2022.7.10 主日礼拝の案内
週 報 77 巻 28 号 2022.7.10
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう
(ローマの信徒への手紙2章16節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 イザヤ書42章1節
1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
わたしが選び、喜び迎える者を。
彼の上にわたしの霊は置かれ
彼は国々の裁きを導き出す。
*讃 詠 (21)28
*罪の告白と赦し 交読詩編148編7節~14節
*讃美歌 (21)6
<神の言葉>
聖 書 詩編1編1節~6節 (旧約P.835)
1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。
ローマの信徒への手紙2章12節~16節(新約P.275)
12 律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13 律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14 たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
15 こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
16 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。
祈 り 伊木 美穂子
*讃美歌 (21)394
説 教
「神の御前で義とされるのは誰か」 鈴木 美津子
<神への応答>
*讃美歌 (21)440
*使徒信条
公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 (21)29
*派遣と祝福
*後 奏
礼拝当番
(今週)三浦勇二
(次週)松谷信司
献金当番
(今週)安井国雄 吉田耕三
(次週)菊地晴子 吉田さとみ
ライブ配信当番
(今週)新畑 信
(次週)小出 勝
2022.7.11~2022.7.17の集会案内
本 日 の 集 会
〇日曜学校 9:00
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 再 開
〇礼拝堂・1階の清掃(有志) 礼 拝 後
〇テモテ交わりの会 休 会
今 週 の 集 会
◎祈祷題「心身の健康が守られるように」
〇聖書の学びと祈りの会 7月14日(木)10:00
ヨブ記15章(担当 鈴木 美津子) 司会 板 垣 玲 子
※対面とラインの両方で行います。
次 週 礼 拝
説教 「心の割礼」 鈴木 美津子
エゼキエル書11章17節~21節
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
讃美歌
546、15、142、260B、53 加 藤 純 子
日曜学校説教
「祝福をだまし取るヤコブ」 伊木 美穂子
創世記27章18節〜29節
2022.7.10 週報 教会からのお知らせ
◇本日からコイノニアを再開いたします。
お帰りの際、水分補給をし、皆さんとの会話は
マスクを着けたままでお願いします。
【大会応援伝道のご案内】
現在無牧の静岡池田伝道所は7月14日に創立記念日を迎え
ます。(1963年創立) どうぞお祈りにお覚え下さい。
7月10日(日)15:00 説教・講演:黒田浩史(住吉教会牧師)
説教:「第二の人生・第三の人生」
講演:「無ぼくの教会生活・信仰の蓄え」
【神学生夏期伝道のお知らせ】
3人の神学生が7月から8月、夏期伝道につかわされます。
4年生:大石啓介→札幌北一条教会 武田 巌→徳島教会
3年生:熱田洋子→秋田教会 *お祈りください。
◇清掃の方が怪我をされたため、当面、会員有志で会堂の清掃を
行うことにいたしましたので、どうぞご協力ください。
2022.7.10 の週報掲載の説教
<2022年6月19日の説教から>
『罪は留まるところを知らない』
ローマの信徒への手紙1章24節~32節
牧師 鈴木 美津子
神が、罪人を「無価値な思いに渡された」という時、神がその人を裁きに委ねたということである。最も厳しい神の裁きである。その人が神の御前で最終的な裁きを受ける時、一切の言い訳は赦されない。その人が「自分が好んで選んだ道に行く」ことだからである。
かつて、アダムとエヴァがそうしたように、罪人は自分が選んだ結果が悪いとなると、他者のせいにしたがる。「あの人がこれをしなければ、私はこの道を選ばなかった」と、結局は神のせいにしようとするのだ。すべてを神のせいにして、ますます神を憎み、他者をも憎むようになる。罪人の裁きは、罪人自身の心から生まれてくるものである。それ故、その人には弁解の余地は全くない。罪に引き渡され、留まるところを知らない罪人の歩む道。これこそが恐るべき裁き、逃がれることのできない神の裁きである。その事を私たちはよく覚えておかなければならない。罪人が苦しむのは、その罪人自らが苦しむことを選んだ結果である。人間は罪の欲によって盲目となり、自分自身を騙し、その滅びの実を何よりも美味しいものとして、自ら求めて選ぶ。もし、人が永遠の罰を受けるなら、それは彼らが祝福よりも地獄を選んだからである。罪人が自由に悪を選んだことがその苦しみの源である。
しかし、悔い改める者はそうではない。悔い改める者は、まず自分の心にある罪を憎み、それに対して真剣に戦わなければならない。しかし、戦いはそれだけでは終わらない。悔い改めた者は、今度は愛をもって、互いの徳を高めあうように、そして皆が成長するように、戦うのである。その戦いの中で、私たちはよく失敗し、愚かなこともしてしまう。けれども、私たちがそのことに気付いた時、私たちは真剣に罪を悔い改めて正しい道に戻ることができる。そして、神の御国、神の義しさ、愛なる神への礼拝をもっと熱心に求めるようになるのである。
その道は、罪人とは正反対の道である。神を愛し感謝して、礼拝する道である。私たちが、第一に自分自身の罪に対抗して立ち、そして真剣に罪に対して戦うならば、私たちは主イエス・キリストの十字架のゆえに勝利を得、善において成長するであろう。なぜなら、主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちがクリスチャンとして成長するための原動力だからである。