2022.8.14 主日礼拝の案内
週 報77巻33号 2022.8.14
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
(マタイによる福音書5章16節)
主 日 礼 拝 午前 10:30
<平和記念合同礼拝> 奏楽 加 藤 純 子
<神の招き>
招 詞 ヨハネによる福音書4章23節
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
*讃 詠 (21)29
*罪の告白と赦し 交読詩編32編6節~11節
*讃美歌 (21)226(1、3)
<神の言葉>
聖 書
レビ記2章13節 (旧約P.164)
13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。
あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。
献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。
箴言4章18節 (旧約P.995)
18 神に従う人の道は輝き出る光
進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
マタイによる福音書5章13節~16節(新約P.6)
13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
祈 り 松 谷 信 司
*讃美歌 (21)567(1-2)
説 教 「地の塩・世の光」 鈴木 美津子
<神への応答>
*讃美歌 (21)507(1-2)
*使徒信条
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。
わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで
苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に
死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。
わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン。
公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄 (21)26
*派遣と祝福
*後 奏
☆讃美歌は、1節、2節のみとします。
礼拝当番
(今週)菊地晴子
(次週)伊木 美穂子
献金当番
(今週)薄田東正 安井英子
(次週)森﨑千恵 國見照子
ライブ配信当番
(今週)小出 勝
(次週)新畑 信
2022.8.15~2022.8.22の集会案内
本 日 の 集 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇礼拝堂・1階の清掃(有志) 礼 拝 後
〇コイノニア 礼 拝 後
〇DVD上映
「荒野に希望の灯をともす」 1階会堂 12:30
~医師・中村哲 現地活動35年の軌跡~
〇長老・委員協議会(南浦和・大宮東・浦和) 同 上 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題「世界平和のため」
〇聖書の学びと祈りの会
7月21日(木)~9月8日(木)まで夏期休会とします。
次 週 礼 拝
説教 「神の示された義」 鈴木 美津子
詩編103編1節~13節
ローマの信徒への手紙3章23節~26節
讃美歌 545A、73(1-2)、246(1-2)、258(1-2)、543
岩 本 道 子
日曜学校説教
「右の頬を打たれたら」 増 田 裕 子
マタイによる福音書5章38節~42節
2022.8.14 週報 教会からのお知らせ
◇礼拝後12時半から、DVDの上映をいたしますので、開始までに各自昼食をお済ませください。お持ちでない方には多少おにぎりの準備があります。
◇「浦和教会の集い」開催のお知らせ
10月9日(日)礼拝後、教会員や家族、浦和教会に出席して
いる方々の交わりを深めるための集まりを開催します。
内容:茶菓、コーヒーなど飲み物、サンドウイッチ、栞、カードの販売。絵の展示、整体などの企画もします。出品、出店、企画のご希望の方が、ありましたら、小会までお知らせください。
【維持献金・共助金庫献金のお願い】
*月々の維持献金は教会を支えるため、共助金庫献金は引退牧師と配偶者の生活を支える大事な献金です。出席者の減少と共に大幅に減少しております。どうぞお覚えください。
2022.8.14 の週報掲載の説教
<2022年7月17日説教から>
『心の割礼』
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
牧 師 鈴木美津子
割礼は、ユダヤ人にとって、神の民であることの確かな徴であり、自分たちが世の終わりの裁きにおいて救われることの保証であった。しかし、パウロは、「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」と記す。要するに、内面がユダヤ人である者、霊によって心に施された割礼を受けている者こそが真のユダヤ人だ、ということである。
ユダヤ人が絶対なものとしていた肉に施された割礼を、パウロは、なぜ、相対的なものと見なすことができたのか?それは、パウロが神の霊によって心の割礼を受けていたからである。それはパウロだけではない。悔い改めて、主イエス・キリストを信じた私たちも、同様に聖霊による心の割礼を受けた者たちである。それゆえ、私たちこそ、真のユダヤ人なのだ。パウロは、「その誉れは人からではなく、神から来る」と記している。これはユダヤ人という言葉が「ほめたたえる」という意味のユダを起源としていることと関係する。創世記29章35節に「レアはまた身ごもって男の子を産み、『今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう』と言った。そこで、その子をユダと名付けた」と記されている。新しい命が誕生したその瞬間に、その子は「主をほめたたえる」、と命名された。ユダヤ人たちは、その名前の起源である、「主をほめたたえる」、という大切な役割を忘れて、ただ割礼の徴や、律法遵守に自らの立場を築いていたのである。これがパウロの言う「外見上のユダヤ人、外見上の割礼」ということである。中身がない、上っ面だけ、ということである。
これは、ユダヤ人だけに突きつけられているのではなく、私たちも同様である。洗礼を受けて新しい命をいただくのは、「主をほめたたえる」ためである。私たちが真のキリスト者であり真の受洗者である、という何よりの証は、主を賛美することである。信仰生活を続けるうちに、この賛美や喜びが失われることこそが深刻なことである。自分の信仰が弱いとか、洗礼の記憶が色褪せていくことなど大した問題ではない。大切なのは、遣わされた場所で、そして何よりも毎週の礼拝で、精一杯、主を賛美しているのかいないのか、それが真のキリスト者の指標である。