2021.12.12 の週報掲載の説教

2021.12.12 の週報掲載の説教
<2020年7月5日の説教から>

ルカによる福音書7章11節~17節

『神はその民を心にかけてくださった』
                  牧師 三輪地塩

早くして夫を亡くし、一人息子と肩を寄せ合いながらの母子家庭のこの女性。彼女にとって息子は生きる意味であり拠り所であったに違いない。この息子が母を残して先だってしまった。「死」は全ての人に平等に与えられるが、物事には順序がある。息子に先立たれるという不条理さと絶望感は、耐えがたい苦しみとなる。

この女性のために、多くの人が付き添った。温かい心遣いであろう。だが、他者の優しさや同情心は、決定的な「救い」にはなりえない。悲しみの全てを根本的に取り去ることが出来ないからである。そこに人間の限界がある。

「主は、この母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)とある。悲しむ人に「泣かないで」と優しく言葉を掛けることは誰にでも出来る。だが、誰も自分の慰めの言葉に責任は持てない。これに対してイエスの「もう泣かなくともよい」には、我々の無責任な言葉とは決定的な違いがある。「泣く理由を取り去ることが出来る」からだ。

「憐れに思い」という13節の言葉は、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」、「はらわたが揺り動かされる」という強い意味を持つ、ルカ福音書中3箇所しか使われていない特殊な語である。「善きサマリア人の譬え」で「瀕死のユダヤ人を見て『憐れに思い』助けた」という箇所、「放蕩息子の譬え」の中で、「改心して帰ってきた息子を見つけ、父親は『憐れに思い』近寄って抱擁した」という箇所と当該箇所だけである。つまりここでイエスが憐れまれたのは、善きサマリア人の「無償の憐れみ」と、放蕩息子を快く迎え入れた父親の「わだかまりのない憐れみ」をもって、どん底に落ちている母親の心を捕え、悲しみに触れて接していることが分かる。聖書が示すのは息子の生き返りよりもむしろ、如何にしてイエスは我々の心に触れられるかに焦点が当てられる。つまり、死んだのは息子であったが、「本当に魂が死んでいたのは」むしろ母親の方だったということにある。イエスは最も悲しむ者の魂に触れ、全身全霊を注がれてこの母親を慰めるのである。