8月23日の説教

823日の説教から>
『実にひどい話だ。こんな話は聞いていられない。』
             ヨハネによる福音書660節~71
                                牧師 三輪地塩
「肉は何の役にも立たない」(63節)は心に突き刺さる。人類はその歴史の多くの場面でこの言葉が真実であることを否応なしに思い知らされてきた。
 86日に放映された「原爆は止められなかったのか」という番組(NHK)を観て、これは本当に人間の罪がなせる業だったことを思わされた。番組では、大日本帝国のかたくな な戦争への意と、米英露の戦後を見越した覇権争いが原爆の使用を促進させたという、これまでも何度も聞いてきた歴史観であったが、驚いたのはトルーマンの言葉である。「Beastたち(つまり日本人たち)に戦争を終結させるには原爆しかない」という意味の言葉を 時の大統領が残しているのである。ビーストとは「野獣」であり、この文脈から翻訳すると「あの日本のケダモノたち」とか「日本の畜生たちが」という感じになる。そして彼らは平和を語るのである。あのままにしておけばもっと戦死者が出たのだから原爆程度の犠牲者で済んでよかった、それがアメリカが成し得た最も平和的な解決だという論理である。当然ながら日本は、アジア全土で悲惨な殺戮を続け、大東亜共栄圏という理想郷を作り上げることが平和なのであると語っていたのだから、連合国側を批判できる立場にない。つまり、こっちが悪いあっちが悪い、という因果を超えて「人間の行いは悪い」ということに気づかされるのである。あの戦争によって我々は、人間の無し得ようとする「平和」が、人間の業とエゴの結晶化であることを示すのである。人類は肉的な思いに囚われ、肉的な考えと行動によって行いを進めれば、そこには殺戮と破壊、破滅と悲惨しか造り出せないということである。それが「肉のなす業である」ことを改めて思わされる。
「肉は何の役にも立たない」という言葉と共に「そこに神がおられなければ」という真理に出会うのである。
昨今の悲惨な事件や事故の数々は、我々人間の肉の業による最たるものであろう。そこに神がおられるのか。我々はこの真実の下で行動し、歩まねばならないのである。

8月2日の説教 ヨハネ6章52節-59節

              <82日の説教から>

        『パンを食べ葡萄酒を飲むというイエスの教え』
           ヨハネによる福音書652節~59
                              牧師 三輪地塩
この世には多くの宗教があり、「神」と呼ばれる存在は多くある。ギリシャ神話、ローマ神話、日本神話、アイヌやアメリカンネイティブの神話などに多くの「カミ」が登場する。その中で、神が英雄的に死んだという話もたくさんあるだろう。人間のために、人間を守るために神が身を捧げて英雄として死んでいった、これは何とも感動的で心を揺さぶる物語となる。
 ここにキリスト教独自の「信仰観」ないし「神観」がある。キリストは我々の救いのために死んでいった、というところまでは似ているが、しかし「救われる者たち」、すなわち救われるべき我々人間から、笑われ、あざけられ、身ぐるみはがされ、槍で突かれ、苦しみを受けて死んでいった、という神はこの世の中のどこにもいない。神が救おうとする者たちから反逆を受けているにも関わらず、その反逆する者を救う、という神話がどこにあるだろうか。
 それが私たちのキリスト教信仰の特筆すべき信仰である。そしてそれを端的に言い表わし、目で見て、舌で味わう御言葉として与えられたものこそが、聖餐式なのである。我々に聖餐が与えられている意味はそこにある。
 聖餐式の中で食されるパンとブドウ酒は、キリストの「肉」「血」そのもの(化学式的な実態としての肉と血)になるわけではない。しかし礼拝に一堂に会しているものたちが、キリストの現臨を祈り、聖霊において存在されるキリストと共に、このパンと杯を口にするのである。その時我々は、キリストによって救われている確信を得ることができるのである。

7月26日の説教 『つぶやき合うのはやめなさい』


     『つぶやき合うのはやめなさい』
     ヨハネによる福音書641節~51
                牧師 三輪地塩
 47節の言葉「信じる者は永遠の命を得ている。」は意義深い言葉である。ヨハネ福音書が好んでよく使う言い回しであるが、ここでは「得ている」という現在形が使われているのである。「信じる者は死んだ後に永遠の命を得る」と言っているのではない。もう既にこの世にいるときから得ているという。これは我々に天の国を「彼岸のもの」にするのではなく「此岸」にあるもの、つまりこちら側のものとして考えることを促している。
 先日、真宗大谷派の僧侶をしている知り合いから、「キリスト教で天国とはあの世のことですか?」つまり「彼岸にあるものですか?」という質問をされた。ふと思い起こしたのがマルコ福音書1「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。ここには聖書の語る神の国(天国観)があるように思う。聖書は「神の国が近づいた」と言う。「この世において」、この世に居ながらにして天国が来る、とマルコは言う。
 大谷派の知人とは親鸞と聖書の天国観(浄土観?)の近しさを改めて認識することができた。その後 歎異抄(たんにしょう・親鸞の弟子が書いた親鸞の言葉)を開き、信仰理解や救済理解のキリスト教信仰との近さを再認識することが出来た。
 「天の国はどこにあるか」と言われて、我々キリスト者は「いずれ行くところですよ」「あの世のことですよ」というよりも、むしろ「すでにここにあるものですよ」と答えた方が我々キリスト者には正しい感覚なのではないか。我々が信仰者としてキリストを信じ、キリストと共に生きているという現実の中で天国があり、キリストがそれを「結び」「つなげ」て下さる。今生きているところ(現実のこの場)において、神の国、天の国を受けることが出来るのである。
これに関して、フィリピ320節の「しかし、私たちの本国は天にあります」の言葉に、我々のアイデンティティの所在が示されている。

7月19日の説教 『主よそのパンを』 ヨハネによる福音書6章34節~40節

『主よそのパンを』
ヨハネによる福音書634節~40
                牧師 三輪地塩
 M.ルターは「讃美歌は信徒の説教だ」と言った。信徒たちの信仰を歌う讃美歌の歴史を見ることは、教会と信徒の信仰理解・聖書理解の歴史を見ることになるのである。この箇所では「イエスは命のパン」ということを語るが、これまで讃美歌ではどう理解しているだろうか。
 まず1954年版の(いわゆる現行讃美歌187番)には
「主よいのちのことばを/与えたまえわが身に/われは求むひたすら/主より給う御糧を。ガリラヤにて御糧を/分けたまいしわが主よ/今も活ける言葉を/与えたまえ豊かに」(1節と2節)(作曲1877年) とある。この讃美歌では「パン」という言葉はなく「パン」を「糧」と読み直し「御言葉」と解釈している。つまり「命のパンを下さい」という群衆の言葉を、我々自身の祈りに代えて「御言葉を与えて下さい」と解釈している。同じ現行讃美歌287番では 「イエス君の御名は/たえなるかな。聞けば悲しみも/恐れも消ゆ疲れしこの身のいこいとなり/飢えたる心のマナとぞなる」(作曲1779年) とあり、この歌詞がヨハネ6章によって書かれたとされている。イエスの御名が「たえなる」すなわち「言葉に表せないほどの素晴らしさを持っている」ということを1節で歌い、2節で「イエスの御名が、疲れた我々の憩いとなり、飢え渇く我々の心を満たす糧となる」と歌う。ここでも187番と同じように、本物のパンではなく、イエスのパンを「御言葉」と解釈するのである。
 しかし上記2つよりも最近の讃美歌419番(作曲者ロルフ・シュバイツァー1936年生まれ。恐らく今も存命中)ではこう歌われている。「さあともに生きよう/主は飢えた者に/その身をパンとして与えて下さる」
 これまでは、イエスのパンは「御言葉である」と歌ってきたが、419番では「イエス自身がパンである」と歌っている。これは大きな違いである。つまり聖餐式がイメージされているのだ。我々は単に言葉を聞いて心の内に(精神的に)癒されるというのではなく、信仰とはキリストの十字架と共に生きる「救いの出来事」である、イエスの肉と血による贖いを受けることなのである、という事を示している。ここに現代の教会における「教会論」と「信仰観」が示される。すなわち「我々の信仰は、キリストの十字架においてのみ建ち得るものである」ということである。

8月9日の説教 『夕闇の迫る時にも』 ルカによる福音書24章13節‐35節 南純教師



        

              『夕闇の迫る時にも』

          ルカによる福音書2413節~35


                         教師  南 純

 


 



そこには、白内障で「目を遮られ」、前途に希望を見失い、「暗い顔」に沈んでいる者の姿がある。しかし、それでも彼らは夕暮れの道をなお進み行かなければならないのである。
 今、そのような彼らに、一人の同行者が加わる。死の闇を突き破って復活された主イエスであるが、彼らの目には残念ながら今はまだ見えていない。しかし、彼らが勇気を出して「一緒にお泊まり下さい(stay with us)」と願ったことにより、新しい展望が開かれる。彼はもはや同行者ではなく、食卓の主として立ち現われたからである。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ことによって、「遮られて」いた「二人の目は開け、イエスだと分かった」からである。
 聖書の説き明かしに加えてパンのしるしを受け、今や彼らの「暗い顔」が復活者イエスの光を浴びて輝き出し、夕闇の中を主の証人として遣わされて行くのである。そこから彼らのいわば第二の人生が始まるのである。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」(コリント第二、517節)となり、「闇を変えて光となす」(讃美歌7番)創造者の御業をわが身にまとうのである。
 讃美歌39番の「日くれて四方はくらく」は、エマオでの復活の主の顕現を歌ったものとして知られるが、各節の終りで「主よ、ともに宿りませ」を反復し、強調している。原詩では「生きる時も、死ぬ時も、主よ、共に宿りませ(inlife,in death,O Lord,abide with me)」と歌い上げている。この歌詞は『ハイデルベルク信仰問答』第一問の「唯一の慰め」に呼応する。私たちがほかの何者でもなくて「主のものである」ことこそ、人生の夕暮れと暗闇に立ち向かうための唯一の希望であり、慰めなのである。私たちも聖書の証言と宗教改革者たちの信仰告白に合わせて、「主よ、共にやどりませ」と歌いたいものである。

7月5日の説教から 『わたしだ、恐れることはない』 ヨハネによる福音書6章16節~21節

                                  <75日の説教から>

             わたしだ、恐れることはない
              ヨハネによる福音書616節~21        
牧師 三輪地塩
 V.フランクル『夜と霧』の一節。「いつガス室に送られるか分からない、ギリギリの精神状態の中にあって、食欲や睡眠欲のような生物レベルの生きるための欲求以外、高次の欲求は全て消えていった。しかし「政治」と「宗教」への関心だけは失われることはなかった。とりわけ感動したことは、居住棟の片隅で、あるいは作業を終えて、ぐっしょりと水がしみ込んだぼろをまとって、くたびれ、おなかをすかせ、小声ながらも、・・締め切った家畜小屋の闇の中で体験する、ささやかな祈りや礼拝に(感動を覚えるの)であった」。そうフランクルは回顧している。また彼は、自分の命を繋いだもう一つのものが「愛する者の存在であった」と言い次のように語る。「愛する者(妻)が同じ収容所に「いる」という現存(Dasein(ダーザイン)[])、この愛する者がいるという現存の中にこそ、自分の生きる意味があり、その愛する者の微笑みを思い浮かべる時、人間の命の愛おしさを覚えたのであった。・・多くの思想家たちが、生涯の果てに辿り着いた真実。何人もの詩人たちが歌い上げた真実、(つまり愛)という真実が、生まれて初めて骨身にしみた。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだという真実。いま私は、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきことをしてきて、究極にして最高の事の意味を会得した。愛により、愛の中へと救われること。人はこの世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛するひとの面影に思いをこらすことこそが、究極的な至福の境地となるである」。
 つまり、究極的絶望の中、愛する者(妻)の存在が彼の命を繋いだのであった。一人の愛する者の「実存」「現存」「Dasein」が彼の心に生き、その面影と彼女の存在が共に彼の内に生きる時、命は保たれ、収容所を出るまで希望失うことなく、希望を持ち続けることが出来たのであった。
「愛する者の現存」という言葉の中に我々は「キリストの現存」を見出すものである。しかも我々が愛する、より以上に、「我々を愛して下さる方がいる」というDaseinが、我々の中にあるとき、我々は希望と共に生きることが出来るのである。その存在は我々に語る「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ620節)と。

 つまり、荒れ狂う湖上に現れたキリストの「わたしだ」(エゴーエイミ)という実存、現存、Daseinの中で、すなわち人間が如何ともしがたく抗う事の出来ない、無抵抗にも押し流される不幸や、痛みや、究極的な悪の中にさえも、神は現存し、私を愛する神がいるというDaseinの中で、私は「私の希望」を失うことなく、この命が神と共にある命として生き続けることが出来るのである。人間社会の暗闇の中で、人間関係の難しさの中で「我れ」と向き合う私の心の中、そしてアウシュビッツの中でさえも、主は我々かたわらに立たれる。それがキリストなのである。

 荒れ狂う湖上にキリストは立つ。それは私たちと共にキリストが立つ事のしるしであり、実存であり、キリストという現存の表れである。おそれを沈めるキリストは、恐れと共に生きて下さるキリストとなって、私たちと共に歩んで下さるのである。