2022.3.6~2022.3.12の集会案内
本 日 の 集 会
〇朝の勉強会 (1階会議室) 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
〇定期小会 礼 拝 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「日曜学校生徒と教師のため」
〇聖書の学びと祈りの会 3月10日(木)10:00
エステル記7章(担当 三輪 地塩) 司会 野 田 昭 子
※ラインで行います。
次 週 礼 拝
<レントⅡ>
説教 「剣のない者は」 三 輪 地 塩
イザヤ53章11節~12節
ルカによる福音書22章35節~38節
讃美歌 加 藤 純 子
546、465 (1-2)、194 (1-2)、534、540
日曜学校説教「ペトロ、イエスを知らないと言う」
岩 本 道 子
マルコによる福音書14章66節~72節
2022.3.6 週報 教会からのお知らせ
2022.3.6 週報 教会からのお知らせ
【会堂改修の進捗状況】
<2月に終了した改修工事>
外塀塗装
タワースポット メンテおよびLED照明交換
スポット撤去
ガスヒーポン交換2階礼拝堂室内冷暖房
床・壁・天井・LED照明(1F,2Fロビー, 階段エリア他)
<牧師館の改修>
外壁塗装、足場解体、物置解体
内装リフォーム 見積依頼
<追加補修>
1F正面壁面全てにスクリーンマグネットを貼る。
【会堂改修の進捗状況】
<2月に終了した改修工事>
外塀塗装
タワースポット メンテおよびLED照明交換
スポット撤去
ガスヒーポン交換2階礼拝堂室内冷暖房
床・壁・天井・LED照明(1F,2Fロビー, 階段エリア他)
<牧師館の改修>
外壁塗装、足場解体、物置解体
内装リフォーム 見積依頼
<追加補修>
1F正面壁面全てにスクリーンマグネットを貼る。
2022.3.6 の週報掲載の説教
2022.3.6 の週報掲載の説教
<2020年8月23日の説教から>
ルカによる福音書8章22節~25節
『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩
ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。
彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。
このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。
だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。
我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。
このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。
<2020年8月23日の説教から>
ルカによる福音書8章22節~25節
『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩
ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。
彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。
このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。
だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。
我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。
このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。