2022.8.28 主日礼拝の案内

2022.8.28 主日礼拝の案内
 
週 報77巻35号 2022.8.28
 
「実に神は唯一だからです。この神は、

割礼のある者を信仰のゆえに義とし、
 
割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。」

(ローマの信徒への手紙3章30節)

 
主 日 礼 拝   午前 10:30
 
奏楽 三 輪 志 都
 
<神の招き>
 
招 詞   ヨハネによる福音書4章23節
 
23  しかし、まことの礼拝をする者たちが、
霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
今がその時である。
なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
 
*讃 詠   545B

*罪の告白と赦し 交読詩編51編1節~11節

*讃美歌   79(1-2)

 
<神の言葉>
 
聖 書
 
申命記6章4節~5節      (旧約P.291)
 
4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 
 
5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、
  あなたの神、主を愛しなさい。
 
ローマの信徒への手紙3章27節~31節(新約P.277)
 
27  では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。 
 
28  なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。 
 
29  それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。 
 
30  実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。 
 
31  それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
 
祈 り               伊木 美穂子
 
*讃美歌  267(1-2)

 
説  教  「神は唯一だからです」    鈴木 美津子
 
<神への応答>
 
*讃美歌   282(1-2)

*使徒信条

公 告

*献金感謝

*主の祈り

*頌 栄   544

*派遣と祝福

*後 奏

 
☆讃美歌は、1節、2節のみとします。

 
礼拝当番
(今週)野田 昭子

(次週)安井 国雄

 
献金当番
(今週)伊木 美穂子 星野 勇

(次週)菊地 晴子 青木 節子

 
ライブ配信当番
(今週)小出 勝

(次週)新畑  信

2022.8.28~2022.9.3の集会案内

2022.8.28~2022.9.3の集会案内
      集 会
 
〇日曜学校(夏の集い)    9:00~10:15

〇朝カフェ          休  会

〇入門の会          休  会

〇クワイア練習        中  止

〇礼拝堂・1階の清掃(有志)   礼 拝 後

〇コイノニア         礼 拝 後

〇日曜学校教師会       礼 拝 後

 
今 週 の 集 会
 
◎祈祷題「充実した礼拝生活のため」
 
〇聖書の学びと祈りの会
7月21日(木)~9月8日(木)まで夏期休会とします。

 
次 週 礼 拝
説教 「信仰による義認」    鈴木 美津子
 
創世記15章1節~6節
ローマの信徒への手紙4章1節~8節
 
讃美歌                                  板 垣 玲 子

546、26(1-2)、267(1-2)、448(1-2)、202、539

 
日曜学校説教「善いサマリヤ人」  岩 本 道 子
ルカによる福音書10章25節~37節

2022.8.28 週報 教会からのお知らせ

2022.8.28 週報 教会からのお知らせ
◇日曜学校「夏の集い」は、通常の日曜学校の時間に行います。

テーマ:「日曜学校のお友だちと楽しい時を過ごす」
 
【一日神学校案内】
日時:2022年9月19日(月・休) 10時30分~14時30分

講義:「三日学ぶとやめられない(!?)~聖書ヘブル語の真理」

講師:大石周平(旧約学部門講師)

*講義のほか、昼食、礼拝、神学生による神学校紹介、神学校見学を予定。

 
【オンライン青年会のお知らせ】
日時:9月18日(日) 13:00~14:30

REBOOT:全国青年の集い Zoomを使用

申込フォームなどはチラシにあります。(チラシは掲示板に)

 
◇牧師夏期休暇のお知らせ
期日:9月6日(火)~14日(水)

夏期休暇中の緊急連絡は書記森﨑千恵、増田裕子まで。

2022.8.28 の週報掲載の説教

2022.8.28 の週報掲載の説教
<2022年7月24日説教から>

『神は真実なお方である』
ローマの信徒への手紙3章1-8節

牧 師 鈴木美津子

神の真実は一体どこに現されたのか?それは主イエス・キリストの十字架の死と復活によってである。パウロは、「救いは律法を善い行いによって得られるのではなく、主イエスの十字架と復活によって罪人を赦し、義として下さった神の恵みを信じることによってのみ与えられる」、と語る。しかし、ユダヤ人は「パウロの言葉は、善への努力や熱意を失わせる。なまじ良い人間であろうとして偽善に陥るならば、罪人であることに徹した方がよいなどという思いを生じる」、と反論する。パウロは「決してそうではない」、とユダヤ人の屁理屈を退ける。

パウロの語る「罪の赦しの福音」は、私たちを、善に熱心でない者、良いことのために努力しないで、むしろ悪に留まろうとする者を生じさせることは決してない。なぜなら、この福音は、十字架につけられた主イエスによって実現したものだからである。人間の罪に対する神の怒りと、神がご自分の約束にどこまでも誠実であるという神の真実は、主イエス・キリストの十字架において現された。

主イエスの十字架と復活は、私たちの不誠実や罪が、神の救いの約束を無にしてしまわないためのもの。私たちが受けるべき神の怒り、裁きを、主イエスが代って受けて下さったことによって、私たちに罪の赦しが与えられた。この主イエスの十字架の苦しみと死においてこそ、神の真実が誰にも明らかにされたのである。

この神の真実を見つめるなら、そこには、「人の犯した罪が救いを明らかにするなら、罪を犯した方がよい」などという屁理屈が入り込む余地はない。逆に言えば、主イエスの十字架における神の真実を真剣に見つめることがなければ、私たちは、ユダヤ人のように間違った理解に陥って屁理屈をこね、自分の罪を真剣に見つめて悔い改めることをしないで、かえって罪の中に安住するための口実にしてしまうであろう。

私たちが、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、復活して新しい命を与えて下さった主イエスの救いを受け留めるとき、主イエスとの交わりに真に生きるとき、「私たちの罪のゆえに神の真実が無になることはない」という御言葉が私たちをどんな時にも支えるのである。私たちは常に罪に陥ってしまうような愚かで弱い者であるが、この神の真実に支えられているので、御心に適った歩みを求めていくことができるのである。