聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー出エジプト記1章1節-22節 2011年8月11日

祈祷会(木)奨励  出エジプト記1章1節-22節 2011年8月11日
 今日から出エジプト記に入る。これは創世記との断絶ではなく継続の中で語られている。1節~5節で12人のヤコブの息子たちの名前に言及され、その孫が70名にのぼることを事が言われている。そして1章全体でこの数が無数に増え広がっていることが語られる。つまりヤコブの息子たちというイスラエルに限定された民族が世界大へと広がっていることを告げているのである。それはイスラエルの民が世界の民になっていることと同時に、イスラエルの神が世界の神であることを告げているのである。
 1章に7せつ、9節~10節、12節、20節と、増え広がっていることが記されている。この人口増加は星の数のようであり、アブラハム契約(創世記12章等)の成就として、祝福されたことが示される。しかし彼らは虐待される民でもあった。この時のファラオはラメセス2世であると言われている。ヨセフの時代のファラオがヒクソスの王朝であることから異民族に寛容であったが、ラメセスは違っていた。彼はイスラエル人が強くなることを怖れ、拒み、殺す計画を立てた。
 11節の「物資貯蔵の町ピトムとラメセスは」創世記41章45節でヨセフが奨めていた物資貯蔵の町であろう。ナイルは非常に豊かで多くの農作物を産み出していた。しかしこの豊穣の川が、ファラオの命令と共に死の川に様相を呈してしまうのであった。生を産み出すものが死を表す。これが当時のエジプトであった。イスラエル人たちの労働はますますひどくなり、それは過酷を極めた。
 ここに二人のイスラエル人の助産婦(現代的には助産師であるが)が登場する。ファラオは彼女たちに幼児虐殺に加担するように命じている。しかし彼女らは「いずれも神を畏れていた」(17節)とあるように、敬虔な信仰を持っていたことが示されている。彼女たちは機転を利かせ、知恵を絞り、読む者に少なからずユーモアを感じさせる仕方でこの難局を乗り切った。すなわち「ヘブライ人の女性はエジプト人の女性とは違い、体が丈夫なので、助産師である我々が行く前に産んでしまうのだ」と言う。勿論これは嘘である事は間違いなのだが、しかし知恵の利いた嘘の中で神の真実が表されることがあるのだ。助産師たちは「子宝に恵まれた」(21節)。つまり彼女たちは神の祝福を受けているのだ。
 ここで注目したいのは、社会に知られざる者たちの働きが神の目に適う行為者となることである。これは出エジプト記の1章~2章に語られるテーマの一つと言える。特にこのヘブライ人助産師たちには、名前が与えられている。シフラとプアである。このファラオに名前がないのに対し、彼女たちには名があり、ファラオには跡継ぎ、子宝について一切言及されていないのに対し、彼女たちは子宝と共に神の祝福を得ている。この時のファラオはラメセス2世であったのだろうか。とするならば有名な偉大なる為政者である、しかし聖書は彼ではなく、この小さな女性たちを記憶し、この名を留めているのである。ここに聖書のテーマがある。死をもたらす国家権力の中にではなく、神を畏れる態度と敬虔な思い、神の知恵と信仰を、聖書は見逃さないのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記44章1節-34節 2011年6月23日

 創世記44章1節-34節 2011年6月23日
 43章の第2回目のエジプト行きの時、食料調達という責任を果たした兄弟たちであった。
 ヨセフはベニヤミンと会うことになった。彼は「奥の部屋で泣いた」(43:30)のであった。その後兄弟たちはヨセフの法外なもてなしを受け、ベニヤミンには5倍もの料理が用意されていたと書かれており、ヨセフの喜びが表わされているように描かれている。しかし兄弟たちは気付かなかった。
 44章では、兄弟たちが帰ることになるが、彼らはその成果を喜んでいたに違いない。ベニヤミンが取られることもなく、シメオンを奪還し、食料を調達し、もてなしまで受けた。以前の訪問よりはるかに気分良く家路に向かっていたと思う。しかしヨセフはさらに仕掛けを打つ。
 なぜこのような計略にでたのだろうか。彼は何をしようとしていたのだろうか。このような疑問が出てくる。これは単なる濡れ衣であり、兄弟たちにとっては迷惑な話である。しかしある注解書にはこのようにある。「ヨセフはこのことを通して、もっと大きな愛を兄弟たちと故郷に残っている父ヤコブに与えようとしているのだ」と。さらにこの試みは、兄弟たちの悔い改めと愛を確かめたい、(これまで何度も確かめているのであるが)、のであろう。
※5節には「占い用の杯」が出てくるが、その方法は杯に水を入れ油をたらして文様を見たり、金、銀、 宝石を杯に投げ入れて沈む様子を観察して占ったと言われる。また一方でこの杯はヨセフが日常使って いたものであることも書かれている。占いはイスラエルで禁じられていたので、兄弟たちを欺くために エジプト風をことさら装ったと考えられる。とあるがそうだろうか。疑問である。
 7節以下では兄弟たちは銀の食器など盗むはずがないと言う。しかしそれは見つかってしまった。11節で彼らは袋の中を確認するのだが、ベニヤミンの袋の中にその食器が見つかってしまった。「彼らは衣を引き裂いて・・」とあるように、「何という事だ!」という悲しみの表現であろう。この辺りが非常にドラマチックに描かれている。彼らの悲嘆の姿が映し出されている。
 この時ユダは16節でこう言っている。「ご主君に何と申し開き出来ましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証を立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです」。ここでユダは「神が僕どもの罪を暴かれた」と言っているが、これは何故であろうか。これはヨセフが仕組んだものであり、彼らはその計略にはめられたのである。林嗣夫は次のように言う。「銀の杯は身に覚えのないことですが、だからと言って、自分たちは罪のない聖なる者だとは言えません。このことを機会に、ユダは自分たちの罪を知らされ、それを告白しました。」続けてこう言います。「我々はよく、こんなに真面目にやっているのにとか、不満を漏らすことがあります。ユダは、かつてヨセフを売り渡した後、悔い改めて生活していたのではないでしょうか。しかし災難が降りかかってきました。彼はこのとき、こんなに真面目になったのにと愚痴を言うようなことはしませんでした。今度のことでエジプトの首相に対して『身の潔白』を表わすことは難しい。まして神の前では、どうして罪人でないと言えるだろうか」と。
 ヨセフがエジプトに売られて来たのが17歳。首相になったのが13年後の30歳。豊作が7年続いたので7年足して37歳。さらに凶作が何年続いているのでそれをプラスすると、ヨセフがいなくなってから20年以上も経っている。法律的には時効かもしれない過去の罪であるが、それが無くなったとは考えていないのである。むしろユダは、ここまで神に見過ごされてきたと思っていたが、しかし神の前では逃げも隠れも出来ない、という事を感じたのではないだろうか。
 旧約聖書にヨナの物語がある。彼はニネべに行きなさい、という神の言葉を聞き、そんなことしたくないと逃げていく。しかも彼が逃げたのはタルシシュ行き、つまり正反対の東に逃げていったのである。船の中では彼は神から逃げたと思っていただろう。しかし神の前では逃げも隠れも出来ないのであった。どのような形であれ(あのときは籤を引くという形で)過去の罪が暴かれ、それが無くなることはないのであった。
 18節から「ユダの嘆願」が始まる。これは内容的には「ユダの罪の告白」であると書いてある注解書もあるが、これは嘆願である。(内容的に罪に触れてもいるが)
 彼は極めて具体的にこれまでの経緯を語る。そしてユダは自分がベニヤミンの身代わりになろうとする。ベニヤミンが罪を犯すならば自分がそれを負うという。ベニヤミンが奴隷になるなら自分が身代わりになるという。これがユダの表明した態度であった。
 ここでユダは兄弟たちの代表者として出てきていることに注目したい。つまり彼の言葉は兄弟全員の言葉なのだ。彼の表明は、兄弟全員の表明なのである。従って彼らは、ベニヤミンを何としてでも守る、と固く誓っているのである。ヨセフはこれを聞いた。ベニヤミンは言わばヨセフの分身でもある。もう一つの自分の姿であり、置いてきたカナンでの生活である。つまりベニヤミンを守ることは、自分への態度でもある。そう感じたのではないだろうか。
 彼らは全員が共謀してヨセフを陥れた。ヨセフは売られていった。父は野獣にかみ殺されたと嘆いた。兄弟はその偽装工作をした。それが20年前の彼らの姿であった。しかし今や、状況は変わる。彼らはベニヤミンを命を張って守ろうとしている。それは言うなれば、命を張って自分を守ろうとしている兄たちの姿をここに重ね合わせたのではないだろうか。ヨセフはこの一部始終を自らの目で確認し、彼等の心の奥底にある罪の意識を知り、神の前では隠れることが出来ないことの告白を聞き、ヨセフは確信を得たのであろう。
 しかしここでベニヤミンの罪の身代わりになろうとしているユダであるが、けれども人間の罪を本当の意味で身代わりになれるのはイエス・キリストだけである。ユダがこのイエス・キリストの系図の中に連なっていることの意味をここに見出すものである。
 (日本キリスト教会浦和教会 聖書の学びと祈りの会 奨励:三輪地塩)

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記41章1節-57節 2011年5月26日

創世記41章1節-57節 2011年5月26日
 この41章は、いよいよヨセフの夢解きから新しい地平が広がっていく様が描かれていきます。実は40章が終わっても、37章の終わりの部分と何も状況が変わっていない。彼は40章の終わり部分でも、尚忘れ去られた者として位置づけられている。物語の展開はこの章に至るまで引き伸ばされている。ヨセフはただ待つだけであった。
 
 神は給仕役の長に、ヨセフのことを忘れさせていた。我々は「給仕役が恩を忘れてしまった」とか、「そもそも恩だと思っていなかった」というように考えます。しかし41章に至って思うのは、これは神によって「忘れさせていた」ということではないかということである。コヘレト3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(口語訳)とあるように、彼が忘れられていたのは、神が忘れさせていたからである、ということが分かる。
 ファラオに夢を解き明かすことが出来る者はいなかったとある(8節)。しかしエジプトという帝国内で、その技術を誰も持っていないとは考えられない。つまり「いなかった」のではなく、「恐くて解き明かせなかった」という事なのかもしれない。「触らぬ神に祟りなし」「沈黙は金」「キジも鳴かずば撃たれまい」ということである。変な夢解きをすることによってまたファラオの怒りを買うかもしれないし、事と次第によっては処刑もありうるからである。
 ここで給仕役が昔の出来事を思い出す。ヨセフがファラオの下に呼び出され「お前は夢を解き明かすことが出来ると聞くが」と言われると、ヨセフは「私ではありません。神がファラオの幸いについて告げているのです」と答えた。権力者の前で臆することなく答えるヨセフが神の権威の中にあることを示す。
 彼はファラオに夢を解き、今後のエジプトの身の振り方を提言する。「聡明で知恵のある人物をお見つけになってエジプトの国を治めさせ、~」(33-34)。この提言を聞き入れたファラオはヨセフを宮廷責任者として登用した。
 ファラオは彼に「ツァフェナト・パネア」という名前を与え、オンの祭司ポティフェラの娘アセナトを妻として与えた、とある。「ツァフェナト・パネア」という名前は「神が語るのでその彼は生きる」という意味のエジプト名である。また、オンという場所は後に「ヘリオポリス」と呼ばれる、太陽神を礼拝する大神殿がある場所である。ここの祭司は非常に位が高かったと言われている。そこの娘が与えられたのである。
 エジプトには飢饉が起こり、全てヨセフが解き明かした通りになった。しかし「エジプトには全国どこにでも食料があった」(54節)のであった。その後も飢饉が激しくなっていくが、何とか耐え凌いでいくのであった。 
 今日の箇所にテーマをつけるとしたら何とつけるだろうか。「ファラオの夢を解き明かしたヨセフ」「ヨセフによって飢饉に備えたエジプト」「エジプトのナンバー2に上り詰めたヨセフ」。しかし考えておきたいのは、「ナイル川」が一つのテーマであるということ。ここでのナイル川は、単なる地理的な名称ということではなく、エジプトの豊穣であり、豊かさであり、命の根源である、ということ。そしてエジプトという帝国やその文化を言い表した象徴である、ということである。生命を生みだし、豊かさの保証をするのは、このナイル川である。ナイルやその生命機構が衰退するということは、エジプト帝国それ自身のの中に生命力を保有していないことを意味している。ナイルはエジプトの賜物と言ったのは、古代歴史家ヘロドトスであったように思うが、それは的を射ている。モーセが出エジプトの時に、ナイル川を血に染めて甚大な被害を想定させて見せたが、それはエジプトの豊穣と生命維持との危機を見せたのであった。今、ファラオの夢によって、ナイル川が象徴されるように、この帝国が破壊され、ここが命を起こす生の場所ではなく、死の場所となることの暗示であった。
 帝国の命を生ぜしめる象徴。それは数年前「アメリカ大帝国」が資本主義という彼らの生命の根源が脅かされその存続すらも危機に晒されたように(リーマンショック、サブプライムローン)、また、「日本国」の命であり、生命線として象徴される「技術力」という神が、その根源に生命を有していないことが明らかになった、今の現状(福島ショック)において、我々は、生命の根源に何を見、何を聞くのであろうか。
 この41章は、エジプトの無益さ、無能さ、また生命の根源とそれを与え、生命を可能にする場所がどこにあるのかを、帝国と神の業が、よく示しているのではないかと思う。帝国には死があった。しかしヨセフが現れてからは生命が生じた、のである。
 この章において、ヨセフは一貫して神中心の立場にある。そして世界の偉大な帝国の王であるファラオも、最後にはこの神と関わらねばならない。16節、25節、28節、32節には、エジプトの地にアブラハムの神が力を行使することが、臆することなく語られている。
 未来を統べ治めるのは、帝国の目論見でも、ファラオの知恵でもなく、またヨセフの解釈でもなく、神それ自身である。生命を与え、死をもたらし、ナイルに産ませ、ナイルを死滅させる神。飢饉をもたらし、命を維持されるのも、この神なのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記40章1節-23節 2011年5月19日

 創世記40章1節-23節 2011年5月19日
聖書における「夢」について
古代中近東地域において、夢は超自然的な力発する個々うちと信じられていた。そしてその真意と解釈が、非常に大切なこととされた。メソポタミヤやエジプトには「夢に関する書物」が編纂されていた。一般人の見る恐ろしい夢は、悪霊のたくらみと見做され、一方王や祭司の夢は神々の意向を知らせる手段と理解されていたようである。また王は夢のうちに啓示を受けることを望んで、神殿で夜を過ごすこともあった。聖書にもべテルにおけるヤコブ(28:11~)、シロにおけるサムエル(サム上3章)、ギブオンにおけるソロモン(列王上3:4-15)の聖なる場所での夢による啓示の出来事が伝えられる。聖書の夢を分類すると、

直接的な告知がなされる夢(創世記20:3,6,7、31:10-13、列王上3:5、マタイ1:20、使徒9:10)
象徴的な夢(創世記37:5-10、40:5~、ダニエル2章)
となる。
夢は神の御旨を伝える手段の一つと理解されており、その夢を解く事は、神よりの特別な能力または賜物が与えられていることとされた(創世記41:38、ダニエル2:47)。偽預言者の夢は、偽りの夢であり、それは虚しい慰めしか与えない(ゼカリヤ10:2)。また、よこしまなる夢見る者は、死罪に当たる(申命13:1-5)。夢を多く見ることは、空虚なることとの理性的非難も語られている(コヘレト5:3,7)。新約では、夢は困難・危険の予報的啓示にのみ与えられている(マタイ2:13、使徒18:9)。
 資料分析的に言うならば、39章はE文書、40章はJ文書である。文書形態は違うが、内容は並行している。つまり帝国(エジプト)におけるヨセフの台頭と成功、である。この箇所は大枠として39章~41章の枠組みの中で読まれるべきである。この中心は41章にある。つまりファラオの夢を解くことである。39章~40章はその予備的なものとして書かれており、ファラオの目に留まるまでの経緯が書かれている。
 ここでは、王の料理人と給仕役が登場する。彼らは何らかの過ちを犯し、ファラオの怒りを買い、二人とも牢獄に投げ込まれることから話しが始まる。権力者の機嫌を損ねると牢獄に入れられるというのは、今も昔も同じである。その理由は得てして些細なことが多い。時には冤罪による投獄もありうる。彼らの投獄の理由は分からないが、もし冤罪だとすれば、ヨセフと同じ理由であると言える。
 牢獄にはここを仕切っていたヨセフがいた。憂鬱な顔をしている給仕長の夢の話を聞き、その解き明かしを行なった。それはまたファラオの下に戻れる、という希望の解き明かしであった。しかし料理人役の長の夢は、死に引き取られる絶望的な解き明かしとなった。
 「解き明かし」という文字について。シャーロームの訂正「説き証し」「説き明かし」「解き証し」ではなく、「解き明かし」である。その解釈をし、証するのではなく「明確にする」のである。
 つまりここでヨセフが行っているのは、給仕役にも料理人にも媚びることなく、夢で語られた通りのことを伝えるのみに徹している、ということである。これまでのヨセフの行動を振り返ると、彼は悪びれもせずに、親兄弟に対して、堂々と「皆が私にひれ伏す」とい語り、家族の反感を買い、その結果兄弟たちに疎まれてエジプトに売られてくることになったのだ。この時はヨセフの気遣いのなさや、配慮の足りなさなどの批判があるかと思うが、しかし神の与えられた言葉としての夢の解き明かしは、そこで何が言われているかを分かり易くすること以外にないと思われる。
 つまりヨセフは誰にも迎合することなく、媚びるでもなく、徹頭徹尾神から与えられた賜物を生かして、そこで語られていることを包み隠さずに伝えること。その以外を務めを行なうことは彼の頭にはないのである。彼は解き明かすという出来事に関して、忠実であり、また忠実に務めを果たすこと以外に彼を取り囲むよこしまな思いは微塵もないのである。彼は解釈者であり、神の道具である。それは説教者にも言えることかもしれない。(しかし今週の話の中にあったように、説教者の意図とは全く異なることが起こるのもじじつであるが)
 しかし只一つ彼は、その中でも「何とかしてここから脱出する」ことを望んでいる。ここにヨセフの運命的なめぐり合わせ、彼の歩みの不思議さが見られる。つまり全く支配権を握っているような環境の中で(牢獄にいるのは確かであるが)彼は夢の解き明かしという点で、神の支配という業の一旦を担っている。しかしこの支配権を握っているように思われる者が、全き困難の中にあることのコントラストがある。殆ど神と同一視されたこのヨセフという男は、しかし嘆願してこの牢獄から出して欲しいと一生懸命に願い求めるものでもあるのだ。支配権を神に委ねられた彼は、しかし同時に苦しみと悩みの只中で、悶々と解放されるときを待つ者でもある。この力に満ちた一人の男は、しかし一方で助けを必要として嘆く者でもあるのだ。
 この姿は、神の支配権を一手に引き受けた一人の方が、全能者としてではなく、むしろ人間の罪と咎の中で、打ち震え、苦悩し、血の汗を流し、神に祈り続ける様子に重なり合う。その方は、神の思いと計画を、誰に迎合するのでもなく、おもねるのでもなく、ただ神の意図と計画を忠実に語ったがために、疎んじられ、蔑まれ、罵られて、十字架で死んで行かれた方である。
 ここからキリストの苦悩とキリストの十字架、そしてその背景にある神の計画を見るのである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記39章1節-23節 2011年5月12日

創世記39章1節-23節 2011年5月12日
ヨセフは神が共におられたので、ファラオの役人ポティファルの家を任されるまでになる。主人の家の全ての管理を任せられた。身分こそ奴隷であるが、実質的には主人として王の重臣ポティファルの家の一切を取り仕切るようになったのである。
7節でポティファルの妻はヨセフを誘惑する。「高官の妻で有閑マダムのポティファル夫人は、宮廷の仕事で忙しくろくろく家にもいない夫に不満だったのでしょう。若く美しいヨセフに心惹かれ誘惑しようとしました」(小泉達人著「創世記講解説教」310頁)
この誘惑に対しての8節~9節のヨセフの言葉は、「人の道と神の道を両方立てるものであった」(小泉前出書311頁)
 ポティファルの妻は自分の思いが拒絶されたとき徹底的な復讐に出る。自分が誘惑しようとしたのをヨセフの責任に転嫁している。「しかしこの恐ろしい憎しみに変わる愛は、それが本当の愛ではなかった何よりのしるしでしょう」(小泉前出書)312頁
 ポティファルは激しく怒り、王の囚人を繋ぐ監獄に入れた。これは国の重罪人を入れる監獄であった。ある注解者はこう言っている。「本来ならヨセフはただちに殺されるはずだ。たとえ重犯罪人の語句であろうと、投獄されて殺されなかったのはおかしい。これはポティファルが妻の不倫を知っていたのではないだろうか」。これは一方では穿ち過ぎの解釈とされるが、もう一方でこのような妻の性質をポティファルは知っていたようにも思うので、ある一定の蓋然性を持っているようにも思われる。
 39章では「主がヨセフと共におられた」(2節、3節、21節、24節)という言葉が多用されている。これが今日の注目すべき言葉である。我々は、神がヨセフを守っているならば、何故兄弟たちに憎まれ、売られ、奴隷となり、婦女暴行の冤罪で投獄されていくのかと考えてしまうだろう。神が共におられるなら人生は何もかも上手くいくはずだ、否、そうであるべきだと。しかし神が共にいてくださるということは、順風満帆な人生の確約を意味していない。もしそれが確約されることを神の守りであると信じるなら、―それはそれで一つの信仰であるが―、それは人間の欲や望みの成就を願うだけの神を求めていることであり、家内安全、無事故、無病の信仰なのではないかと思う。
 しかし神のなさる祝福とは、その人間の思いを越えた所で働く正しい神。乃至、神の正しさの中で我々に働きかける神、なのである。結局我々の欲で神は動かれるのではない。ヨセフの人生は、我々の眼から見ると、何と波乱に満ちた壮絶な人生であろうと思ってしまう。父親の偏愛を受けて、どこか天狗になるところもあったかもしれない。兄弟を見下すところもあったかもしれない。そんな彼だから、たくさんいる兄弟たちに妬まれ、憎まれていったのであろう。そして彼は売られた。親戚のところに奉公に出されたのではない。まったく見知らぬ行商人に売り払われてしまったのだ。彼は故郷を捨てることを余儀なくされ、見知らぬ人に囲まれ、異国の高官の奴隷となった。その主人の妻に求愛され、それは憎悪に変わる。それが発覚した後、彼は重罪人にされてしまう。このような転がり落ちるような人生の中に、我々は何を見るであろうか。この一連の前半生には、救いどころが無い。本当に転がり落ちるようである。しかし聖書はこの人生の所々に杭を打ち込むかのように「主がヨセフと共におられた」と、何度も何度も語るのである。そしてそれに見合った、その時々の恵みが備えられることを語るのである。彼は破綻と転落の人生を歩んだのではない。彼は最も顕著に信仰者的に、信仰者の真髄を歩んだのである。それは苦難でも守り、逆境における支え、ということである。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記38章1節-30節 2011年5月5日

 創世記38章1節-30節 2011年5月5日
 37章からヨセフ物語が始まったが、突然38章で、前章の流れは中断される。ヨセフ物語りは性格には「ヨセフを中心としたヤコブの息子たちの物語」ということなのであろう。
 34章では娘のディナが辱めを受け、シメオンとレビが報復をするという出来事があった。37章ではルベンを初めとするヨセフの兄たちがヨセフをイシュマエル人に売る相談をしている。そして38章でユダに焦点が当てられる。
 この話しを読む限りにおいて「ユダの罪」が強調されるように感じる。我々はこの箇所を罪の箇所として読むのか、もしくはそれ以外の御言葉として読むのか、そのことを考えつつ読み進めていきたい。
 ユダはカナン人シュアの娘を妻とした(名前はなく「シュアの娘」とだけ言われている)。ユダは妻との間に、長男エル、次男オナン、三男シェラをもうけた。ユダは長男エルにタマルという女性を嫁に迎えたが、エルが主の意に反したのでエルは死んでしまった。そこからこの物語が始まっていく。
 ユダはタマルに、次男オナンとの間に子を儲けよ、ということを命じた。これは当時の風習の中にあった「レビラート婚」もしくは「レビラート婚姻法」と言われる有名な規定で、旧約律法の中にも記されている(申命記25:5-6)。子が出来ないまま早くして夫を亡くした者は、夫の兄弟もしくは最も近い近親者との間によって子を儲けることができる、という法律である。この法律には拘束力があり、未亡人にはその権利があり、夫側の親族にはそれを果たす義務があった。(新約聖書のマタイ22:24ではレビラート婚を前提にサドカイ派の人がイエスに問答を仕掛けている)
 この法律は、未亡人のためにある法律と考えてよい。当時、子が生まれることはその家の祝福と見做された。従ってそれが叶わずに命の絶たれた家のためにこの慣習があったのである。その為タマルは夫の弟であるオナンとの間に子を儲けることとなった。
 しかしオナンは、生まれた子が自分の子ではなく「兄の子」となることを承服しなかった。彼はタマルとの関係の中で敢えて子が出来ないように振舞った。つまりそれが神の御心に反したということで、次男オナンも死んでしまうこととなったのである。
 これらによって想像出来ることは、エルとオナンの兄弟仲が大して良くなかった、否、悪かったのではないかということである。祖父ヤコブとエサウの兄弟仲、ヨセフと父である兄たちの兄弟仲が悪いのに加え、その息子たちも悪かった、ということは親が親なら子も子である、ということであろうか。
 さて、これを見たユダは三男のシェラもまた兄たちのように死なせてはならないと思い、タマルに近づけさせなかった。林嗣夫氏は「タマルは災いをもたらす不吉な女であるとして人間的な判断をした」と言っている。
 11節では「シェラが成人するまで~」とその期限が設定されているが、その後に「シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった」とあるように、これがユダの本心であるように思われる。とにかくユダはタマルに近づいて欲しくなかったのだ。
 この判断に対して、タマルは娼婦の格好をしユダと関係を持ち、彼女の画策したとおりユダとの間に子を儲けたのである。それがペレツとゼラであったことが最後に書かれている。冒頭でも言ったように、この話は「ユダの罪」がクローズアップされるように思われる。つまりユダ中心の物語としてこれを読むことが多いと思うのである。しかしここで視点を変えタマルの物語として読むならば、これが罪の物語ではなく、神の祝福の物語となる。
 タマルは何とかして子を授けられる事を願った。それで義父との間に子を儲けることを考え付くのである。考え付くというよりも、タマルにとって当然であったのかもしれない。なぜならば、それが彼女の常識であったからである。タマルが行なったような、義父との関係によって子を儲ける、ということは、現代の我々の感覚から言って、非常に不謹慎で、倫理上あり得ない事柄と感じるかもしれない。しかし聖書の中で法制化される前に、既にレビラート婚は古代東方諸国で一般的な慣習として行なわれていた。特にヘト人の間では、義父もその責任を負う、ということが認められていた。つまりタマルはヘト人であった可能性が高いのだ。そう考えるならば、タマルの行なったことは何ら非難されることではないと言えるだろう。
 彼女は三男シェラとの関係が絶たれたことを知ると、しばらく自分の父の家に無をひそめる事となった(11節)。タマルは満を持して行動にでた。タマルという言葉は「ほっそりした人」という意味だそうである。彼女が細く背の高い女性であったとするならば、神殿娼婦として道端に立ったとき、目立つ存在であったのかもしれない。
 また彼女は賢く振舞っている。それは保証の品として「印章と杖」(18節)を受け取っていることである。印章と杖は、身分保証書にもなりうる。コピーすることや、同じ物を大量生産できない時代である。羊のように同じような判別のつきにくい保証ではなく、彼の持ち物に着眼したことは、彼女の賢さである。
 彼女は計画を果たし、そこから3ヶ月身を潜めた。これもまた身ごもったことを確認するための期間であった。ユダはこの知らせに憤慨した。タマルが不義を犯したとなれば、身内関係者として生かしておくことは出来ない。姦淫を犯した女性は、祭司の娘は焼き殺され、一般の女性は石で打ち殺される規定になっていた。(だからと言って彼女が祭司の娘であるとも限らない。律法が出来る前の出来事だからである)。
 そこでタマルは保証の品を見せたのである。身ごもったのは自分の子であったことを認め、ユダは彼女の非常手段を肯定せざるを得なかった。ユダは罪を犯した。それは人間的な思いを優先させ、自分の身を守ることに執着した結果であった。しかしタマルは身を危険に晒しながらも、自分と神との関係の中で、正しいと思う事を行なったのであった。タマルの行動は、一方では「騙す」という決して正しいとは言えない行動でありながら、しかし自分の名誉と命の危険を冒してでもこのような措置にではことは賞賛に値するのである。
 特に彼女の境遇や、置かれた状況を考えて
みると分かるのではないか。タマルは長男と結婚した。しかしタマルの罪ではなく、長男エルの何らかの罪によってエルは早死にしてしまった。それはタマルによって、大変不幸なことであったに違いない。しかし律法はこのやもめに対して寛容であり、レビラート婚という措置を設けていた。そのため、彼女には将来を見ることが可能であった。しかしオナンは兄弟仲によるものか、自分の子にならない事を妬んでか、とにかく人間的な思いの中でタマル中心に考えることはしなかった。そしてオナンも死んでしまった。またやもめとなったタマルは、今度こそとばかりに三男シェラに期待をかけるのだが、今度は穢れた者を扱うかのように(言ってみればタマルは冤罪であるにもかかわらず、タマルが不吉であるかのように扱われ)、シェラが成人するまでという条件が提示された。彼女はこれを信じたのだろう。しかし「かなりの年月がたった」のち、シェラが成人したはずなのにその連絡はこなかった。その為彼女は非常手段に出た。義父との関係を得るための強硬手段に出たのだった。しかし義父がタマルの妊娠に気がついたとき、それは彼の犯した結果となっていた。彼は26節で語っている。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」と。ユダは素直だった。自らの罪を認め、その原因・理由も理解していた。
 タマルの行為は、娼婦を装い半ば騙す形で子を得るということであった。これは決して手放しに賞賛されることではないかもしれない。しかし男性主導の家父長制社会を生きる女性として、レビラート婚の権利を人間的な感情で(しかもタマルに近づくと不吉である、という勝手な解釈のもとで)彼女は子を得る権利を奪われていたのだ。そうなればこうするより他はない。彼女には情状酌量の余地がある。
 タマルは人間による妨げをかき分けるようにして、神の約束(子の誕生)を得たのだ。決して人間の知恵や行いや努力を賞賛するものではないのだが、しかしヤコブが何とかして神の祝福を得ようとしたあの思いに通じるものがあると感じる。使徒パウロもフィリピ書で「私は既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と言っているとおりである。
 
 最後にイエス・キリストとの関係について述べよう。タマルは異邦人(ヘト人?)であったのだが、彼女の祈りは神に聞き入れられた。この出来事を通して、さらにマタイ福音書1章のキリストの系図を見てみたい。興味深いことにヤコブの次はヨセフではなく、ユダがイエスの系図に繋がっていることが分かる。それはキリストが、異邦人も罪人も含めた、全ての人類の救いのためにお生まれになったことを示しているということである。
 聖書は決してユダヤ人のみの神なのではなく、ユダヤ人を罪人のモデルとして選び、人類の救済について語った神の言葉であると言える。タマルもまた、神の祝福と恵みのうちにあったのである。