2022.11.6 の週報掲載の説教

2022.11.6 の週報掲載の説教

2022925日の説教から>
『希望に反して望みを抱く』
ローマの信徒への手紙4章17節~25節

牧 師 鈴木美津子

 
「信仰の父」と崇められるアブラハムではあるが、聖書の記録によれば、約束の長子イサクが生まれる直前まで、不信仰な姿を晒している。アブラハムは、神に召命をいただいた75歳の時、エジプト人を恐れ、自分の命を守るために、不信仰にも妻であるサラをエジプトの王ファラオに差し出している。しかし、99歳になったアブラハムは、この20年前と全く同じ過ちを繰り返しているのだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、またもや「これはわたしの妹」と嘘を言ったので、ゲラルの王アビメレクはサラを召し入れたのだった。

しかし、実に、その不信仰の極みで、約束の長子イサクが与えられたのだった。アブラハムが不信仰であっても、契約違反を重ねても、神は真実で、約束を守られる方である。それを確かに御言葉は証明している。結局、この神の真実が、アブラハムに信仰を与えただけでなく、彼の信仰を確立し、導き守ったのである。つまり、パウロが「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」、と語る時も、アブラハムが不信仰に陥っていたこともあったということである。

しかし、不信仰の只中にあったとしても、神は真実なお方で約束を守られたのである。

確かにアブラハムは、愚直に神に従った。彼はその点においては信仰の父である。しかし、その信仰に全く疑いがなかったということではない。むしろ疑えなかったということだ。たとえ不信仰な者であっても、疑えないほどに神は真実である。そのことを聖書は証ししているのだ。つまり、「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく(20)」と、いう言葉において、アブラハムの傷だらけの信仰生活が脈打っているのだ。2度も3度も同じ偽りと同じ罪を繰り返すアブラハムは、自分の弱さをよく知っていた。だから、神に頼るほかなかった。私たちもそうではないか。私たちもアブラハムと同様に、同じ罪ばかりを繰り返し犯す者ではないか。まさに、そこに私たちのそれぞれの弱さがあるのだ。

それでも尚、私たちの神は、悔い改めて立ち帰る時、赦してくださる。だから、私たち罪人は神に頼るほかないのだ。そうである以上、失敗の数とか、今の自分の姿であるとか、そのようなものは問題ではない。大切なことは、その惨めな自分の姿を認めて、徹底的に悔い改めることである。