2018.06.03 説教から

<6月3日の説教から>
『四千人の給食』
          マルコによる福音書81節~10
                      牧師 三輪地塩
 
 この箇所は決して「5000人の給食」の焼き直しなどではなく、固有のメッセージを持っている。
注目したいのは「籠」という語である。5000人の給食の話では「12の籠」がいっぱいになったとあり4000人の方では「7つの籠」となっている。どちらも「籠が溢れるほどに祝福で満たされた」事を示唆する。「籠」という単語は5000人では「コフィノス」、4000人の方では「スピリダス」。「コフィノス」はユダヤ人が旅で使う籠、「スピリダス」は異邦人が使う籠である。つまり、ここに集まっていた群衆は異邦人であることが分かる。
ところで、群衆の空腹を満たしてあげたいと思ったのは誰なのか?5000人の給食の時は、弟子たちから言い出したのであるが、4000人の給食では、主イエスが言い出していることは興味深い。ここには明らかは意図を感じる。弟子たちはここに来た4000人の群衆、つまり異邦人に対し、「神の民ではないし、神の御前に立ち得る者たちじゃないんだから、そこまで配慮する必要はない」と考えていたのではないか。なぜなら「神に選ばれたのは我々ユダヤ人であり、異邦人は神の前に立つ権利を持たないものたちだから」であると。或いは、こういう思いもあっただろう。「5000人の給食という、あの奇跡の出来事は、ユダヤ人に対して行われた。それを神の前に相応しくない異邦人相手に行うのは勿体ない」と。このような意識が、多かれ少なかれ ユダヤ人である「弟子たち」の中にあったのだろう。
 だがイエスは異邦人たち(群衆)の空腹に配慮し、それを満たそうとされる。「ユダヤ人たち(弟子たち)は、彼らを神の前に立つことが出来ないというがそうではない。ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、困窮し、満たされない者、悲しむ者、痛む者、その全てに、神は隔てなく恵みを与えられる、とイエスは言う。7つの籠いっぱいになったパンは、まさに、全ての人、全ての種族、全ての違いの中に属する者たちへの、救いのパンとなる。

2018.05.13の説教から

513日の礼拝説教から>
『食卓の下の子犬』
         マルコによる福音書724節~30
                             牧師 三輪地塩
 ェニキア人は、イスラエル人たちと敵対的な関係が1000年以上も続いていたため、ユダヤ人にとって「神の民の外側にいる人々」であり、良い印象を持たれていなかったと言える。
このような文化背景が前提にあるにもかかわらず、このフェニキア人の女性(母親)は、自分の娘を救ってくれるようイエスに懇願したのである。だがイエスは「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と拒否したのである。この冷淡とも受け取れるイエスの返答についてはさておき、この母親はなおも食い下がるのである。
 この母親は、愛する娘が悪霊に取り憑かれていることで大変な苦しみを受けていた。現代で言うところの、精神疾患の状態と思われる娘を心配し、心を痛め、なんとか元通りに治って欲しいと願っているのであった。イエスの足下にひれ伏すこの姿は、娘を思う切実な願いであり、その辛さが胸に突き刺さる。母親は娘に様々な治療を施した事だろう。民間療法、魔術、薬なども試した事であろう。時間を掛け、費用を掛け、全てをこの娘に注ぎ、娘に寄り添い、治療に当たったが、一向に良くならなかった。
イエスから、けんもほろろに断られた母親であったが、それでも食い下がり、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と懇願した。この諦めない姿。一生懸命粘るこのひたむきな姿が、主イエスの考えを変えさせた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。この言葉と同時に、娘は癒やされたと聖書は記している。
 普通なら諦めてしまいそうなこの場面で、彼女は「謙虚に」「粘り強く」主に求めるのである。ここに神との向き合い方のヒントがある。我々は、神とどう向き合うのか。厚かましいまでも神に願い続ける。しかし常に謙虚に、である。

2018.05.06の説教から

 
56日の礼拝説教から>
『昔の人の言い伝えに従って歩まず』
         マルコによる福音書71節~23
                             牧師 三輪地塩
 の箇所を読む上で二点の事が前提となる。まず「コルバン」とは神殿に献げる「穀物」の事を言う。もう一点は、当時のイスラエルには「両親の扶養義務」があったことである。この義務はモーセの律法にも出てくる。だがこの扶養義務からズルをして逃れたいと思う者たちも少なくなかったという。どのようなズルかと言うと、「これは神への捧げ物、コルバンとして捧げるので、親を扶養する事は出来ません。神様に捧げる為に、親には捧げられません」と言って扶養義務を逃れるのである。現代社会でもこのようなグレーゾーンを渡って法律の穴を逃れようとする「輩」が後を絶たないが、2000年前の人間も全く同じであった。
 このような背景によって、9節以下の言葉を考えると、よく理解出来る。十戒の第4戒に「あなたの父母を敬え」とあるが、ここから理解されるのは「両親の扶養義務」である。更に広い意味で捉えると、健常者や経済的裕福な者たちは、弱者に対する相互扶助や支援の責任・義務を負う、というのが当時のルールであった。だが、「神へのコルバン・神に捧げるから」という理由をつけて、神の名をみだりに唱えつつ、実際は、自分の懐に財産をしまい込んでいる人も少なくなかったのである。イエスが告発し、暴露しているのは、このような、ズルをした者たちが、「神の名をみだりに使っている事」であった。
 イエスは群衆を集め、15節で言う。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。これは、多少解釈が難しいが、律法の食物規定を考えても、神の作り給う被造物に汚れはないことと、汚れは「我々の心」が作り出すものだ、と述べている。すなわち汚れは「罪」の問題に由来する。「心」とは何か。それは、「人間の正しさによってではなく、神の正しさによって、正しく神に向かう思い」。それこそが、我々の言うところの「心」の正しいあり方だとイエスは言うのである

2018.04.28の説教から

 
                 429日の礼拝説教から>                      
               『湖の上を歩く』
         マルコによる福音書645節~56節 
 
 湖の上を歩く姿を見た弟子たちは、「幽霊だ!」と叫び恐れた。
英訳聖書(RSV)では「Ghost」と訳している。
 ギリシャ語の原文では「幽霊・妖怪・亡霊」などを意味する
「ファンタスマ」という語が使われている。その他「現れ」「現象」
という意味も持つ。この箇所で、弟子たちが「ファンタスマ」だと
思って見たものは、彼らの心の中にある「妄想」「恐怖」の現れ、現象
である。弟子たちが怯えたのは、古代オリエント世界に広がる、伝説や
神話のようなものであったと思われる。
「レビヤタン」「ティアマト」などもその一つである。 
 ここで弟子たちが見た「ファンタスマ」は、人間の理解を超えた恐怖、
自分の想像を絶する何らかの力に対する恐怖を示してる。
同時に、その姿の正体が主イエスであったという事実は、我々信仰者に、
イエス・キリストこそが救いの神である、と言っているのである。
 この箇所は5000人のパンの出来事の後に記されている。これは明らか
に、出エジプト記の「マナの奇跡」を想起させる。大勢の空腹を満たす
のは、真の神以外にはおられないという信仰告白である。更に、
「荒れ狂う波の真ん中を進んで来るイエスの姿」は、出エジプト後に葦
の海を割ってその真ん中を通った「モーセの海割りの出来事」を想起さ
せようとしている。
 この時弟子たちに対するイエスの言葉は「安心しなさい。わたしだ。
恐れることはない」であったが、「わたしだ」と言うのは「エゴー・
エイミ」[]I am[]である。これは出エジプト3章で、モーセに
対して神が顕現された時の宣言の言葉「私はあってあるもの」「私はあ
る、わたしはあるという者だ」と類似する。つまり、弟子たちにご自分
を「エゴー・エイミ」と言い表した主イエスこそが、自然のすべてを収
め給う真の神。そして、世にうごめき、世にはびこる、すべての恐怖を
乗り越えさせ給う真の神」と宣言されているのである。その主イエスが、
yle="font-family:serif;">我々に「恐れることはない」と声を掛けている。
 

2018.04.12 説教より

422日の礼拝説教から>
『五千人の給食』
マルコによる福音書630節~44
                 牧師 三輪地塩
 5つのパンと2匹の魚について、原文でパンは「アルトス」という語が使われている。これは小さなパンを示す。そこに2匹の魚があったとしても焼け石に水であり、何の足しにもならない食料であった。しかしこの箇所が語るのは、その小さな食料が、5000人の成人男性たちの空腹を満たした、という驚異的な出来事であった。「パンを食べた人は、男が5000人であった」と締め括られている通り、男性に限って言えば5000人であった、という事であり、女性を含めるともっと数字は大きくなると思われる。

 マタイ福音書1413節の平行箇所と比べてみると、小さな言葉の違いでありながら、正反対の事を語っている部分がある。マタイ福音書1416節では、空腹の人々を見て、イエスは言う。「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。これに対して弟子たちは「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と応答している。英訳では「We have only fiveloaves」。つまり「five loves」(5つのパン)「only」(しかない)と訳しているのである。新共同訳も「5つのパンと2匹の魚しかありません」というように、「しか~ない」の言葉を使って邦訳している。

 だがこれに対してマルコ638節では、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」というイエスの言葉に対し、弟子たちは持っている食料を確認した上で「五つあります。それに魚が二匹です」と結果報告をするのである。ここには、5つしかない」「2匹しかない」という消極的ものではなく、まるで「ある」ものを(例えそれが少なかったとしても)喜んでさえいるように感じられる応答となっている。喜んでいなかったとしても、少なくとも「事実確認」以上でもそれ以下でもない、「正しい現状把握」を行っている。
我々人間は、多いとか少ないなどと言いながら、その量に対して、評価をする。善悪の評価、幸不幸の評価、喜びと悲しみという評価を、その「量」「数」によって行うのだ。我々が主の言葉を信じ、それに従って「~しかない」から「~もある」と喜びの認識に変わる事が出来れば、本当に5つのパンと2匹の魚で5千人を養うことが出来るかもしれない。