2021.11.7 の週報掲載の説教
<2020年6月7日の説教から>
ルカによる福音書6章37節~42節
『まず自分の目から丸太を取り除け』
牧師 三輪地塩
この箇所は、実にアイロニックである。37節の「人を裁くな」「人を罪人だと決めるな」の言葉は、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」という主の祈りの一節が共鳴する。我々は人を裁きがちである。人の罪や間違いはよく見えるし指摘しやすい。だが自分の罪を直視させられるのは嫌いだし、人から間違いを指摘されるとムキになって怒り出す。実にしょうもない存在だ。こんな人間の性質・弱さ・悪さ・汚さについて、今日の箇所は包み隠さず語っている。
38節の「自分の量る秤で量り返される」と「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして」という言葉は難しい。だが、当時の文化的背景から読むと多少分かり易くなる。つまり「収穫物を測量するイメージ」で語られているのである。「秤」と言われているのは「麦を入れる秤」「升」のこと。「量りを良くする」は、升から溢れるほど山盛りに麦を入れ、山盛りの升の上部を板か何かで、すぅ~っと払い落とした、ちょうど一杯分の升の量、それを「良い量り」と呼ぶ。つまり満タンだ。それに対し「悪い量り」とは、升が満タンになっていない状態。升一杯分より少ない状態のことを「悪い量り」と呼んでいる。
イエスは今日の箇所で「押し入れ、揺すり入れ、溢れるほどに量りを良くして、ふところに入れてもらえる」と語られる。それは、良い量りの上に、更に「押し込んでくれる」ということである。ただでさえ、たくさん入っているのに、それ以上にギュウギュウに押し込んで入れてくれる。少しでも隙間があれば、升を揺すって麦をねじ込んでくれるというのだ。そして遂には升が溢れてしまうほどたくさんの麦を升に入れてくれる。その様子を表わしている。つまり、それだけたくさんの恵みを我々に与えて下さるという比喩である。
我々は、浅はかで、人を愛せず、赦せない。使徒パウロの言葉を借りると「土の器」である。だが、この小さな器の小さな信仰者の「小さな升」の中に、神は恵みと祝福を「ギュウギュウに」たくさん入れてくれる方なのだ。何とかして、揺すり、空間を作り、押し込み、溢れてしまうほどに祝福をねじ込んで下さる方。それが神なのだ。我々にとって神の恵みとはそういうものなのだ、とイエスは比喩をもって語っている。
2021.10.31 主日礼拝録画映像
主日礼拝録画映像
2021年10月31日(日) 10時30分~
スマホおよびPADでも視聴できます!

URL; https://youtu.be/xlwvvhULBTQ
上記,下線の部分をクリックしてください。
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スマホおよびPADでも視聴できます!
************************************2021.10.31 主日礼拝の案内
主 日 礼 拝 午前10:30
<宗教改革記念日礼拝>
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 ヨエル書 3章1節
神の霊の降臨
1その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し
老人は夢を見、若者は幻を見る。
*讃 詠 546罪の告白と赦し 交読詩編119編137節~144節
*讃美歌 58 〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 創世記3章17節~19節 (旧約P. 4)
17神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
19お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
ルカによる福音書19章37節~48節(新約P.147)
37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、
弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、
声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。
天には平和、いと高きところには栄光。」
39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
41エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
42言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
43やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
44お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
神殿から商人を追い出す
45それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
46彼らに言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
祈 り 増 田 裕 子
*讃美歌 537〔1-2〕 説 教 「この人たちが黙れば、石が叫びだす」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 243〔1-2〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 540
*後 奏
************************************
今こそ私たちの祈りを結集させ、主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に、
NEW! 2021.10.31 主日礼拝の案内
2021.10.31 主日礼拝の案内
週 報 76 巻 44 号 2021.10.31
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
(ルカによる福音書19章41節~42節)
主 日 礼 拝 午前10:30
<宗教改革記念日礼拝>
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 ヨエル書 3章1節
*讃 詠 546
罪の告白と赦し 交読詩編119編137節~144節
*讃美歌 58 〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 創世記3章17節~19節 (旧約P. 4)
ルカによる福音書19章37節~48節(新約P.147)
祈 り 増 田 裕 子
*讃美歌 537〔1-2〕 説 教 「この人たちが黙れば、石が叫びだす」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 243〔1-2〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 540
*後 奏
礼拝当番(今週)安井 国雄
(次週)三浦 勇二
ライブ配信当番
(今週)小出 勝
(次週)小出 勝
週 報 76 巻 44 号 2021.10.31
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
(ルカによる福音書19章41節~42節)
主 日 礼 拝 午前10:30
<宗教改革記念日礼拝>
奏楽 板 垣 玲 子
<神の招き>
招 詞 ヨエル書 3章1節
*讃 詠 546
罪の告白と赦し 交読詩編119編137節~144節
*讃美歌 58 〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 創世記3章17節~19節 (旧約P. 4)
ルカによる福音書19章37節~48節(新約P.147)
祈 り 増 田 裕 子
*讃美歌 537〔1-2〕 説 教 「この人たちが黙れば、石が叫びだす」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 243〔1-2〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 540
*後 奏
礼拝当番(今週)安井 国雄
(次週)三浦 勇二
ライブ配信当番
(今週)小出 勝
(次週)小出 勝
2021.10.31~11.6 の集会案内
2021.10.31~11.6 の集会案内
本 日 の 集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
〇墓前礼拝(青葉園) 13:30
今 週 の 集 会
◎祈祷題
「会堂改修のため」
「日本軍『慰安婦』問題と取り組む会主催 映画会のため」
〇聖書の学びと祈りの会
11月4日(木)10:00
ネヘミヤ記4章(担当 三輪地塩)司会 安 井 英 子
※ラインで行います。
次 週 礼 拝
説教
「キリストの権威」 三 輪 地 塩
イザヤ書22章12節~14節
ルカによる福音書20章1節~8節
讃美歌
545A、61 (1-2)、Ⅱ195(1-2)、502 (1-2)、541
岩 本 道 子
本 日 の 集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 礼 拝 後
〇墓前礼拝(青葉園) 13:30
今 週 の 集 会
◎祈祷題
「会堂改修のため」
「日本軍『慰安婦』問題と取り組む会主催 映画会のため」
〇聖書の学びと祈りの会
11月4日(木)10:00
ネヘミヤ記4章(担当 三輪地塩)司会 安 井 英 子
※ラインで行います。
次 週 礼 拝
説教
「キリストの権威」 三 輪 地 塩
イザヤ書22章12節~14節
ルカによる福音書20章1節~8節
讃美歌
545A、61 (1-2)、Ⅱ195(1-2)、502 (1-2)、541
岩 本 道 子
2021.10.31 週報 教会からのお知らせ
2021.10.31 週報 教会からのお知らせ
◇本日、墓前礼拝のための配車は致しませんので、ご了承
ください。
◇次週11月7日(日) 9:00~9:30地域の清掃に有志が参加
いたします。
◇会堂改修工事についてお知らせ
①1階の床・壁の張替が終了しました。
②11月からは2階の工事をいたします。1階会堂で礼拝を
することがありますので、ご了承ください。
【日本軍『慰安婦問題』と取り組む会主催映画会】
11月3日(休・水) 14:00~16:30 *予約は前日20:00まで
『アリランのうた-沖縄からの証言-』をzoomで上映します。
全員協議会公告
日時:11月14日(日)礼拝後12:00~13:30
内容:「浦和教会の今後について」
参加:浦和教会の会員
*昼食をとる方は開始までにお済ませください。
◇本日、墓前礼拝のための配車は致しませんので、ご了承
ください。
◇次週11月7日(日) 9:00~9:30地域の清掃に有志が参加
いたします。
◇会堂改修工事についてお知らせ
①1階の床・壁の張替が終了しました。
②11月からは2階の工事をいたします。1階会堂で礼拝を
することがありますので、ご了承ください。
【日本軍『慰安婦問題』と取り組む会主催映画会】
11月3日(休・水) 14:00~16:30 *予約は前日20:00まで
『アリランのうた-沖縄からの証言-』をzoomで上映します。
全員協議会公告
日時:11月14日(日)礼拝後12:00~13:30
内容:「浦和教会の今後について」
参加:浦和教会の会員
*昼食をとる方は開始までにお済ませください。
2021.10.31 の週報掲載の説教
2021.10.31 の週報掲載の説教
<2020年5月17日の説教から>
ルカによる福音書6章20節~26節
『貧しい人々は幸いである』
牧師 三輪地塩
平地の説教と言われるこの箇所、イエスは開口一番、「貧しい人々は」と語られる。この言葉は重要である。それは、マタイ福音書の「山上の説教(5~7章)」と比べると良くわかる。マタイでは「心の貧しい人々」とあり、貧しさを「心」に限定しているのに対し、ルカでは、「貧しい人々」と呼び掛け、「現実の貧しさ」にスポットを当てている。
ギリシャ語の「貧しい人」は「プトーコス」という単語が使われる。プトーコスは「謙遜」「卑下」の意味を含まない「本当の貧しさ」を表す言葉である。プトーコスは「普通の生活ができる貧乏ぶり」や、「借金返済のため何とか遣り繰りしている状態」を含まない、「極めて貧困な状態」「本当の窮乏」を示す言葉である。現在は差別用語であるが、かつてはこれを「乞食」と訳すことも出来た言葉こそが「プトーコス」であった。この言葉で言い換えることが許されるならば、「乞食たちは幸いだ」と言っている。これは非常にインパクトのある言葉となる。「乞食」は差別・侮蔑の意味を含んでいる。その人たちは「幸いだ」という。嫌味で言っているのではない。イエスはこれを真実として語るのである。
すなわち、社会的に差別され、肉体的に飢え、生きることすらままならない、世間的には価値のない者たち、と思われている「プトーコス」「乞食」「貧しい人々」こそが、まさに神の祝福の対象者だと聖書は述べている。神の福音はこれらの者のために与えられていると断言される。貧しいヨセフとマリアのもとで主イエスがお生まれになったのも、ガリラヤの片田舎にいた者たちを弟子として呼び集めたのも、「貧しい者」が「幸いなる者」であることを示している。それは、財産における貧しさのみならず、病気、差別や、徴税人、娼婦、罪人などに至るまで、福音が貧しい者のために語られることを示している。我々は、自らの身に「罪」というどうしようもない「貧しさ」を帯びている。この貧しさを贖われるのが、自ら貧しさの極致を歩まれたキリストに他ならない。
<2020年5月17日の説教から>
ルカによる福音書6章20節~26節
『貧しい人々は幸いである』
牧師 三輪地塩
平地の説教と言われるこの箇所、イエスは開口一番、「貧しい人々は」と語られる。この言葉は重要である。それは、マタイ福音書の「山上の説教(5~7章)」と比べると良くわかる。マタイでは「心の貧しい人々」とあり、貧しさを「心」に限定しているのに対し、ルカでは、「貧しい人々」と呼び掛け、「現実の貧しさ」にスポットを当てている。
ギリシャ語の「貧しい人」は「プトーコス」という単語が使われる。プトーコスは「謙遜」「卑下」の意味を含まない「本当の貧しさ」を表す言葉である。プトーコスは「普通の生活ができる貧乏ぶり」や、「借金返済のため何とか遣り繰りしている状態」を含まない、「極めて貧困な状態」「本当の窮乏」を示す言葉である。現在は差別用語であるが、かつてはこれを「乞食」と訳すことも出来た言葉こそが「プトーコス」であった。この言葉で言い換えることが許されるならば、「乞食たちは幸いだ」と言っている。これは非常にインパクトのある言葉となる。「乞食」は差別・侮蔑の意味を含んでいる。その人たちは「幸いだ」という。嫌味で言っているのではない。イエスはこれを真実として語るのである。
すなわち、社会的に差別され、肉体的に飢え、生きることすらままならない、世間的には価値のない者たち、と思われている「プトーコス」「乞食」「貧しい人々」こそが、まさに神の祝福の対象者だと聖書は述べている。神の福音はこれらの者のために与えられていると断言される。貧しいヨセフとマリアのもとで主イエスがお生まれになったのも、ガリラヤの片田舎にいた者たちを弟子として呼び集めたのも、「貧しい者」が「幸いなる者」であることを示している。それは、財産における貧しさのみならず、病気、差別や、徴税人、娼婦、罪人などに至るまで、福音が貧しい者のために語られることを示している。我々は、自らの身に「罪」というどうしようもない「貧しさ」を帯びている。この貧しさを贖われるのが、自ら貧しさの極致を歩まれたキリストに他ならない。
