2022.2.6 の週報掲載の説教

2022.2.6 の週報掲載の説教
<2020年8月16日の説教から>

ルカによる福音書8章19節~21節

『神の言葉を聞いて行なう人たち』
              牧師  三輪地塩
母と兄弟たちが何のためにイエスに会いに来たのかは分からない。マルコ福音書によれば「家族達はイエスに、宣教するのをやめさせようとした」とあるように、ガリラヤの田舎大工の息子が聖書を講義するなんておこがましい、という思いからかもしれない。いずれにせよ、ここでのイエスの答えは「私の母、私の兄弟とは、神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」というものであった。

キリスト教会は、教会員同士に「〇〇兄」「〇〇姉」の敬称を付けることがあり、「キリストによる兄弟姉妹」という感覚を持つ事が多い。だが筆者自身、教会員を「兄弟姉妹」と呼ぶのは好きではない。その理由を言語化するのは難しいが、簡単に言うと「兄弟姉妹」というアイコンによって共同体のメンバーシップを括るとき、「信仰者の繋がり」とは別の感情、とりわけ日本においては、日本人的感情の「甘え」と呼ばれる「もたれ合い」が生まれるからだ。つまり、兄弟姉妹だから何をしても赦される、どんな罪深いことをしても赦される、どんなに罵倒しても赦される、という思い込みを助長させ、謙虚さを失わせ、罪を犯すことを自らに許可しようとするのである。それは教会を内部言語でしか通用しない内向きの共同体にしてしまうだけでなく、他者(外部)との共通項をも失わせる。「他者」を「世間」と言い換えても良いかもしれない。つまり、内部言語、内部感覚のみで共同体が形成されると教会は浮世離れするのだ。残念ながら、日本の教会にそれが存在していることを、自覚すべきであろうと思う。

このことから推察すると、イエスが自分の母や兄弟たちに対して、些か冷たい態度を取っているのにも頷くことが出来る。気持ちとしては、イエスの母や兄弟たちに同情の念を抱かずにはおれないが、しかしイエスが伝えようとしたのは、真の母、真の兄弟とは、「神の言葉を聞いて行なう人たちのことである」と言うことなのだ。血が繋がっているからより深く愛することもあるが、血が繋がっているために、より深く憎しみ合うことだってある。つまり「肉親・親族・血縁である」ことは、救いの観点からは何の担保にもならないのだ。真の信仰共同体となるために、形式的にではなく、真に聞き、真に行動する者でありたいと思う。

2022.1.1.30 の週報掲載の説教

2022.1.1.30 の週報掲載の説教
<2020年8月9日の説教から>
『光が見えるように』(平和記念礼拝)
ルカによる福音書8章16節~18節

牧師 三輪地塩

イエスは「種蒔きの譬え」を語った後、18節で「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と述べる。

例えば、テレビで落語や漫才などを観て、ただ笑っているだけなら簡単なのだが、「同じ事をやってみなさい」と言われたら、一語一句聞き漏らさないように、そのタイミング、話の間など、細かな事まで一生懸命に聞き逃さないようにしなければ、同じことなど出来ないだろう。ただ単純に笑って聞いていた聞き方ではない、「全く違った聞き方」になるはずである。

かくいう筆者も、神学生時代に初めて説教演習を行う際、何をどうやって話せば良いのか分からず、稚拙で深みのない説教原稿を書いたことを思い出す。「聞く」とは完全な受動であるが、「語る」という能動的な「聞く」であるべきだ、とイエスは言っているのだろうと思う。「どう聞くべきか注意しなさい」の言葉は、まさに説教を聞く礼拝者・聴衆たちへの問い掛けである。

ルカ福音書は次に「持っている人は更に与えられる」というイエスの言葉を伝えている。フィリピ書3章12節の使徒パウロの言葉が共鳴する。「私は既に、それを得たというわけではなく、既に完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟達、私自身は既に捕らえたと思っていません。成すべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前にものに全身を向けつつ、~~目標を目指してひたすら走ることです」

我々の信仰は「これで終わり」ということはない。いつまでも聞き続け、求め続けていく信仰である。御言葉をどう聞き、どう公に表していくか。それが重要である。また御言葉は、ひとたび聞かれると、それが心の内に密かに留まっている事はありえないとも述べられている(「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」)

平和記念礼拝において、我々は「平和」を願う。平和とは、形而上学的で概念的な理想論ではない。具体的に行動として表われる最善の結果である。そのために我々は、御言葉をどう聞き、どう公にするのか。信仰者の重要な務めである。

2022.1.1.16 の週報掲載の説教

2022.1.1.16 の週報掲載の説教
<2020年8月2日の説教から>

ルカによる福音書8章1節~15節

『百倍の実を結んだ』
 
この話はよく知られた「種蒔きの譬え」であるが、「種」が御言葉を表わしているのか、聞き手を表わしているのかは明確でなく解釈する側に委ねられていると言って良い。イエスが譬え話を使う時、分かり易く伝えることが多いが、この箇所ではそうではない。「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは・・・・・・『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」と述べられている通りである。

「見ても見えず」「聞いても理解出来ないようになるため」というのは、よく考えると衝撃的な言葉である。イエスの意図は、「全ての教えや説教、譬え話が、皆すべて実りある物とはならない」と言いたいのであろう。それは聞く耳の有無の問題かもしれない。つまり人間は「聞きたいことしか聞かない」ということである。神の御言葉が、人間の罪深さや、キリストの救いを語っても、それを聞こうとしなければ、「石地」「鳥」「いばら」に落ちた種となるとイエスは忠告している。

では、我々が聞く耳のある者になるためには、どうすれば良いのだろうか。ということである。それこそがこ譬えの4つ目の種が蒔かれた場所「何もない土地になる」ことに他ならない。「何もない」ということから実を生じさせるわけではなく、「何もない」ことの中に存在する「ある」ことに気付くべきなのだ。決して人間の罪を度外視して性善説的に言っているのではない。「良い土地」には「石」も「いばら」もないため、塞がれることがない。だが、「何もない土」には、厳密には、良い養分が含まれる。カリウム、リン酸、窒素、カルシウム、堆肥などの有機物がほどよく混ざっていないと育たない。15節には「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」とある。重要なのは「忍耐して実を結ぶこと」であろう。御言葉を聞く行為は、スポンジが水を吸収するように、自然とスーッと入り込んで来るのではなく、時に御言葉は忍耐と共に受けるものである、と言われている。種が芽生え、育ち、実を結ぶには、余計な混ぜ物が無い「良い土」と「忍耐」が必要なのだ。

2022.1.1.9 の週報掲載の説教

2022.1.1.9 の週報掲載の説教
<2020年7月19日の説教から>

ルカによる福音書7章24節~35節

『言っておく、預言者以上の者である』
牧師 三輪地塩

 
洗礼者ヨハネは旧約預言者の受けた以上の苦しみを受けており、牢獄で憔悴し、動揺し、弱っていた。だが、イエスは、彼が語った言葉が弱くなり消えることはない、とヨハネをフォローする。なぜなら、その弱さの中にこそ、神の強さが実現するからである。

旧約聖書には義人と呼ばれたヨブが出てくる。心から神を信頼していたヨブは、受け入れ難いほどの悲惨な出来事に見舞われる。大勢の子どもたちは全員死に、財産は全て奪われ、健康を失った。見るも無残な状況にヨブは神への不信を募らせていく。義人と言われた彼さえも、自分が生まれたことさえも恨むようになる。

このことは我々信仰者とて同じである。健やかに順調に生活出来ている時は、神の祝福を感じるが、ひとたび失われると、「信仰ゆえに」極限まで弱くされてしまう。信仰者は、信仰者であるが故に、神を呪い、神に楯突き、神への疑いが生じる。

だが同時に、人が弱くされるとき、その弱さにおいて「強さ」も生じることを忘れてはならない。使徒パウロが「私たちは弱さの中でこそ強いのです」と語るとおり、主にあって弱くされた後に強くされる我々は、逆説的であるが、“人間的な強さ”を手放し、神の弱さと共に強くされる確信を得る。つまり、キリストのゲツセマネでのあの「弱さ」と「十字架上の弱さ」の内にこそ、“人間的強さを越えた、神の弱さ”の中で勝利を得るという救いの本質を知るのである。

生まれて間もない赤ちゃんは、ちょっとした怪我や病気で弱ってしまうが、“親を求める”という点において、誰よりも強く けたたましく叫ぶ。母親・父親を呼び求める乳飲み子の力は、恥も外聞も無く強く表出される。弱さの中で泣き叫びながら助けを求める力は、その弱さゆえにこそ強くされるのだ。信頼し、何が何でもそこにしがみつこうとする幼子は、「限りない強さ」を持っていると言える。

ペトロの手紙一2章2節に「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」とあるように、信仰者の「強さ」とは、この乳飲み子の弱さのような中で実現する。

2022.1.1.2 の週報掲載の説教

2022.1.1.2 の週報掲載の説教
<2020年7月12日の説教から>

ルカによる福音書7章18節~23節

『わたしにつまづかない人は幸いである』
                  牧師 三輪地塩

ユダヤ民衆の英雄である洗礼者ヨハネは、冤罪によって投獄されていた。時の権力者ヘロデの罪を糾弾したからである。現代日本においては、権力者の顔色を伺って忖度し、権力の意向に沿う行動を取ることが今やお家芸となって久しいが、“空気の読めない男”ヨハネは、ヘロデと真っ向から対立し、牢獄に入れられたのだった。ヨハネの誠実で正義に溢れる行動を、手放しで賞賛する人もいるだろうが、「賢さ」の行使に疑問を呈する人もいるだろう。神の名の下に賢い行動だったかどうかは分からない。だが少なくとも、神の名の下に「間違いのない言葉」だったのは事実であろう。

本来なら既に処刑されるはずの状況で、ヨハネは生き延びていたのは民衆たちからの絶大な支持による。だが、生き延びることが必ずしも幸福であるとは限らない。ヨハネは生き続ける苦しみを受けていたのだった。完全に自由が奪われるのみならず、ヘロデ家が存続するために飼い殺しにされる日々を牢獄で過ごしてたのだ。正しい言葉を発したがゆえに苦しむというこの状況から、不誠実で横暴な人間社会の縮図を見ることも出来よう。

絶望のヨハネは二人の使いによってイエスに質問をした。「神の国は一向にやってこない。正義は必ずしも勝つわけではなく、悪人は蔓延り裁かれない。この世とは一体何なのか」と。ヨハネはイエスに尋ねた。「あなたは本当に救い主ですか。それとも他にメシアが来るのですか?」と。

これに対してイエスは自身のメシア性を明言しない。それは人は苦しみに立つ時、即効性のある救いを求めるからだ。一刻も早く苦しみから抜け出したいと願う思いが、救いを矮小化させる。それは往々にして、身体的で物理的な救いの求めとなる。つまり、苦しみが無くなった途端に、救いも忘れてしまう。喉元過ぎれば何とやら、である。

イエスはここで救いの本質について問うている。「何が救いか」、ではなく「それを救いであると信じることが出来るか」と。真の神の救いとは、あなたの欲することが満たされるものではなく、それを超えたところにこそあるのだと。

2021.12.12 の週報掲載の説教

2021.12.12 の週報掲載の説教
<2020年7月5日の説教から>

ルカによる福音書7章11節~17節

『神はその民を心にかけてくださった』
                  牧師 三輪地塩

早くして夫を亡くし、一人息子と肩を寄せ合いながらの母子家庭のこの女性。彼女にとって息子は生きる意味であり拠り所であったに違いない。この息子が母を残して先だってしまった。「死」は全ての人に平等に与えられるが、物事には順序がある。息子に先立たれるという不条理さと絶望感は、耐えがたい苦しみとなる。

この女性のために、多くの人が付き添った。温かい心遣いであろう。だが、他者の優しさや同情心は、決定的な「救い」にはなりえない。悲しみの全てを根本的に取り去ることが出来ないからである。そこに人間の限界がある。

「主は、この母親を見て、憐れに思い『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)とある。悲しむ人に「泣かないで」と優しく言葉を掛けることは誰にでも出来る。だが、誰も自分の慰めの言葉に責任は持てない。これに対してイエスの「もう泣かなくともよい」には、我々の無責任な言葉とは決定的な違いがある。「泣く理由を取り去ることが出来る」からだ。

「憐れに思い」という13節の言葉は、ギリシャ語では「スプランクニゾマイ」、「はらわたが揺り動かされる」という強い意味を持つ、ルカ福音書中3箇所しか使われていない特殊な語である。「善きサマリア人の譬え」で「瀕死のユダヤ人を見て『憐れに思い』助けた」という箇所、「放蕩息子の譬え」の中で、「改心して帰ってきた息子を見つけ、父親は『憐れに思い』近寄って抱擁した」という箇所と当該箇所だけである。つまりここでイエスが憐れまれたのは、善きサマリア人の「無償の憐れみ」と、放蕩息子を快く迎え入れた父親の「わだかまりのない憐れみ」をもって、どん底に落ちている母親の心を捕え、悲しみに触れて接していることが分かる。聖書が示すのは息子の生き返りよりもむしろ、如何にしてイエスは我々の心に触れられるかに焦点が当てられる。つまり、死んだのは息子であったが、「本当に魂が死んでいたのは」むしろ母親の方だったということにある。イエスは最も悲しむ者の魂に触れ、全身全霊を注がれてこの母親を慰めるのである。