に主イエスの言葉を聞き、具体的に実践しているのだ。

神を信じるとは、人の知識や経験を超えて神が働かれることを信じることにある。「しかし、お言葉ですから」という言葉は、言い換えると「人間を相対化する」ことだ。絶対化され易い「自分」という存在を、神の光の下で「相対化」する。そのとき自分の傲慢さや自信過剰、過度のプライドが、神の下で小さく惨めなものとなる。「しかし、お言葉ですから」という言葉は、私を超えるあなたを信じます、という信仰告白となる。