2026.5.3 週報掲載の説教

2026.5.3 週報掲載の説教

<2026年2月8日の説教から>

悲しみは喜びに変わる

ヨハネによる福音書16章16節〜33節

牧師 鈴木美津子

ヨハネによる福音書16章後半は、十字架を前にした夜、主イエスが弟子たちに語られた最後の長い教えの締めくくりである。弟子たちは主イエスと同じ食卓を囲みながらも、迫害や別れ、散らされることが語られる中で、不安と戸惑いのただ中に置かれていた。主が語られた「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる(16)」という言葉も、弟子たちを安心させるものではなく、かえって混乱を深めた。弟子たちは主の前にいながら、その意味を直接問いかけることができず、互いの間で語り合うしかなかった。

主イエスは、その弟子たちの悲しみを、子を産む女性の苦しみにたとえられる。ここで主が語られるのは、苦しみが軽くなるということではない。出産の苦しみがそうであるように、悲しみは重く、説明し尽くせない現実である。しかしその苦しみが、新しい命へと結ばれる出来事の中に置かれるとき、後から別の光のもとで受け止め直される。弟子たちの別れや沈黙の悲しみもまた、神の救いから切り離された出来事ではなかった。

復活の後、「その日」には、弟子たちは主イエスの名によって、父なる神に祈る者とされる。祈りは、努力して身につける技術ではなく、復活によって新しく開かれた神との関係そのものである。問いが消えてしまうのではなく、恐れの中で抱え込まれていた問いが、信頼の中で神に向かって語られるようになる。

弟子たちは主イエスへの信仰を告白するが、その信仰はなお弱く、この先に起こる出来事に耐えきれるものではなかった。彼らはやがて主を置いて逃げてしまう。しかしそれでも、主は弟子たちを見捨てず、「わたしは既に世に勝っている」と語られる。ここにある平安と喜びは、人の信仰の強さや理解の深さに基づくものではなく、イエス・キリストご自身がすでに成し遂げておられる勝利に基づくものである。教会もまた弱さを抱えながら、この確かな約束に支えられて、慰めの中を歩み続けていく。