2月018.03.11の説教から

     <311日の説教から>
        『崖から豚さんが落ちるなんてかわいそう』
          マルコによる福音書51節~20
                           牧師 三輪地塩
 
  以前、日曜学校でこの箇所を説教した時、幼い生徒から「ブタさんが崖から落ちるなんてかわいそう」という声が上がった。素直な感想にその場は微笑ましい空気に包まれると同時に、この箇所の難解さを感じさせられた。
「汚れた霊に憑りつかれたゲラサ人」は、第一に、「墓場に住んでいた」。それは彼が希望のない状態にあったという事を意味する。第二に、「自分を傷つけていた」。それは「自己愛の拒絶」である。キリスト教は、本来、自分を大切にしなさい、と教え、そこから「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」に思いが向けられていく。第三に、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。」という言葉によって、「神との関係を拒絶した」ことが分かる。口語訳聖書の翻訳では「あなたは私と何の関係があるのです」と訳されていた。自分は神と関係がない、と自己判断しており、自尊心のみならず、神との関係、つまり、自らの人間としての根源的な尊厳を失っている状態にある。希望を無くし、人々から見離され、自分を愛する事が出来ず、自由がなく、信仰からも離れ、誇りを失った人。それが、「汚れた霊に憑りつかれた男性」であった。
 
 しかしこの男性に取り憑いていた悪霊が、2000匹の豚の中に移された。イスラエルにおいて豚は「汚れた動物」とされてきた。だがゲラサという異邦人の町では、豚は大切な家畜・財産であった。沢山のブタを飼っている事は、ゲラサ人にとては、富の象徴である。少し誇張して言うと、人間の命よりも豚の財産価値の方が高い、ということであった。
 
 その「価値の高い」ブタの群れに、汚れた霊が入り、2000匹が失われたことは「この世のどんな財産価値よりも、苦しむ人を救うことに価値がある、という事を意味している。この男性は、世の中から見捨てられ、町の中に住む事も許されず、足枷によって自由が奪われ、顧みられないこの命を、主イエスは、その魂の価値を認め、この世のどんな財産よりも遥かに高いことをお示しになったのである。

2018.03.04 説教から

   <34日の説教から>
            『風を叱る』
        マルコによる福音書435節~41
                       牧師 三輪地塩
 
 舟に乗っていたのは、ガリラヤ湖の“専門家”である漁師出身のペトロたちであった。その彼らが恐れおののくほどの嵐が吹いのだから、かなりの暴風であったのだろう。彼らは怯えた。「死んでしまうかもしれない」「何とかしなければ」、そう思った弟子たちはイエスに目を向けた。「しかしイエスは舟の艫の方で枕をして眠っておられた」のであった。悠長に眠っているイエスを見た弟子たちは、イエスの存在に安心するどころか、「苛立った」のであった。彼らは「イエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った」のである。
 この弟子たちの苛立ちは、我々が日常の中で、「あたかも神がいないかのように毎日を過ごしてしまっていることへの悔い改めを促すだろう。もしガリラヤ湖が平穏で安心に航行できる状態であったら、イエスの眠りを妨げることはなかっただろう。或いは、寝ている事にすら気付かなかったかもしれない。そして「平穏であること」「安心して航行できること」への感謝を忘れて歩んでしまうのである。
だが、ひとたび大嵐が来ると、安らかに眠っているイエスを叩き起こし、自分たちが窮地に立たされている事に怒りを覚え、その原因をイエスに向けてぶつけるのである。この姿は、我々に似ている。平穏の中では神を忘れるのに、困難になると突然神に八つ当たりしてしまう私たち。安心できる時には神が何をなされようとしているのか考えもしないが、ひとたび自分に被害が生じると、神を恨み、神に怒りを発するのだ。我々の信仰が、何とも脆く、躓きやすいものであるかを、この箇所は弟子たちを通して我々に伝えている。
このような我々人間の不安と恐怖に対し、イエスは悠然と起き上がり嵐を静めた。風はやみ、高波は凪になった。自然を従わせるイエスの姿を見て、弟子たちは恐れおののく。嵐と波の力に恐れおののいていた彼らは、それ以上の力を見て神に畏れおののいた。神が共に(艫に)おられるのであれば、我々にはもはや「安心」しかない

2017.02.25 説教から

       <225日の説教から>
             『「成長」について考える』
           マルコによる福音書426節~34
                     牧師 三輪地塩
 
 イエスは、神の国を「からし種」に譬える。「小さなからし種は蒔かれる時は小さいけれども、蒔かれるとどんな野菜よりも大きくなり、鳥が巣をつくるほどにも成長する」。その成長の中に神の国があるのだ、と語る。
 からし種は直径1mmほどの小さな粒である。古代イスラエルの人たちは、これが最も小さな種である事をよく知っていた。イエスは身近な例を挙げて、神の国を説明しようとしているのであった。
 
 からし種は、何倍にも成長する。肥沃な土地に蒔かれれば、高さ3メートルほどにもなる。何も期待できないと思えるほどの「小ささ」が、「誰も予測できなかったほどの大きさになる」。その驚くべき対照が、神の国の譬えであるとイエスは言う。
 勿論、小さければ小さいほど重宝される物もあるが、通常、「小さい」という事は、あまり積極的な事柄と捉えず、「力の弱さ」「足りなさ」をイメージしてしまう。しかし、例え小ささの中にあったとしても、我々は神の大きな力の中にある事をいやというほど知らされるのだ。
 聖書の歴史でそれは明らかである。小さなダビデが大きなゴリアトを倒したこと。イスラエルという国自体が、その数の少なさと貧弱さの故に神に選ばれたこと。ベツレヘムという「小さな村で」クリスマスが起こったこと。小さな子どもの持つ「五つのパンと二匹の魚」という小ささから、5000人を養ったことなど、聖書には多くの箇所で、神の前に小さな人間に与えられる大きな出来事が語られる。

2018.02.18 説教から

       <218日の説教から>
           自分の「秤」で量り与えられる
           マルコによる福音書421節~25
                           牧師 三輪地塩
 「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」。
 この言葉は、すぐには理解できないかもしれない。
 我々人間は、「自分の経験」を標準的な物差にする。自分が歩んできた人生を、最も安心できる、信頼のおける人生であると錯覚してしまうからである。自分の身近な生活や、感覚や、その広さ(或いは「浅さ」までも!)、大事にしてしまうのだ。かつて養老孟司の『バカの壁』という本がベストセラーになったが、その「バカの壁」、ならぬ、「自分の壁」が「自分を量る」のだ。
 人を批判し、人をさげすみ、人を見下す人は、最終的には、人に批判され、人にさげすまれ、人に見下される人になる。それは、自分が量ってきた秤を、自分にも当て嵌められるからである。
 しかしその反対も起こる。人を愛し、人を評価し、人を尊敬して生きる者は、人に愛され、人に評価され、人に尊敬される者となる。人を大事にする者は、人に大事にされる。つまり、「何を聞いているかに注意しなさい」とイエスが言われるように、あなたは神の福音を「何であると認識して聞いているか」が大事である。神を信頼し、神の愛を感じ、神の創造性を信じ、神の守りを求めて、神の御言葉に聴く時、あなたがたは、最終的には、神の愛を受け、神の創造性の中に生き、神の守りのうちに生きる者となるのだ、と。
 「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。」と言われます。あなたが、福音に本気で信頼し、本気でそれを欲し、それを受け取ろうとする時、そこに、真の福音があなたの秤に、量り与えられるのだ、という事である。「聞く耳のある者は聞きなさい」とは、消極的な「聞く」ではなく、神の御言葉に、より頼んで、積極的に「聞くことである」という、イエスの教えがここにある。我々は福音として、「何を聞いている」のか。「何を聞いているかに注意しなさい」というこの言葉を、真剣に捉えたい。

2018.02.11 説教から

       <211日の説教から>
                種を蒔く人
            マルコによる福音書41節~20
                            牧師 三輪地塩
 「ある種は道端に落ち鳥に食べられた。ある種は石だらけの所に落ち枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち実を結ばなかった。ある種は良い土地に落ち、30倍、60倍、100倍にもなった」
 
 この譬え話を聞き何を受け取るだろうか。自分はどの種か?他人はどの種だろうか?と、あれこれとどの種に属するかのパターンを探すかもしれない。だが、ここでイエスが語っているのは、「信仰者の傾向」を明らかにすることではないし、或いは、雑誌や何かによくありがちな適性テストや、YesNo式の設問に答えるチャート式のゲームとは異なる。我々は、皆がこれらの4パターンのいずれにも属している、という自覚を持つ事が必要であろう。あなたはどう歩むのか?あなたはどう生きるのか?が問われているのである。
 
 鳥についばまれ、石が邪魔をし、茨が遮る。これらは、「ある」ということによって、御言葉が遮られることを示している。だが4つ目の「良い土地」は、「何もない」ということによって、「それこそが良い土地なのだ」と語られている事は注目に値するだろう。我々を取り囲む「人」「もの」「金」「欲望」「湧き上がる物欲」など、様々な「ある」「持つ」ということに囲まれ、「ある」ことが「良いこと」であり、「持つこと」が「成功」という価値観の中で我々は生きている。しかし、蒔かれた種が、本当の意味で芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実をつけるのは、ただ「何もない土」なのであった。我々の目を遮る無駄な思いを省いた結果、余計なことに目移りせず、ひたすらに「土」で有り続ける場所でこそ、神の御言葉が生き、神の御心が叶うのだ、ということに目を向けねばならない。イエスは、別の箇所で「二つの神に仕えることはできない」と語った。それは、我々の二心に対し、最も必要なことは何かを問う言葉だった。必要なことはただ一つである。我々に必要な方は、ただお一人である。そのことに心向けて、ただ何もない良い土地として、まことの神の御言葉を受け入れるものでありたい。

2018.02.04の説教から

           <24日の説教から>
      神の御心を行なう人こそ
            マルコによる福音書320節~35
                               牧師 三輪地塩
 
 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」とある。「身内の人」とはイエスの母と兄弟たちである。イエスは神の言葉を伝えていたが、身内の者たちには、それが恥かしく思えたのだ。イエスは「大工」であり、ユダヤ教の神学的エリート教育を受けたわけではない。ただ「神のひとり子」という以外には。この「大工イエス」が、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で聖書の話をしているのは、母の目には「気が触れてしまった」と映ったのである。イエスの母や兄弟たちは、イエスがあらぬ批判を受けさせないためだったかもしれない。もしそうなら、イエスへの愛のゆえに(会堂での話を)やめさせようとした、ということになる。
 だが、それは本当に「愛」と言えるのか。もしかすると、親自身のメンツを保つための「偽の愛」「愛に似たもの」でしか無かったのではなかろうか。
 「愛」か「親のメンツか」という問題は、非常に境目の見極めが難しい。「この子のためにやっている」と語る親は多いが、実は「その子」は口実であり、子が親の自己実現の道具にされることも少なくないように思う。そうなると子は親の「所有物」でしかなくなってしまう。
 或いは、その親の愛が「本当の愛」だったとしても、親族・血縁関係というものは、愛が深いがゆえに、諸刃の剣となってしまう。本来必要なことは何か、その思いを曇らせることに繋がってしまいます。
 今日の主イエスの態度を見て、ある「愛情深い人たち」は、イエスの冷たい(ように感じる)言葉に憤慨するが、なぜ母たちがイエスの行っていることを妨げようとしているのかを見なければならない。この場面でイエスの母たちは、自分たちの意思の実現を要求しているのである。恥ずかしいという思いや、みっともないという感情によって、彼女たちはイエスの言葉を(神の言葉を)遮ろうとしているのである。主にある兄弟姉妹、とは、神の言葉によって成り立つ兄弟姉妹のことである。