2020.11.8 の週報掲載の説教

<2019年8月18日の説教から>

『妻と夫
ペトロの手紙一31節~7
              牧師 三輪地塩

 
この箇所は、現代人の人権感覚と大きな齟齬をきたすものとなる。7節は「妻に対する夫の振る舞い」について「キリストの十字架の自己卑賤と同じように」、妻に接することが言われている。ここで問題なのが「妻を自分たちよりも弱いものだとわきまえて」という言葉である。もちろん、男性至上主義的感覚が多分に盛り込まれていることを差し引かねばならないのだが、ここを正しく理解するためにはどう読めば良いのか。

2000年前の世界は、概ね男性と女性の関係は「腕力」「武力」などの「物理的力がモノを言わせていた時代であった。ペトロの手紙が書かれた時も同様に、男性が女性よりも強い、ということには疑問の余地はなかった。現代的には、平均寿命を考えても、出席率を考えても、肉体的・精神的に女性の方が男性を圧倒していることは数字も証明している。

では、この箇所に接する我々は、これをどう読むのか。結論から言うと「社会的立場の弱さ」に焦点を当てて読むことは可能であろう。これが書かれたAD1世紀の地中海、小アジア一帯は家父長制長制度が世の常識だった。女性が行けない場所、してはならないこと、女性の仕事、行動、発言に多くの規制や制限があった。このような「社会的立場の弱さ」が当時の女性たちを取り巻いていた。

とは言え、2000年後の現代でこれが完全に解消されたとは言い難い。否、厳然として残る性差別・ジェンダーの問題。今も同じであると思わされる。政治、経済、企業、教育などの全ての世界・領域において男女不平等は今でも続いている。今日の箇所はこの「弱さ」、言い換えるならば「社会的地位の格差」をどのように考え、生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬するのかが問われているのだ。最も重要なことは、我々が「個人」として生きる時も、夫婦、家族、仲間関係という共同体の中を生きる時も、キリストの十字架に従って生きる者であることが大事なのだ。つまり「キリストの卑賤」において我々が生かされているように、夫婦の間にも「キリストの卑賤」が成り立つのであれば、互いを最も尊重し、互いに愛し合う関係性が生まれるということである。2章21節、「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。ご自分を低くされたキリストを通して、我々もキリストの低さが与えられて、キリストの御足の後に続く事が出来るように。

2020.11.1 の週報掲載の説教

<2019年8月4日の説教から>
『キリストの受けた傷によって
ペトロの手紙一218節~25
              牧師 三輪地塩

「キリストの十字架は、我々を生かすための犠牲であった」。

このことに異論の余地はない。だがここで「犠牲」について考えたい。例えば、ある信仰深い人がブラック企業に勤めていたとして、無慈悲な上司の言いなりになり、身体を壊すまで我慢を続けたとしよう。このようなに健康を害して「企業」を生かすことは、「キリスト教的な十字架的行為」であるはずがない。あるいは、ある高校球児が、全ての試合を一人で投げ抜き、甲子園優勝をもぎ取ったとしよう。その一人の犠牲によってチームは成功を手に入れたかもしれないが、決して「美しい犠牲」などではない。「犠牲」には「いけにえ」と、「目的のために大切なものを捨てる」という二つの意味がある。前者は「痛み・苦しみ」の意味、後者は感動的要素が含まれるかもしれない。

「キリストの十字架」には、「目的のために大切なものを捨てる」という後者の要素(聖書的には「燔祭」)に、プラスして「刑罰的要素」が含まれる。つまり「美しい死」ではないことは明らかだ。我々は、人類の罪の犠牲になったイエス・キリストの十字架を、美しく死んでいった「感動物語」にしてはならない。言い換えるならば、キリストの十字架は、感動でも、美しさでも無く、まして、クリエイティブで発展的行為なわけでもない。キリストの死は「悲惨」である。

「犠牲者」とは「悲惨」と「痛々しさ」と「苦しみ」の中に置かれる者のことをいう。「犠牲」になった企業戦士も、肩を壊してプロに行けなくなった高校球児も、我々の感動や喜びを満足させる「美しい犠牲者」であってはならないのだ。

 このことを、キリストの十字架の内に見なければならない。十字架は「悲惨」である。第一ペトロ2章22~24節は、初期キリスト教会の「キリスト賛歌」として読まれ、唄われていた箇所である。フィリピ書2章と異なるのは、ここに「高挙のキリスト」が書かれていないことにある。高く挙げられた、復活と昇天のキリストの「栄光」と「犠牲」とが繋がっていない。

 我々は、キリストの犠牲を理想化してはならない。十字架とは、我々が、苦しむ人をみて痛々しく思い、また自らが痛むあの「苦しみ」である。はらわた掻き毟られるような悲惨さと挫折に目を向け、それゆえに救われている我々の命を感謝して歩みたい。

2020.10.25の週報掲載の説教

<2019年7月21日の説教から>

権力への服従か?自由な生活か?
ペトロの手紙一211節~17
              牧師 三輪地塩

「異教徒の間で立派に生活しなさい」と著者は言う。彼らは異邦人の中に住む少数のキリスト者であり、彼らがどのように行動するかによって、キリスト教の評価や見方が好意的にも否定的にもなる。日本人があまり行くことのない海外に旅行などをする際、自分がその旅先の人々にとっての「初めて会う日本人」ということがある。ちょうどそれと似ているかもしれない。あなた方はキリスト者の代表として「立派に生活しなさい」と。

特に著者は、「肉の欲」に注意せよと11節で言う。「肉の欲」は、食欲や睡眠欲のような生理現象を指しているのではない。イエス・キリストが、40日間荒れ野の誘惑に晒された時(つまり、自らを神の子であるという自己認識を持った時)自分には何でもできる力と可能性を自覚するのであった。そこに悪魔的誘惑、或いは誘惑に導く内的囁きの声を聞くのであった。その誘惑は、全能性、権力欲、人心掌握などなど、自己を輝かせようとする「欲」であった。しかしイエスの答えは、「人はパンのみによって生きるにあらず」であった。

イエスが、欲に従って歩まなかったように、自らの利益・徳、自らへの自己愛の具現化を求めて歩むのではなく、神に示された隣人愛と赦しによる歩みである。異邦人の中に生きる時、たとえそこに迫害の嵐が吹き荒れていようとも、その場所で立派に生きることこそ、キリスト者としての歩みなのだ、と著者は語る。我々は「地上を旅する神の民」(カール・バルト)である。天に国籍を持つ寄留者、であり「仮住まいの身」(11節)であるのだから、自らの生活がキリストを現していくものでありたい。

12節「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、おとずれの日に神をあがめるようになります」とある通り、我々の行いは、キリストを示すことができる。使徒言行録2章43節以下には共同生活をしていた初代教会の信徒たちが、物を共有し合い、共にある交わりを大切にし、「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」とある。宣教とは「私」というエゴのなす業ではなく、キリストの香りを漂わせる営みにほかならない。

2020.10.11の週報掲載の説教

<2019年7月14日の説教から>
混じりけのない霊の乳をペトロの手紙一21節~10
                       牧師 三輪地塩

ヨハンナ・シュピリの『アルプスの少女ハイジ』という作品は実に福音的なストーリーである。叔母に連れられてアルプスのアルムに連れられて来たハイジは、山奥で暮らすおじいさんの元に預けられる。ハイジの利発で明るい性格は、自然の中でさらに育まれてく。だが、読み書きなどの教育が行き届かないことを憂慮した叔母は、ハイジを大都市フランクフルトに引っ越しそこの学校に入学させた。読み書き、計算、躾け、マナーをならい、山の暮らしと異なる厳しい生活を送るも、ハイジは馴染めず精神を患って「夢遊病」になる。精神科医の診断は「山の生活に戻ること」であった。

とは言え、大都会の暮らしは、必ずしも悪いことだけではなく、クララという親友とそのおばあさんと出会い、彼女の熱心なキリスト教信仰に出会うという宝を得るのだった。ハイジは聖書の話しを聞き、神の存在と祈る素晴らしさを「大都会で」学ぶのだった。そこでハイジはおばあさんから、パウル・ゲルハルトの讃美歌「朝の恵み」という以下の詩を教えられた。

「黄金の太陽は、喜びと歓喜に満ち、私たちの世界にその輝きと一緒に、心を爽やかにする光を届けてくれます。打ちひしがれていた 私の頭と手足は、再び起こされ、私は元気に明るく、空に顔を向けます」。 パウル・ゲルハルトは、讃美歌107番の作詞家として有名なルター派の牧師である。この詩で重要なのは「打ちひしがれていた 私の頭と手足は、再び起こされ、私は元気に明るく、空に顔を向けます」という、「復活」「回復」が語られていることにある。この『アルプスの少女ハイジ』という物語は、読者に「自然vs都会」という二元論的価値観を強要せず、どちらにも良い部分があることを伝える。自然の良さ、都会での出会い、この両面がハイジの霊的な成長を支えたのだった。自然を通して神を知り、聖書を通して神を知る。豊かさを通して神を知り、苦しみを通して神を知る。この『ハイジ』の物語は、人間の全ての出来事が神の深い思慮の中にあることが示される。当該の聖書箇所、2章4節。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」。この言葉には、ハイジが苦しみを経て神の救いに出会ったような、深い神の思慮、すなわち「十字架の救い」に我々の目を向けさせる。

2020.10.04の週報掲載の説教

<2019年7月7日の説教から>

変わることのない生きた言葉
ペトロの手紙一122節~25
              牧師 三輪地塩

先週の箇所では、終末論が語られていた。その流れを受けて、ペトロは言う。「真理を受け入れて、魂を清めて、偽りの無い兄弟愛を頂くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。ここで言われる「真理」とは、「神」と置き換えて良い。

この手紙の背景には「迫害」がある。この手紙の読者教会の信徒たちは、周囲・近所の人たちから、キリスト者という理由だけで迫害を受けていた。重苦しい状況ではあるが、注意深く読むと、この箇所には希望が見えてくる。「真理を受け入れて、魂を清めて、偽りの無い兄弟愛を頂くようになったのですから」とあるように、あなた方は既にそうなってる、と断定形で語っている。既にこれらの小アジアの教会では、教会員同士、力を合わせて、「兄弟愛を既に抱いている」状況であった。兄弟愛。つまり「共同体内における愛」が、既に「ある」と言っている。

この兄弟愛がどこに由来するのか、が22節以下のテーマである。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わる事のない、生きた言葉によって新たに生まれたのです」(23節)。つまり我々の愛は、神から出ていると述べる。最も重要なことは、この神の言葉が、「朽ちない種である」ということにある。ペトロはイザヤ書40章を引用し、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」と語っている。ここには、人間のものは朽ちる、ということと、神から出るものは朽ちない、という二つのことが同時に語られる。神から出るもの、つまり共同体の中に既にあるもの、「兄弟愛」「神の愛」は朽ちるものではない。第一コリント13章13節で、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と言われている通りである。

つまりこの著者は、キリストの愛が本物の愛だったように、あなた方の愛もそれに倣いなさい、と言っている。その愛が全ての人間関係を作る。教会コミュニティも同様に、全ては「愛」が作り出すのだと著者は語る。

2020.09.27の週報掲載の説教

<2019年6月23日の説教から>
地上に仮住まいする身として
      ペトロの手紙一113節~21
              牧師 三輪地塩

宗教改革者マルティン・ルターは「人の死は終末ではない。人の死は「人生の完成である」」と語る。我々が、教会に来て、本当の意味で終末について考えることがあるとするならば、「我々の人生の完成とは何か」についてである。信仰者は終末に向かって歩む民であるが、死んだ後、実際にどうなるのかは分からない。ただ一つだけ、キリスト者として言えるのは、「人の死は絶望ではなく、希望である」ということ。死んだ後も生き続けることを我々キリスト者は信じている。

そのためにどうすればよいのかについてペトロは、「神を畏れて生活すべきである」(17節)と述べる。神を畏れて、神を覚えて生きよ、と聖書は我々に言う。「この地上に仮住まいする間」(17節)、つまり、我々が生きている今は「仮のとき」であり、本当の国籍が天にあるように、本当の「時」は天にある。神のもとにいる時こそが「本当の時」となる。

天に属し、神に属する我々は、どう生活すれば良いのか。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(15節)とある。

「聖なる者となる」という言葉には戸惑うかもしれないが、「聖なる」は、「道徳的な立派さ」を意味しない。「道徳的」と「天国」はイコールで結ばれない。イエスが「病人に医者はいらない」と言うように、我々の罪には救いが必要だ。「聖なる」は、我々が罪を持っていることを隠さずに告白し、自らそれを認め、その罪の歩みが正されて生きていくことにある。神によって修正・修復・回復されて生きることである。頑張ったから救われるのではなく、自らの罪を知りつつも、その罪と向き合い、神と共に歩み、赦され、修復される歩みを行なうことが大切だ。

人間的に優れた人は、世の中にたくさんいる。だが、人は、自分の思う正しさを、人に押しつけてしまいがちでもある。その反作用として、自分と考えの違う人を糾弾しようともする。人間の正しさがあるとき、そこには、「人間中心の「聖なる」」(と思われる)生活しか存在しなくなる。だから聖書は、神における「聖なる」を求める。つまり神を思い、神と共に歩む歩みを行なう続けることこそ重要であると。