2026.6.7 週報掲載の説教

2026.6.7 週報掲載の説教

<2026年3月8日説教>

一つとなるための祈り』
ヨハネによる福音書17章20節〜26節

鈴木美津子

 
ヨハネ福音書17章20〜26節には、十字架へと向かわれる直前の夜、イエス・キリストがささげられた祈りが記されている。主イエスは、

その場にいた弟子たちのためだけでなく、「彼らの言葉によって

わたしを信じる人々」のためにも祈られた。すなわち、後の時代を生きる私たちもまた、この祈りの視野の中に含まれているのである。私たちは自分の意思で信仰の場に来たように感じることがあるが、その背後にはすでに主イエスの祈りがある。私たちはまず「祈られている者」として、この礼拝の場に集められているのである。

主イエスが祈られた中心は、「一つとなる」ことであった。しかし、ここで語られている「一つ」とは、考え方や感じ方が同じになること

ではない。父なる神と子なるイエス・キリストが、それぞれでありな

がら深く結ばれておられる関係が示されているように、違いを抱えた

まま、なお神のもとで結ばれることが「一つ」である。教会の一致とは、私たちが努力して作り出す成果ではなく、主イエスの祈りの中で父な

る神に委ねられ、与えられる恵みである。

さらに主イエスは、「世が、あなたがわたしを遣わされたことを信

じるためである」と祈られた。これは、教会がうまくまとまった姿を

見せることによって人が信仰を持つ、という意味ではない。教会が

「キリストを中心とする群れ」として生かされること自体が、結果と

して世に向けた証しとなるのである。

詩編133編もまた、「共に座る」ことを、人間の努力の成果ではなく、上から与えられる恵みとして語っている。油や露のたとえが示すように、一致は人の側で作り出すものではなく、神から注がれる祝福である。レントの歩みの中で、私たちは自分を整えきってから歩み出すのではなく、まず祈られている者として、同じ十字架のもとに立たされている恵みを受け取りつつ、それぞれの場所へと遣わされていくのである。