2022.7.10 の週報掲載の説教

2022.7.10 の週報掲載の説教

<2022年6月19日の説教から>

『罪は留まるところを知らない』
ローマの信徒への手紙1章24節~32節

牧師 鈴木 美津子

神が、罪人を「無価値な思いに渡された」という時、神がその人を裁きに委ねたということである。最も厳しい神の裁きである。その人が神の御前で最終的な裁きを受ける時、一切の言い訳は赦されない。その人が「自分が好んで選んだ道に行く」ことだからである。

かつて、アダムとエヴァがそうしたように、罪人は自分が選んだ結果が悪いとなると、他者のせいにしたがる。「あの人がこれをしなければ、私はこの道を選ばなかった」と、結局は神のせいにしようとするのだ。すべてを神のせいにして、ますます神を憎み、他者をも憎むようになる。罪人の裁きは、罪人自身の心から生まれてくるものである。それ故、その人には弁解の余地は全くない。罪に引き渡され、留まるところを知らない罪人の歩む道。これこそが恐るべき裁き、逃がれることのできない神の裁きである。その事を私たちはよく覚えておかなければならない。罪人が苦しむのは、その罪人自らが苦しむことを選んだ結果である。人間は罪の欲によって盲目となり、自分自身を騙し、その滅びの実を何よりも美味しいものとして、自ら求めて選ぶ。もし、人が永遠の罰を受けるなら、それは彼らが祝福よりも地獄を選んだからである。罪人が自由に悪を選んだことがその苦しみの源である。

しかし、悔い改める者はそうではない。悔い改める者は、まず自分の心にある罪を憎み、それに対して真剣に戦わなければならない。しかし、戦いはそれだけでは終わらない。悔い改めた者は、今度は愛をもって、互いの徳を高めあうように、そして皆が成長するように、戦うのである。その戦いの中で、私たちはよく失敗し、愚かなこともしてしまう。けれども、私たちがそのことに気付いた時、私たちは真剣に罪を悔い改めて正しい道に戻ることができる。そして、神の御国、神の義しさ、愛なる神への礼拝をもっと熱心に求めるようになるのである。

その道は、罪人とは正反対の道である。神を愛し感謝して、礼拝する道である。私たちが、第一に自分自身の罪に対抗して立ち、そして真剣に罪に対して戦うならば、私たちは主イエス・キリストの十字架のゆえに勝利を得、善において成長するであろう。なぜなら、主イエス・キリストの十字架と復活は、私たちがクリスチャンとして成長するための原動力だからである。