<2026年3月15日説教>
『杯を受けるイエス様』
ヨハネによる福音書18章1節~11節
鈴木美津子
ヨハネによる福音書18章は、17章で語られたイエス・キリストの祈りが、出来事として動き始める場面である。主イエスは弟子たちのために祈られたが、その祈りは言葉だけにとどまらず、ご自身の行動として現れていく。祈られたことを、主ご自身が身をもって引き受けて歩まれるのである。
主イエスは、捕らえられる危険が高いと知りながら、弟子たちと共に園に入られた。逃げることもできたが、あえてその場にとどまり、ご自身から前に進み出て名乗られる。捕らえられる場面でありながら、なお主として立っておられる姿が示されている。また、「この人々は去らせなさい」と語り、ご自身の身を差し出すことで弟子たちを守られた。これは、ヨハネ17章で語られた「一人も失わない」という祈りが、具体的な出来事として現れた姿である。
剣を抜いたペトロに対し、主イエスは「剣をさやに納めなさい」と語られた。主イエスの救いの歩みは、暴力によって切り開かれる道ではなく、ご自身が傷を引き受けることによって命を生かす道である。そして「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と語られ、十字架へと向かう歩みを、父なる神の御心として引き受けられる。
ここで旧約聖書ゼカリヤ書13章7節の「撃たれる羊飼い」の預言が重なる。羊飼いが撃たれ、羊が散らされる現実のただ中に、神の救いの御業は進められていく。弟子たちが恐れの中で散らされていく現実を知りながら、なお主イエスはこの杯を受けられた。この杯は、主イエスお一人の苦しみではなく、私たちの弱さと崩れやすさを引き受ける杯である。主イエスがこの杯を飲み切ってくださったゆえに、私たちは罪赦され、なお神のもとに保たれ、再び歩み出す者とされているのである。
