聖書の学びと祈りの会 聖書研究ーサムソン物語!!

 1カ月かけて士師記13章~16章を1章ずつやりました。いや~サムソン物語はおもろい。なんなんだこの人は、と思いつつ、読む人の心の中に「あ、自分にも心当たりがあるな」などと自らを投影させてしまう何かがありますね。つまりサムソンは人間っぽいんですね。実に人間臭く、罪人なんですね。そこにわたしたちは共感するんでしょう。
 今回のサムソン物語では、色んな解釈者、神学者、評論家、小説家たちが描くサムソン像(デリラ像)を比較検討してみました。実に大変面白かったです。(^o^)/

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー出エジプト記5章1節-23節 2011年9月22日

 出エジプト記5章1節-23節 2011年9月22日
この箇所はモーセとアロンのファラオに対する対決が記される(5:1-5)。
次にファラオは「追い使う者」と「下役」に命じて、ヘブライ人への労働を一層過酷なものにしている(5:6-9)。
同じ数量の煉瓦を、わらを支給せずに作れという。彼らはイスラエルの民にこの命令を実行させる(5:10-14)。
その結果イスラエルの下役たちがファラオのところへ行って、不当な労働に抗議する(5:15-16)。
しかしファラオはイスラエル人は怠け者であると言うのみで命令を撤回しなかった(5:17-18)。
下役たちは自分たちが苦境に立たされた事を悟り、モーセとアロンに抗議して自分たちの困窮を訴えた(5:21)。
モーセはこの抗議を主に訴えた(5:22-23)。
主は6:1でモーセに主の強い御手の力がファラオに向かって示されることを約束された。
そして7:1-11:10の10の災いが示される。
 モーセとアロンは民の批判を受けている。しかしこの時の会話を見てみると面白い事が分かる。ここでの会話をしているのは、ファラオ、民を追い使う者たち、イスラエル人の監督として立てられた下役たち、モーセとアロン、そして神である。しかしここでは民だけが沈黙している。彼らは語られ、問い掛けられはするが(5:10、13)、彼らは応答の言葉が用いられない。これらの直接話法が民の沈黙を囲い込み、5章12節はその真ん中に位置している。しかしこれによって逆に語り手は民の困窮と忍耐しなければならない苦難を如実に表しているのである。彼らは上の言うとおりに働く以外に自らの生きる道を持っていないのである。9節~21節には「アーバド」(使役する・仕える)という単語が7回も出てくる。これはいずれもファラオを対象としている。
 このことが示すのは、1:13-14の繰り返しを想起させ、更に迫害と重労働が厳しくなった(1章の)あの時を思い起こさせているのだろう。
 ファラオは労働条件を厳しくする。労働倫理もへったくれもない。彼らには更に働かせ、多くの苦役を強いて、労働時間を増やし、余計な事を考える暇を与えるな。自由を得たい、自分の信じる神を祭りたいという要望は、労働時間の激増と共に夢と潰えるのである。彼らには余裕を与えてはならぬ。下手な革命思想を植え付けられてはならぬ。福祉的な配慮などの無駄な行為に時間を奪われてはならぬ、とファラオは考えた。そしてそれは権力者の考えることでもあった。
 さらに抑圧する者たちは、下役になりたいものを抱き込んで被抑圧者を食い物にするという手法をとっている。実際下役と呼ばれる者たちは、同じイスラエル人の同胞でありながら、彼らに対して苦役を強いる側にもなっている。これらの下役たちは、仲間のヘブライ人たちに、こう告げている。「搾取の体制を受容することで自分たちの生活レベルを改善できるチャンスがある。それは抑圧者・権力者に力を貸し、その搾取システムの中の歯車となることである」と。下役たちは、「搾取体制に魂を売り、その体制に参加することで利益を得ている者たち」なのである。
a ではなぜ彼らがモーセとアロンに詰め寄ったかということが疑問になる。イスラエル人の苦役などどうでもよい、と言って無視することもできたはずなのにである。
 それは、彼らがより良い生産行為を行っていることが都合が良いからではなかろうか。たしかに彼らの訴えはイスラエル人の訴えを代弁していると捉えることも可能であろう。しかし彼らは一方で、ファラオに身を売っている身分である。そう考えるならば、彼らは問題なく生産することの中で、利益を享受する、つまり何事もなくイスラエル人が働いてくれることが何よりもの報酬を受け取ることの出来る状態となるからであった。
 マーティンルーサーキングはこう言っている。「ファラオたちは、彼らの奴隷たちを、虐待し続けるために、効果的でお気に入りの戦略を用いた。それは奴隷たち自身を互いに戦わせることだ。分裂させて支配する戦略は、抑圧と言う武器庫の中にある強力な武器であった。しかし奴隷たちが団結する時、歴史という紅海は開かれ奴隷制度と言うエジプトは崩れ去る。
 
 しかしここで注目したいのは、この下役たちも恐らく出エジプト(奴隷からの解放)
が与えられたということであろう。すなわち十字架の隣でイエスを罵倒したあの犯罪者のための十字架であり、イエスの服を分け合ったローマ人のための十字架であった、ということから分かるように、それが神の愛から生み出される解放であり、救いなのである。
事態は深刻さを増し、民の困窮は深まるが、しかしモーセはかつてのような行動を取らなくなるのだ。つまりあの時のモーセは、善意と直接的な行動のゆえにただちに挫折し、逃亡を余儀なくされたというあの行動にでていたのである。確かに彼は実直であった。しかし無鉄砲であった。善意はあったがそれがストレートすぎた。それは彼を挫折させたのである。我々もまた、直接的な善意者がその善意によって挫折することをみるであろう。しかし今や、あの時のモーセとは違うのだ。なぜなら彼は「ヘブライ人の神が私たちに出現された(5:3)」ことを知っているからであり、他でもなく彼自身の前に、神が現れたのであるから。彼の心が折れなかったのは、彼の召命体験によるのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー出エジプト記3章1節-22節 2011年9月8日

出エジプト記3章1節-22節 2011年9月8日  
 この燃え尽きない柴が起きた状況は多くの事を知らせる。
 モーセは単なる羊飼いであった。エトロのような祭司でもないし、預言者でもなかった。彼は単なる日常の中に生きていた者であった。
 モーセは彼の好奇心によってこの柴を見届けたいと思った、と書かれてある。好奇心が神との遭遇をさせたのである。動機はどうであれ、いずれにしても彼は神と出会ったのである。ここには宗教的な意図のない通常のありふれた状況があり、そこで神が自らを顕現なさっていることに注目したい。
 彼は召命を受けるが、これに対し11節「わたしは何者なのでしょうか。」と彼は問うのだ。当然である。我々も、もしありふれた日常生活の中で、壮大な出エジプトの計画が語られても何事かと思ってしまうだろう。その召命に対しての問答が3章~4章にある。3章4節から4章17節まで実に13回も神はモーセに語り掛けている。そのうちの二つ3章に書かれている。(11節、12節の問いに対して13節、14-21節が神の答えである)
 「私はある。私はあるという者だ」は不思議な言葉として受け取られる。英語聖書ではI am who Iam.と訳されている。存在としての神の名。神は見えずともその存在の確かさを証言し顕現なさる神のBeingがここにある。LXX(ギリシャ語旧約聖書)では、「エゴー・エイミ」と訳出されている。エゴー・エイミは神学的な神顕現を表している。ガリラヤ湖で船に乗っていた弟子たちに嵐が襲い掛かり、暗闇の中から人影が現れる。恐ろしくなった弟子たちに対し語った言葉が「エゴー・エイミ」であった。つまり神としての主イエスの顕現がここにあるのである。
 さて、3章のモーセの状況について考えてみる。彼はこの時何歳ぐらいであったのだろうか。2章23節では「長い年月がたち」とあり、正確な経過年月が明記されていない。我々はモーセの印象を2章前半の「乳飲み子モーセ」2章後半では妻をめとった「新婚モーセ」の印象で読んでいるため、3章での彼もせいぜい20~30歳代。遅くとも40歳代ぐらいではないかと読むのではないかと思う。
 では彼の年齢を逆算してみよう。彼が申命記34章で死んだのが120歳であったと書かれている。出エジプト記7章7節には彼が80歳。アロンが83歳と書かれてある。つまり荒れ野の40年間、ということを考えると、ちょうどこの後すぐにカナンに向けて出発したとするなら辻褄が合う。そこから3章までを見ていくと、特に長い時間の経過が示されている箇所はない。このように考えるならば、3章の時点、正確に言うと2章23節の「それから長い年月がたち‥」の時点で、既に40年ほどが費やされていると考えてもよいのではないかと思われるのである。すなわち、エトロの家で婿として生きていた彼はかれこれ40年かもの間、羊の群れを飼うという仕事に従事しており、もしかするとモーセはこのまま自分は羊飼いのまま人生を全うすることを考えていたのかもしれないし、ミディアンに骨を埋めるつもりで後半生を生きていたのかもしれない。
 しかし神様の計画はそうではなかったのである。今日の物語は、青年モーセが指導者に任命された物語ではなく、晩年を迎えたモーセが、老いた者がその人生の晩年に突如受けた驚くべき召命物語であるとも考えることもできるのである。
 老齢になってからの旅立ちと解釈するとき、アブラハムのことを思い起こさせる。行先を知らずに旅立ったアブラハムと、行先はここであると示されたモーセには違いがあるが、聖書は晩年を迎えた者たちに多くの示唆を与えるのである。人生の晩年には諦観や死の需要だけがあるのではない。救いと解放がある。それが我々に与えられた物語である。
  (日本キリスト教会 浦和教会 祈祷会奨励)