2022.11.27 の週報掲載の説教

2022.11.27 の週報掲載の説教
<2022年10月9日の説教から>

『キリストを通して与えられた神との平和』
ローマの信徒への手紙5章6-11節

牧 師 鈴木美津子

 
私たちは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神との平和を与えられた。そして、私たちは神と和解し、神の前に立つことが赦されている。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしている。

5章の冒頭で、「私たちは、信仰によって義と認められたゆえに、神との平和を得て、神の栄光の希望を誇る」と語ったパウロは、5章の終りには、私たちが神の栄光の希望を誇るにとどまらず、「神ご自身を誇る」と語っている。

「誇る」とは、「喜ぶ」とも訳される。その意味は、「満ちあふれるほどの喜び」である。平和の中にあり、恵みの領域の中にある私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいる。神の栄光を喜んでいる私たちは、試練のただ中でも喜ぶ。そして、最後に私たちは神ご自身を大いに喜ぶのである。大いに誇るのである。

私たちは、神がただ何か与えてくださるから、ただ助けてくれるから喜ぶのではない。神の救いの偉大さに思いを馳せ、神が与えてくださるものを大いに喜ぶ。神が常にともにいてくださることを大いに喜ぶ。そして、私たちは、神ご自身を大いに喜ぶ。神を求め、神を知り、その神ご自身を喜ぶのである。神ご自身を喜ぶのが本当に成長したクリスチャンの信仰だということである。

私たちが、神ご自身に目を留めて歩むのであれば、私たちの喜びはますます大きくなり、溢れ出し、そして深くなる。私たちが、真に主イエス・キリストに目を留めて歩むのであれば、喜ばないではいられなくなる。これほど偉大で素晴らしい神が、私のような小さな者を愛してくださったのだ。主イエス・キリストが私と共に歩んでおられる。それを真に知るとき、私たちは喜ばずにはいられない。

それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです(11)」。そうであるからこそ、私たちは、天に召されるその日まで、その人生の全てにおいて神ご自身を誇り、喜んで歩むのである。