<2019年4月7日説教から>
『イエスの裁判』
マルコによる福音書14章53節~65節
牧師 三輪地塩
イエスの活動は、律法学者たちの反感を買った。イエスが神の律法に違反しいるように、律法学者たちの目に映ったからである。しかしイエスは彼らの間違いを臆することなく追求した。
主イエスは、彼らとことなり、律法を文字どおりにではなく、律法の「文字」にではなく、「守るべき内容の意味」を大切にしようとされた。イエスは、神から与えられた律法の意味は「愛すること」であると再解釈したのであった。「神を愛し、隣人を愛する」ことこそが「最も重要な掟である」とイエスは述べた。
また、当時は罪人と見做されていた病人や障がい者たちを次々に癒やした。困っているからでも、不自由そうだからでもない。それは救いの副産物であり、最も重要なのは、魂の救い、永遠の命をうけること、にあった。「この人をもう誰も罪に問うことのないように」と語り、体の癒やしはその証拠となって表出した現象であった。
律法によって「罪人」と見做された者たち、社会の中で疎外されている者たちを、共に同じ食卓に呼び寄せ、主にある交わりに加えた。人間は特定の人だけが罪深い者であるのではなく、格差も価値の差もなく、皆が罪深く、皆が救いに値することを示す行為であった。しかしこのような行動は、律法学者には受入れがたく、そこに「殺意」が芽生えたのであった。
過越祭になり、イエスがエルサレムに入城した時、神殿を訪れたイエスは、境内で不当な商売がなされている様子と、それを許可している祭司・律法学者たちの姿を見て、「ここは強盗の巣だ。あなたがたが祈りの家を強盗の巣にしてしまった」と非難し、商売人たちの台をひっくり返した。これこそが、祭司長たちの目に「神殿への暴挙」「神に対する冒涜」と映り、十字架刑への道を決定的とした。表面的な「律法の遵守」を求めた律法学者に対し、その内実(つまり神の愛の豊かさ)を求めたイエスは、「文字を」遵守する者たちに十字架にかけられた。それは、「神の言」(ヨハネ福音書1章)が、「文字信奉者」によって極刑に処されることであった。だが我々は、神の「文字」ではなく「神の言」が真実であり、その言葉が、「愛の言葉」であることを知っている。クリスマスを迎える我々は、この「神の言」が来られたことの意味と、神の救いの内実に思いを寄せたい。
2019.12.1 週報掲載の説教
<2019年3月31日の説教から>
『ユダに裏切られ、イエス逮捕される』
マルコによる福音書14章43節~52節
牧師 三輪地塩
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。
この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。
キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。
『ユダに裏切られ、イエス逮捕される』
マルコによる福音書14章43節~52節
牧師 三輪地塩
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。
この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。
キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。
2019.11.24 週報掲載の説教
<2019年3月24日の説教から>
「ゲッセマネの祈り」
マルコによる福音書14章32節~42節
牧師 三輪地塩
「イエスはひどく恐れて悶えはじめ、彼らに言われた。私は死ぬばかりに悲しい」(33節)。神の子メシアのイメージからかけ離れた、弱々しく、恐怖に怯える姿である。この真の神は、真の人でもあられた。「主、我らと共に居まし給う」キリストは、自ら痛み、嘆き、苦しむ仲保者であられる。「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈る、「苦しまれる神」なのだ。
14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とある。ここで歌っていたのは、過越祭で歌われることの多かった「詩編113編~118編」と言われる。「エジプト・ハレル詩編」というシリーズである。イエス一行は特に113編5~9節を歌っていたのではないかと思われる。次のような詩である。
「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を ちりの中から起こし、乏しい者をあくたの中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」
(詩編113:5~9)
この113編には「低く降って」という言葉が使われる。特に「神が身を低くする」という使い方は、旧約聖書中113編にしか出て来ない。この詩編によると、主が自ら身を低くされる目的は
①「弱い者をちりから「起こす」ため」
②「貧しい者をあくたから「引き上げる」ため」
③「主にその「王座に着かせる」ため」
と述べられる。ここから「卑賤のキリスト」「へりくだったキリスト」が想起される。我々が弱さの中から起こされ、貧しさの中から引き上げられるため、そしてキリストご自身が、その低められた究極の中にあって、神の王座に着くためであることが予期される。これこそが、我々に与えられた復活の命の希望である。
「ゲッセマネの祈り」
マルコによる福音書14章32節~42節
牧師 三輪地塩
「イエスはひどく恐れて悶えはじめ、彼らに言われた。私は死ぬばかりに悲しい」(33節)。神の子メシアのイメージからかけ離れた、弱々しく、恐怖に怯える姿である。この真の神は、真の人でもあられた。「主、我らと共に居まし給う」キリストは、自ら痛み、嘆き、苦しむ仲保者であられる。「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈る、「苦しまれる神」なのだ。
14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とある。ここで歌っていたのは、過越祭で歌われることの多かった「詩編113編~118編」と言われる。「エジプト・ハレル詩編」というシリーズである。イエス一行は特に113編5~9節を歌っていたのではないかと思われる。次のような詩である。
「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を ちりの中から起こし、乏しい者をあくたの中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」
(詩編113:5~9)
この113編には「低く降って」という言葉が使われる。特に「神が身を低くする」という使い方は、旧約聖書中113編にしか出て来ない。この詩編によると、主が自ら身を低くされる目的は
①「弱い者をちりから「起こす」ため」
②「貧しい者をあくたから「引き上げる」ため」
③「主にその「王座に着かせる」ため」
と述べられる。ここから「卑賤のキリスト」「へりくだったキリスト」が想起される。我々が弱さの中から起こされ、貧しさの中から引き上げられるため、そしてキリストご自身が、その低められた究極の中にあって、神の王座に着くためであることが予期される。これこそが、我々に与えられた復活の命の希望である。
2019.11.17 週報掲載の説教
<2019年3月17日説教から>
『あなたのことを知らないとは申しません』
マルコによる福音書14章27節~31節
牧師 三輪地塩
イエスはさまざまな奇跡の業を行いながら宣教活動を行ってきた。弟子たちは、その奇跡を間近で見ることによって、自らの経験としたのであった。だが、その経験が、かえって弟子たちの落とし穴になった。彼らは、イエスの救いの業を、自らの力で成し遂げたかのような錯覚に陥っていた。
例えば、アクション映画を見た後に、自分がヒーローになったかのように気持ちが高揚するし、苦難を乗り越える小説を読み終えた後には達成感を抱いてしまう。このときの弟子たちは、「イエスの宣教の主人公」になってしまっていた。
その「勘違い」が明らかとなったのが、イエスの言葉に対する彼らの応答に示される。イエスは自らの逮捕を予告し、あなたたち(弟子たち)は私(イエス)から逃げていくだろう、と伝えた。これに対し、勘違いを起こしている弟子たちは、次のように答える。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このように、イエスの予告を否定し、自らの「意思の強さ」を強調したのだった。それは答えたペトロのみならず、他の弟子たち全員の思いの代弁であった。
ここに示されるのは、「人間の過信」である。どんなにイエスと共に歩んでいても、イエスの奇跡を間近で見たとしても、我々人間が、神になることなど出来ないのだ。このペトロの言葉は、あたかも「人間には、何でもできる」と語っているかのようだ。我々人間は高を括ってはならない。我々はそれほど強くはないのだ。
だが、ここには人間の絶望が書かれているのではない。確かに人間の罪のみを見ると「絶望」しかないのかもしれない。だが、ここに希望に照らされた言葉がある。28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。この言葉である。復活の時に語られた天の使いたちの言葉が先取りされている。罪ある我々に、イエスは復活して再会してくださるという祝福の約束である。この後、イエスの逮捕と同時に一目散に逃げてしまう弟子たちに、イエスは「あなた方より先に」、つまり、キリストの恵みが我々に「先行して」待っている――救いは用意されている、と語るのである。
『あなたのことを知らないとは申しません』
マルコによる福音書14章27節~31節
牧師 三輪地塩
イエスはさまざまな奇跡の業を行いながら宣教活動を行ってきた。弟子たちは、その奇跡を間近で見ることによって、自らの経験としたのであった。だが、その経験が、かえって弟子たちの落とし穴になった。彼らは、イエスの救いの業を、自らの力で成し遂げたかのような錯覚に陥っていた。
例えば、アクション映画を見た後に、自分がヒーローになったかのように気持ちが高揚するし、苦難を乗り越える小説を読み終えた後には達成感を抱いてしまう。このときの弟子たちは、「イエスの宣教の主人公」になってしまっていた。
その「勘違い」が明らかとなったのが、イエスの言葉に対する彼らの応答に示される。イエスは自らの逮捕を予告し、あなたたち(弟子たち)は私(イエス)から逃げていくだろう、と伝えた。これに対し、勘違いを起こしている弟子たちは、次のように答える。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このように、イエスの予告を否定し、自らの「意思の強さ」を強調したのだった。それは答えたペトロのみならず、他の弟子たち全員の思いの代弁であった。
ここに示されるのは、「人間の過信」である。どんなにイエスと共に歩んでいても、イエスの奇跡を間近で見たとしても、我々人間が、神になることなど出来ないのだ。このペトロの言葉は、あたかも「人間には、何でもできる」と語っているかのようだ。我々人間は高を括ってはならない。我々はそれほど強くはないのだ。
だが、ここには人間の絶望が書かれているのではない。確かに人間の罪のみを見ると「絶望」しかないのかもしれない。だが、ここに希望に照らされた言葉がある。28節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。この言葉である。復活の時に語られた天の使いたちの言葉が先取りされている。罪ある我々に、イエスは復活して再会してくださるという祝福の約束である。この後、イエスの逮捕と同時に一目散に逃げてしまう弟子たちに、イエスは「あなた方より先に」、つまり、キリストの恵みが我々に「先行して」待っている――救いは用意されている、と語るのである。
2019.11.3 週報掲載の説教
<2019年2月3日説教から>
『今後も決してないほどの苦難が来る』
マルコによる福音書13章14節~23節
牧師 三輪地塩
この30年間の総決算をするとき、最も衝撃を与えた出来事に「地下鉄サリン事件」がある。これは我々日本人の宗教観を一変された。しかも悪い意味で。
あの教祖がしきりに使っていた「ハルマゲドン」は、ヨハネ黙示録の中で天使と悪魔がこのこの世で戦う「最終決戦」と言われるところから来ている。聖書の意味はキリストの再臨に対する希望であって、「サリン事件」などではない。まことに勝手な解釈も甚だしい。
ジャーナリスト江川紹子は「人は恐怖感、無力感、そして切迫感を同時に抱いてしまうと、立ち止まったり、振り返ったりして内省する余裕を失い、唯一救われる可能性のある行動を語る方向に誘導されやすい」と語る。
だが我々の日常にも、切迫観に煽られる思考停止は頻繁に起こる。例えば、スーパーマーケットに行き、食品売り場で鳴り響く、急かされる音楽と連呼される「お買い得!」の言葉。タイムセールになると「半額」シールが貼られ、我々は思考を停止し、パーセンテージの高い商品を、必要であるか否かを考えずにカゴに入れてしまう。レジを通すとき、ハタと我に返り、自らの愚行を悔やんでも時既に遅し。切迫は脅迫となり、無思慮な思考停止を生んでしまう。
恐らく、かのカルト信者たちも、切迫した終末観を植え付けられ、世の終わりを迫られ、恐怖に駆られ、教祖の言葉に全てを委ねてしまっただあろう。あの教祖は自らの「予言」を現実させたかに見せるため、「予言の成就」を、血で塗られた出来事としてデッチ上げた。「まやかしの終末」である。
マルコ福音書は我々に終末を語る。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら― 読者は悟れ ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。我々は「憎むべき破壊者」を見極め「悟れるかどうか」にかかっているという。見誤ってはならず、いつも悟ることが出来るよう、くまなく世を見続けねばならないとマルコは語る。
我々信仰者は知っている。終末の出来事は「恐怖」ではなく「最終的な審判の時」である。言わば、この世の混乱した結び目がほどかれる時、それが終末である。決して恐怖ではなく「祝福」だ。我々は自信を持って終末の備えをしたい。
『今後も決してないほどの苦難が来る』
マルコによる福音書13章14節~23節
牧師 三輪地塩
この30年間の総決算をするとき、最も衝撃を与えた出来事に「地下鉄サリン事件」がある。これは我々日本人の宗教観を一変された。しかも悪い意味で。
あの教祖がしきりに使っていた「ハルマゲドン」は、ヨハネ黙示録の中で天使と悪魔がこのこの世で戦う「最終決戦」と言われるところから来ている。聖書の意味はキリストの再臨に対する希望であって、「サリン事件」などではない。まことに勝手な解釈も甚だしい。
ジャーナリスト江川紹子は「人は恐怖感、無力感、そして切迫感を同時に抱いてしまうと、立ち止まったり、振り返ったりして内省する余裕を失い、唯一救われる可能性のある行動を語る方向に誘導されやすい」と語る。
だが我々の日常にも、切迫観に煽られる思考停止は頻繁に起こる。例えば、スーパーマーケットに行き、食品売り場で鳴り響く、急かされる音楽と連呼される「お買い得!」の言葉。タイムセールになると「半額」シールが貼られ、我々は思考を停止し、パーセンテージの高い商品を、必要であるか否かを考えずにカゴに入れてしまう。レジを通すとき、ハタと我に返り、自らの愚行を悔やんでも時既に遅し。切迫は脅迫となり、無思慮な思考停止を生んでしまう。
恐らく、かのカルト信者たちも、切迫した終末観を植え付けられ、世の終わりを迫られ、恐怖に駆られ、教祖の言葉に全てを委ねてしまっただあろう。あの教祖は自らの「予言」を現実させたかに見せるため、「予言の成就」を、血で塗られた出来事としてデッチ上げた。「まやかしの終末」である。
マルコ福音書は我々に終末を語る。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら― 読者は悟れ ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。我々は「憎むべき破壊者」を見極め「悟れるかどうか」にかかっているという。見誤ってはならず、いつも悟ることが出来るよう、くまなく世を見続けねばならないとマルコは語る。
我々信仰者は知っている。終末の出来事は「恐怖」ではなく「最終的な審判の時」である。言わば、この世の混乱した結び目がほどかれる時、それが終末である。決して恐怖ではなく「祝福」だ。我々は自信を持って終末の備えをしたい。
2019.10.27 週報掲載の説教
<2019年3月10日説教から>
『最後の晩餐』
マルコによる福音書14章22節~26節
牧師 三輪地塩
イエスが十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」での出来事。イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と発言し、弟子たちはショックを受けた。彼らは代わる代わる「まさか、わたしのことでは」と言い始めた。この弟子たちの姿勢は悪くない。なぜなら、「それは私ではありません」ではなく「それは私かもしれません」と言っているからである。人は罪を犯す。それが前提である。どんな立派な人間であっても、どんなに社会的地位が高くても、「聖人」と呼ばれるような者であっても、みんな罪人である。それ故に、「まさか私のことでは」と尋ねる姿勢は正しい。
この衝撃発言の後でも、イエスは晩餐を続け、これが十字架前の最後の晩餐となったのである。我々の礼拝においても、次の言葉は聖餐式でお馴染みである。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。この言葉は重要だ。キリストの十字架の血が、個人の罪ではなく「多く人の罪のために流されたものである」と書かれているからである。ユダは明らかな「裏切り者」のレッテルを貼られる人物になったが、この罪をユダのみに着せることはできない。我々の内に「ユダ性」が秘められており、「ユダ的に」罪を犯す可能性から目を背けてはならない。ユダは我々人間界の彼岸に存在するのではなく、まったく我々と同じ此岸の存在である。それは、他の弟子たちが、それぞれの仕方でイエスを裏切った事にも示される。例えばマルコ福音書14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあり、続く51節には「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。とある。また同14章71節には「するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなた方の言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とある。ユダ以外の弟子たちもイエスを裏切っている。それは我々人間全ての姿だ。そこに言い訳も弁明も釈明もできない。我々に残されている行為は、この罪を赦し得るのは、「多くの人の罪のために流された」「キリストの十字架以外にない」と告白することのみである。
『最後の晩餐』
マルコによる福音書14章22節~26節
牧師 三輪地塩
イエスが十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」での出来事。イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と発言し、弟子たちはショックを受けた。彼らは代わる代わる「まさか、わたしのことでは」と言い始めた。この弟子たちの姿勢は悪くない。なぜなら、「それは私ではありません」ではなく「それは私かもしれません」と言っているからである。人は罪を犯す。それが前提である。どんな立派な人間であっても、どんなに社会的地位が高くても、「聖人」と呼ばれるような者であっても、みんな罪人である。それ故に、「まさか私のことでは」と尋ねる姿勢は正しい。
この衝撃発言の後でも、イエスは晩餐を続け、これが十字架前の最後の晩餐となったのである。我々の礼拝においても、次の言葉は聖餐式でお馴染みである。「これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である」。この言葉は重要だ。キリストの十字架の血が、個人の罪ではなく「多く人の罪のために流されたものである」と書かれているからである。ユダは明らかな「裏切り者」のレッテルを貼られる人物になったが、この罪をユダのみに着せることはできない。我々の内に「ユダ性」が秘められており、「ユダ的に」罪を犯す可能性から目を背けてはならない。ユダは我々人間界の彼岸に存在するのではなく、まったく我々と同じ此岸の存在である。それは、他の弟子たちが、それぞれの仕方でイエスを裏切った事にも示される。例えばマルコ福音書14章50節には「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあり、続く51節には「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。とある。また同14章71節には「するとペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなた方の言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」とある。ユダ以外の弟子たちもイエスを裏切っている。それは我々人間全ての姿だ。そこに言い訳も弁明も釈明もできない。我々に残されている行為は、この罪を赦し得るのは、「多くの人の罪のために流された」「キリストの十字架以外にない」と告白することのみである。
