2022.2.6 主日礼拝の案内
週 報 77 巻 6 号 2022.2.6
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 板 垣 玲 子
司式 三 浦 勇 二
<神の招き>
招 詞 ヨハネによる福音書4章23節
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
*讃 詠 545B
*罪の告白と赦し 交読詩編132編1節~7節
*讃美歌 12〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書
エレミヤ書16章16節 (旧約P.1207 )
16 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。
マルコによる福音書1章16節~20節(新約P.61)
16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
祈 り
*讃美歌 270〔1-2〕 説 教 「イエス様御一行 旅のはじまり」
神学生 安 彦 晴 樹
<神への応答>
*讃美歌 502〔1-2〕
*日本キリスト教会 信仰の告白
公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 541
*派遣の言葉
*後 奏
[*] の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。
礼拝当番
(今週)伊木美穂子 (次週)野田昭子
献金当番
(今週)松谷信司 安井英子
(次週)伊木美穂子 鈴木惠子
ライブ配信当番
(今週)新畑 信
(次週)小出 勝
2022.2.6~2022.2.12の集会案内
2022.2.6~2022.2.12の集会案内
本 日 の 集 会
〇『教会員の生活』による学びの会 1階会議室 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題
「長老・執事のため」
「信教の自由が守られるため」
〇聖書の学びと祈りの会 2月10日(木)10:00
エステル記3章(担当 三輪 地塩) 司会 伊木美穂子
※ラインで行います。
次 週 礼 拝
< 聖 餐 式 >
説教 「イエスの血による新しい契約」 三 輪 地 塩
出エジプト記24章3節~8節
ルカによる福音書22章7節~23節
讃美歌
546、461 (1-2)、15 (1-2)、517 (1-2)、542 岩 本 道 子
日曜学校礼拝説教 「貧しいやもめの献金」
マルコによる福音書12章41節~44節 済 陽 高 志
本 日 の 集 会
〇『教会員の生活』による学びの会 1階会議室 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題
「長老・執事のため」
「信教の自由が守られるため」
〇聖書の学びと祈りの会 2月10日(木)10:00
エステル記3章(担当 三輪 地塩) 司会 伊木美穂子
※ラインで行います。
次 週 礼 拝
< 聖 餐 式 >
説教 「イエスの血による新しい契約」 三 輪 地 塩
出エジプト記24章3節~8節
ルカによる福音書22章7節~23節
讃美歌
546、461 (1-2)、15 (1-2)、517 (1-2)、542 岩 本 道 子
日曜学校礼拝説教 「貧しいやもめの献金」
マルコによる福音書12章41節~44節 済 陽 高 志
2022.2.6 週報 教会からのお知らせ
2022.2.6 週報 教会からのお知らせ
◇本日の説教は三輪先生に代わって、神学生安彦晴樹さんが
ご奉仕してくださいます。
◇2月定期小会は13日(日) に行います。
◇本日、家庭礼拝暦の申込み締切日です。まだ申込みが
お済みでない方は本日中にお願いします。
2022年4月~2023年3月まで購読料(4冊分)2000円です。
(担当 國見照子)
◇訃報
2月1日(火) 片倉 治さんが召天されました。(72歳)
2月5日(土) 14時火葬 川越市斎場
2月10日(木) 15時 葬儀 三輪地塩牧師司式
片倉家自宅にて家族葬。 主のお慰めをお祈りします。
◇本日の説教は三輪先生に代わって、神学生安彦晴樹さんが
ご奉仕してくださいます。
◇2月定期小会は13日(日) に行います。
◇本日、家庭礼拝暦の申込み締切日です。まだ申込みが
お済みでない方は本日中にお願いします。
2022年4月~2023年3月まで購読料(4冊分)2000円です。
(担当 國見照子)
◇訃報
2月1日(火) 片倉 治さんが召天されました。(72歳)
2月5日(土) 14時火葬 川越市斎場
2月10日(木) 15時 葬儀 三輪地塩牧師司式
片倉家自宅にて家族葬。 主のお慰めをお祈りします。
2022.2.6 の週報掲載の説教
2022.2.6 の週報掲載の説教
<2020年8月16日の説教から>
ルカによる福音書8章19節~21節
『神の言葉を聞いて行なう人たち』
牧師 三輪地塩
母と兄弟たちが何のためにイエスに会いに来たのかは分からない。マルコ福音書によれば「家族達はイエスに、宣教するのをやめさせようとした」とあるように、ガリラヤの田舎大工の息子が聖書を講義するなんておこがましい、という思いからかもしれない。いずれにせよ、ここでのイエスの答えは「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」というものであった。
キリスト教会は、教会員同士に「〇〇兄」「〇〇姉」の敬称を付けることがあり、「キリストによる兄弟姉妹」という感覚を持つ事が多い。だが筆者自身、教会員を「兄弟姉妹」と呼ぶのは好きではない。その理由を言語化するのは難しいが、簡単に言うと「兄弟姉妹」というアイコンによって共同体のメンバーシップを括るとき、「信仰者の繋がり」とは別の感情、とりわけ日本においては、日本人的感情の「甘え」と呼ばれる「もたれ合い」が生まれるからだ。つまり、兄弟姉妹だから何をしても赦される、どんな罪深いことをしても赦される、どんなに罵倒しても赦される、という思い込みを助長させ、謙虚さを失わせ、罪を犯すことを自らに許可しようとするのである。それは教会を内部言語でしか通用しない内向きの共同体にしてしまうだけでなく、他者(外部)との共通項をも失わせる。「他者」を「世間」と言い換えても良いかもしれない。つまり、内部言語、内部感覚のみで共同体が形成されると教会は浮世離れするのだ。残念ながら、日本の教会にそれが存在していることを、自覚すべきであろうと思う。
このことから推察すると、イエスが自分の母や兄弟たちに対して、些か冷たい態度を取っているのにも頷くことが出来る。気持ちとしては、イエスの母や兄弟たちに同情の念を抱かずにはおれないが、しかしイエスが伝えようとしたのは、真の母、真の兄弟とは、「神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」と言うことなのだ。血が繋がっているからより深く愛することもあるが、血が繋がっているために、より深く憎しみ合うことだってある。つまり「肉親・親族・血縁である」ことは、救いの観点からは何の担保にもならないのだ。真の信仰共同体となるために、形式的にではなく、真に聞き、真に行動する者でありたいと思う。
<2020年8月16日の説教から>
ルカによる福音書8章19節~21節
『神の言葉を聞いて行なう人たち』
牧師 三輪地塩
母と兄弟たちが何のためにイエスに会いに来たのかは分からない。マルコ福音書によれば「家族達はイエスに、宣教するのをやめさせようとした」とあるように、ガリラヤの田舎大工の息子が聖書を講義するなんておこがましい、という思いからかもしれない。いずれにせよ、ここでのイエスの答えは「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」というものであった。
キリスト教会は、教会員同士に「〇〇兄」「〇〇姉」の敬称を付けることがあり、「キリストによる兄弟姉妹」という感覚を持つ事が多い。だが筆者自身、教会員を「兄弟姉妹」と呼ぶのは好きではない。その理由を言語化するのは難しいが、簡単に言うと「兄弟姉妹」というアイコンによって共同体のメンバーシップを括るとき、「信仰者の繋がり」とは別の感情、とりわけ日本においては、日本人的感情の「甘え」と呼ばれる「もたれ合い」が生まれるからだ。つまり、兄弟姉妹だから何をしても赦される、どんな罪深いことをしても赦される、どんなに罵倒しても赦される、という思い込みを助長させ、謙虚さを失わせ、罪を犯すことを自らに許可しようとするのである。それは教会を内部言語でしか通用しない内向きの共同体にしてしまうだけでなく、他者(外部)との共通項をも失わせる。「他者」を「世間」と言い換えても良いかもしれない。つまり、内部言語、内部感覚のみで共同体が形成されると教会は浮世離れするのだ。残念ながら、日本の教会にそれが存在していることを、自覚すべきであろうと思う。
このことから推察すると、イエスが自分の母や兄弟たちに対して、些か冷たい態度を取っているのにも頷くことが出来る。気持ちとしては、イエスの母や兄弟たちに同情の念を抱かずにはおれないが、しかしイエスが伝えようとしたのは、真の母、真の兄弟とは、「神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」と言うことなのだ。血が繋がっているからより深く愛することもあるが、血が繋がっているために、より深く憎しみ合うことだってある。つまり「肉親・親族・血縁である」ことは、救いの観点からは何の担保にもならないのだ。真の信仰共同体となるために、形式的にではなく、真に聞き、真に行動する者でありたいと思う。