2022.3.6 の週報掲載の説教

2022.3.6 の週報掲載の説教

<2020年8月23日の説教から>

ルカによる福音書8章22節~25節

『先生、おぼれそうです』
牧師 三輪地塩

ガリラヤ湖を渡った弟子たちは、嵐と風に恐怖していた。彼らは漁師であり、嵐、波、風の動きについての「エキスパート」であった。イエスの最初の弟子であるペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟たちも漁師だった。彼らにとってのガリラヤ湖はホームグラウンドであるため、ちょっとやそっとの嵐では驚かない。だがその彼らが「先生、おぼれそうです」と助けを求めたのだから一大事である。

彼らに海(湖)の知識があったからこそ、状況把握が出来たのであるが、もう一方で「知識を得たからこそ生じる恐れ」もあり得る。人間は知識も経験も必要であり、それによって快適な生活と進歩が支えられてきた。だが知識や経験が先立ち、自分たちが何でも知っていると思うとき、神を忘れさせる負の力、傲慢な思いを生じさせるのではなかろうか。

このとき弟子たちは、実に正しい行動をとっている。それこそが「先生、おぼれそうです」という言葉。一見すると、恐怖に取り付かれ、信仰を見失っているような叫びの言葉であるが、しかしよく考えてみると、彼らの矛先が、躊躇いなくイエス・キリストに向かっていることに注目したい。漁師として海(湖)のエキスパートとしての自分の知識や経験によって、打開することの出来ない恐怖が生じた時、彼らは主の名を呼び、主に助けを求めたのであった。

だが彼らは、あと一歩足りなかった。イエスは「あなた方の信仰はどこにあるのか」と問う。アメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、世界恐慌のさなか次のように言った。「私たちが恐れねばならない唯一のことは、『恐れ』そのものである」と。この言葉に勇気づけられた米国民は奮起し、恐れを乗り越え、大恐慌時代を生き延びたと言われる。

我々の人生の舟の艫にはキリストがおられる。そうであれば我々が恐れるのは「恐怖そのもの」であろう。恐怖とは、自分の心の中の恐れに恐れることである。キリストが共に居ませば、我々が恐れるのは、「自分自身が持つ恐怖心」のみである。

このコロナ禍にあって、世の中には多くの恐怖心が芽生えている。だが恐れることはない。嵐はキリストの支配の中にあるのだから。