2026.6.21 週報掲載の説教

2026.6.21 週報掲載の説教

<2026年3月22日説教から>

否認の闇の中で

ヨハネによる福音書18章12節〜27節

鈴木美津子

本日の箇所は、イエス・キリストが捕らえられ、大祭司の屋敷の中で取り調べを受ける場面と、弟子のペトロが屋敷の外の庭で主イエスを否認する場面とが、交互に描かれている。内側ではイ主エスが人々の前に立たされ、外側ではペトロが人の輪の中で身を縮めている。この対照の中で、人の弱さと、主の揺るがない歩みとがはっきりと示されているのである。

主イエスは、大祭司の前で、これまでの教えと歩みを隠すことなく語られた。人目を避けた不当な取り調べの場であっても、何一つ言い逃れをせず、これまで公の場で語ってきた事実をそのまま示されたのである。下役に打たれても、怒りで打ち返すことはなさらず、「正しいことを言ったのなら、なぜ打つのか」と問い返された。イエスは、力で相手をねじ伏せるのではなく、暴力によって事を進めることの誤りを示しながら、正しさがどこにあるのかを明らかにしようとされたのである。

一方、外の庭にいたペトロは、人々の視線を気にしながら火のそばに立っていた。主イエスのもとへ向かうことも、完全に離れることもできず、その間に立ち尽くしていた。問いを重ねられる中で、ペトロはついに「知らない」と主を否んでしまう。これは、ただの言い逃れではなく、「関係がない」と口にしてしまう言葉であった。主イエスを大切に思っていながらも、恐れの中でその関係を守り切れない人間の現実が、ここに示されているのである。

しかし、弟子のつまずきによって、主の十字架への歩みが止まることはなかった。主イエスは、弟子たちの弱さを知ったうえで祈り、実際につまずいた後も見捨てることなく、復活の後にペトロを再び立ち上がらせてくださる。救いは、人の強さや忠実さによって支えられているのではない。主の変わらない忠実さによって支えられているのである。レントの歩みの中で、私たちは自分の弱さを見つめつつ、なお逃げずに歩み続けられた主の忠実さに立ち返るのである。