2021.10.31 の週報掲載の説教

2021.10.31 の週報掲載の説教
<2020年5月17日の説教から>

ルカによる福音書6章20節~26節

『貧しい人々は幸いである』
牧師 三輪地塩

平地の説教と言われるこの箇所、イエスは開口一番、「貧しい人々は」と語られる。この言葉は重要である。それは、マタイ福音書の「山上の説教(5~7章)」と比べると良くわかる。マタイでは「心の貧しい人々」とあり、貧しさを「心」に限定しているのに対し、ルカでは、「貧しい人々」と呼び掛け、「現実の貧しさ」にスポットを当てている。

ギリシャ語の「貧しい人」は「プトーコス」という単語が使われる。プトーコスは「謙遜」「卑下」の意味を含まない「本当の貧しさ」を表す言葉である。プトーコスは「普通の生活ができる貧乏ぶり」や、「借金返済のため何とか遣り繰りしている状態」を含まない、「極めて貧困な状態」「本当の窮乏」を示す言葉である。現在は差別用語であるが、かつてはこれを「乞食」と訳すことも出来た言葉こそが「プトーコス」であった。この言葉で言い換えることが許されるならば、「乞食たちは幸いだ」と言っている。これは非常にインパクトのある言葉となる。「乞食」は差別・侮蔑の意味を含んでいる。その人たちは「幸いだ」という。嫌味で言っているのではない。イエスはこれを真実として語るのである。

すなわち、社会的に差別され、肉体的に飢え、生きることすらままならない、世間的には価値のない者たち、と思われている「プトーコス」「乞食」「貧しい人々」こそが、まさに神の祝福の対象者だと聖書は述べている。神の福音はこれらの者のために与えられていると断言される。貧しいヨセフとマリアのもとで主イエスがお生まれになったのも、ガリラヤの片田舎にいた者たちを弟子として呼び集めたのも、「貧しい者」が「幸いなる者」であることを示している。それは、財産における貧しさのみならず、病気、差別や、徴税人、娼婦、罪人などに至るまで、福音が貧しい者のために語られることを示している。我々は、自らの身に「罪」というどうしようもない「貧しさ」を帯びている。この貧しさを贖われるのが、自ら貧しさの極致を歩まれたキリストに他ならない。