2017年1月29日の説教から

 
 
 

      <129日の説教から>
        ゴルゴタにて
    ヨハネによる福音書1916b27
                 牧師 三輪地塩
 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と十字架の上に罪状書きされた言葉
(文字)が重要である。これはラテン語では
IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」であり、頭文字4つを取って
INRI」となる。イエスの十字架を描く絵画や映画などでは、こう書かれた
看板が掲げられるのを目にするだろう。「ナザレのイエス」は、当時沢山いた
「イエス」という名に、町の名「ナザレ」を付け、バラバ・イエスでも
バル・イエスでもなく十字架に掛かったのは「ナザレのイエス」であると
 個人を特定をしている。「ユダヤ人の王」とはイザヤ書53章の「主の僕」を
想起させる弱々しさの象徴である。
しかしヨハネ福音書は、ラテン語以外にギリシャ語とヘブライ語の表記も
掲げられていたとしており、これは実は大変重要である。
ギリシャ語では
ησος Ναζωραος Bασιλες τν ουδαίων
(イエスース・ホ・ナゾーライオス・ホ・バシレウス・トーン・イウーダイオーン)と書かれていたと
思われる。注目すべきはヘブライ語であり、恐らく、
ישוע הנצרי מלך היהודים
(イェシュアー・ハー・ノツリー・ウーメレク・ハー・イフーディーム) と書かれていたと
考えられる。イェシュアーの頭文字はアルファベットで「Y」に相当し、
「ハーノツリー」は「H」、「ウーメレク」は「W」、
「ハーイフーディーム」の頭文字は「H」に相当する。
これらを合わせると「YHWH」となり、読み方は「ヤハウェ」=「主」
となる。主イエス・キリストの「主」「Lord」である。つまり、ラテン語で
INRI」と書かれていたあの罪状書きは、キリストの弱々しい姿の象徴であ
り、無残な姿を象徴するものであったが、これをヘブライ語にすると、
口に出して読む事さえも躊躇われるほどの聖なる呼び名「YHWH
(ヤハウェ)を表し、この十字架の人が「弱々しく捨ておかれる犯罪者」
ではなく「主にして聖である、メシア(キリスト)なのだ」と言い表わして
いるのである。この「主なる方」によって救いは到来したのである。
 

2017.01.22の説教から

<1月22日の説教から>

『民衆のシュプレヒコール』
ヨハネによる福音書19章8節~16節a
牧師  三輪地塩
 この時彼らが叫んでいた「殺せ、殺せ」というのは、悲惨な出来事を予測させる言葉である。まさに我々人間そのものをを象徴するかのような、悪と憎しみに満ちた要求である。ここにはキリストヘイトが示すのは、人は憎しみに先導され、憎しみに我々の目は眩み、憎しみと殺意が我々の原動力になってしまうことである。残念な事に、善意や、愛の力に勝って、我々人間、はヘイトの力、悪の力、敵意の力に屈してしまう、あるいは、屈し易いと言わねばならない。
 2017年になり、我々人類は大きなチャレンジを受けている。憎悪と偏見と蔑視に扇動される人間の姿が世界各地で確認されているからだ。ヨハネ福音書は、このような、新しい時期を迎えた我々に、今日の箇所を示す。「殺せ、殺せ」と一斉に叫ぶユダヤ人の言葉は、ギリシャ語の原文では「アローン、アローン」である。
「アローン」とは、「殺す」「片づける」「取り除く」という意味の「アイローン」の命令形。
「殺せ、殺せ」と言い、神の子イエスを十字架に架けようとしている。殺してしまって、
この厄介な「神の子を自称する者」を「取り除いて」しまおう、という民衆の心理がこの言葉に示される。
 しかし我々は、ヨハネ福音書1章29節の、洗礼者ヨハネの言葉「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見ていった。見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」に
注目しなければならない。「この世の罪を取り除く」、と宣言されたキリストは、
自分自身が取り除かれるシュプレヒコールと共に人類の罪を取り除かれたのであった。

2017.01.15の説教から

<2017年1月15日の説教から>
『わたしはあの男に何の罪も見いだせない』
ヨハネによる福音書18章38節b~19章7節
                               牧師  三輪地塩


ピラトはユダヤ人たちに問いかけた。「ところで、過越祭にはだれか
一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の
を釈放してほしいか。」

 ピラトははイエスを解放しようとしたがユダヤ人たちの答は「その男だ

ない。バラバを」であった。バラバは十字架の「赦免」の場面にしか出

てこないが、キリスト教界では有名な人物となった。マタイ福音書ではバ

ラバの罪状については触れず、マルコは「暴動時の殺人」と伝える。

ルカ福音書は「殺人」ヨハネ福音書は「強盗」と書かれている。おそらく

は、ローマ帝国への武力抵抗を訴えた熱心党(ゼーロータイ)の一員

だったのではないかと考えられる。

 「バラバ」という名前、「バラッバース」というのが言語での読み方であ

が、「バル」(誰々の子)、「アッパース」(人物名)で「アッパースの子イ

ス」という事になる。

 これは大変興味深いことである。19章7節で「わたしたちには律法があ

ます。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称した

からです。」と言われているように、「神の子と自称した」ことを罪状にし

ているからである。

 つまり、ピラトはユダヤ人に二つの選択を迫っているのである。「アッ

スの子イエスを釈放するか」それとも「神の子イエスを釈放するか」の

選択である。民衆は、神の子と━どこの馬の骨とも分らない輩である━

アッパスの子のうち、後者を選択したのである。何と愚かなチョイスであ

ろうか。

 ピラトはイエスを民衆の前に引き出し、「これで勘弁したらどうだ」という

意味を込めて「見よこの男だ」といった。由木康作詞の121番の讃美歌

は「~この人を見よ」が1~4番の全てでリフレインされる。特に4番は「

この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛は、あらわれたる。この人を見
よ、この人こそ、人となりたる、活ける神なれ」と歌われ、「この人を見

よ」何度も繰り返される。「この人」とは、決してアッパスの子などでは

く、真の神の子である、という信仰告白をこの讃美歌の中に見いだす。

<2017年1月8日の説教から>『真理とは何か』

<2017年1月8日の説教から>
『真理とは何か』
ヨハネによる福音書18章28節~38節a
牧師  三輪地塩
 イエスの裁判の場面である。ローマの総督のピラトは、37節で「それではやはり王なのか」と三度目の質問をしている。「ユダヤ人の王ではない」とイエスに答させ、
政治違反の罪で「不起訴」にしようとしていたからである。しかしイエスは、イエスともノーとも答えず「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」という曖昧な答えしかしていない。
 
 この箇所の難しいところは、この最後の部分にある。
イエスのいう「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」
という回りくどい言い回しは、ギリシャ語の慣用句としては「(あなたの言う通り)私は王である」の意味に解釈できる言い回しであると言われる。それゆえ口語訳聖書ではこれを肯定分として翻訳し「イエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、私は王である」(口語訳)と肯定文で訳している。
しかし本来、このイエスの答えは、曖昧にすべきなのではないかと思う。つまり、イエスはこの言葉を肯定でも否定でも語っておらず、質問者の意志を問うているのだ。
 弟子のペテロは「私を誰と言うか」に対し「あなたはメシアです」という信仰告白をした。それと同じように、この箇所でイエスが問うのは、「私を誰と言うか」である。
ピラトはここで第三者として、傍観者として、観客席にすわってイエスを批評し、裁こうとしている。だがイエスはそのピラト自身の主体性を問うのである。「あなたは 私を誰と言うか」と
 ピラトは、イエスの罪を見つけることはできなかった。それはピラト自身の善意から、彼の道徳心によってイエスを処罰したくないと思わせたのかもしれない。
だが善意や公平さのような倫理道徳観では、真のメシア・キリストと出会うことは出来ないのだ。信仰の告白、真理を語る方の、真理に耳を傾けることが出来るか、
それは、我々の主体性の中にあるからだ。

<2016年12月11日の説教から>【するとすぐ、鶏が鳴いた】

<2016年12月11日の説教から>

【するとすぐ、鶏が鳴いた】

ヨハネによる福音書18章25節~27節
牧師  三輪地塩
 
 主イエスを三度否んだ箇所である。この時、鶏の声を聞いたペテロはハタと我に返り号泣した、とマタイ福音書26章69節~75節は述べている。イエスはぺテロに対し、
期待を込めて「岩」(ケファ)と呼んでいたのかもしれない。堅い意志を持った彼ならば、十字架の最期まで付き従ってくれるだろうと。
 
 しかし、「岩」のような意志を持った彼さえも、自らの保身と恐れから、人間的決心の薄弱さと意志の脆弱さを露呈してしまうのであった。自分の「先生」「主人」を三度も否定してしまったならば、ペテロでなくとも、誰しもが自らの弱さに打ちひしがれることだろう。
 しかしこの場面、ヨハネ福音書では異なっている。ペテロが泣いていないのだ。
これは単なる書き忘れなのか、ヨハネが「強いペテロを描こうとしている」のか、あるいは、ペテロがそんなに後悔していない、とでも伝えようとしているのかは分からない。
 
 だがそのどれでもないと思う。ペテロは泣いただろうし、大いに後悔したことだろう。彼の弱さは、たとえ泣かなかったとしても一目瞭然であるからだ。この場面で(マタイ福音書が伝えるように)「激しく泣いた」と言われていないのは、ヨハネの強調点が「泣くこと」「ペテロの後悔」に無いからだと筆者は考える。ヨハネ福音書は、ペテロが泣くか泣かないかという人間感情的な事柄にではなく、我々の目を十字架の贖いへと向けさせているのだある。つまり、これ以降のペテロ(と弟子たち)は、イエス昇天後、教会を形成するのである。教会は、この者に鍵を渡す、と宣言されたペテロの上に預けられた。この意志が弱く、決意の脆弱であった、弱々しい「ペテロ」の上に、神の恵みと御栄えを表すべき教会は任せられたのである。つまり教会とは、キリストの十字架の弱さと人間の弱さの上に、神の力づよさを打ち立てる事にある。教会には十字架の贖いと赦しが立ち、天の御国の到来がここにあることを述べているのである。信仰によってのみ建つ教会。その信仰告白の脆弱さにも拘らず、主は我々を見捨てず、十字架に至るまで我々を愛し続けて下さった主イエス・キリストに目を向けさせているのである。

<2016年12月4日の説教から>【世に向かって公然と】

<12月4日の説教から>
『世に向かって公然と』
ヨハネによる福音書18章19節~24節
牧師  三輪地塩
 大祭司邸宅に連行されて尋問を受けている主イエスの場面である。夜、薄暗い中でこの尋問が行われている。ヨハネ福音書は、光と闇一つのテーマとして語っており、光は神の栄光を、闇は罪と悪を表している。この時の尋問は薄暗い密室で行われたこと、つまり「罪」と「悪」とが示唆されている。
 イエスは大祭司から「弟子のこと」と「教えについて」を質問されている。「弟子」「教え」についての尋問は、この当時「異端審問」が行われる際の質問と同じであり、ここでイエスは異端審問(宗教裁判)を受けていたことが分かる。実際に審問しているのは隠退した元大祭司アンナスであり正式な役職にはない。つまり非公開で行われた、非公式な裁判に過ぎない。
 イエスはこの場で堂々としている様子が伺える。逃げも隠れもせず、公然と世に向かって語ったのである。マタイによる福音書の5章14節以下には、次のような言葉がある。
 「あなた方は世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなた方がたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
 イエスが公然と語ったように、弟子たちに対し、公然と語りなさいとイエスは勧める。我々は、主の御言葉によって生き、生かされる者たちであるから、主イエスによる永遠の命の内に生きる者は、隠れる必要がないし、隠される必要もない、と聖書は語るのである。