2018.02.11 説教から

       <211日の説教から>
                種を蒔く人
            マルコによる福音書41節~20
                            牧師 三輪地塩
 「ある種は道端に落ち鳥に食べられた。ある種は石だらけの所に落ち枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち実を結ばなかった。ある種は良い土地に落ち、30倍、60倍、100倍にもなった」
 
 この譬え話を聞き何を受け取るだろうか。自分はどの種か?他人はどの種だろうか?と、あれこれとどの種に属するかのパターンを探すかもしれない。だが、ここでイエスが語っているのは、「信仰者の傾向」を明らかにすることではないし、或いは、雑誌や何かによくありがちな適性テストや、YesNo式の設問に答えるチャート式のゲームとは異なる。我々は、皆がこれらの4パターンのいずれにも属している、という自覚を持つ事が必要であろう。あなたはどう歩むのか?あなたはどう生きるのか?が問われているのである。
 
 鳥についばまれ、石が邪魔をし、茨が遮る。これらは、「ある」ということによって、御言葉が遮られることを示している。だが4つ目の「良い土地」は、「何もない」ということによって、「それこそが良い土地なのだ」と語られている事は注目に値するだろう。我々を取り囲む「人」「もの」「金」「欲望」「湧き上がる物欲」など、様々な「ある」「持つ」ということに囲まれ、「ある」ことが「良いこと」であり、「持つこと」が「成功」という価値観の中で我々は生きている。しかし、蒔かれた種が、本当の意味で芽を出し、葉をつけ、花を咲かせ、実をつけるのは、ただ「何もない土」なのであった。我々の目を遮る無駄な思いを省いた結果、余計なことに目移りせず、ひたすらに「土」で有り続ける場所でこそ、神の御言葉が生き、神の御心が叶うのだ、ということに目を向けねばならない。イエスは、別の箇所で「二つの神に仕えることはできない」と語った。それは、我々の二心に対し、最も必要なことは何かを問う言葉だった。必要なことはただ一つである。我々に必要な方は、ただお一人である。そのことに心向けて、ただ何もない良い土地として、まことの神の御言葉を受け入れるものでありたい。

2018.02.04の説教から

           <24日の説教から>
      神の御心を行なう人こそ
            マルコによる福音書320節~35
                               牧師 三輪地塩
 
 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」とある。「身内の人」とはイエスの母と兄弟たちである。イエスは神の言葉を伝えていたが、身内の者たちには、それが恥かしく思えたのだ。イエスは「大工」であり、ユダヤ教の神学的エリート教育を受けたわけではない。ただ「神のひとり子」という以外には。この「大工イエス」が、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で聖書の話をしているのは、母の目には「気が触れてしまった」と映ったのである。イエスの母や兄弟たちは、イエスがあらぬ批判を受けさせないためだったかもしれない。もしそうなら、イエスへの愛のゆえに(会堂での話を)やめさせようとした、ということになる。
 だが、それは本当に「愛」と言えるのか。もしかすると、親自身のメンツを保つための「偽の愛」「愛に似たもの」でしか無かったのではなかろうか。
 「愛」か「親のメンツか」という問題は、非常に境目の見極めが難しい。「この子のためにやっている」と語る親は多いが、実は「その子」は口実であり、子が親の自己実現の道具にされることも少なくないように思う。そうなると子は親の「所有物」でしかなくなってしまう。
 或いは、その親の愛が「本当の愛」だったとしても、親族・血縁関係というものは、愛が深いがゆえに、諸刃の剣となってしまう。本来必要なことは何か、その思いを曇らせることに繋がってしまいます。
 今日の主イエスの態度を見て、ある「愛情深い人たち」は、イエスの冷たい(ように感じる)言葉に憤慨するが、なぜ母たちがイエスの行っていることを妨げようとしているのかを見なければならない。この場面でイエスの母たちは、自分たちの意思の実現を要求しているのである。恥ずかしいという思いや、みっともないという感情によって、彼女たちはイエスの言葉を(神の言葉を)遮ろうとしているのである。主にある兄弟姉妹、とは、神の言葉によって成り立つ兄弟姉妹のことである。

2018.01.28  説教

             <128日の説教から>
               『国が内輪で争うとき』
            マルコによる福音書320節~30
                               牧師 三輪地塩
 
 福音書の中で、不明瞭で分かりにくい言葉の一つとして、次の一節が挙げられる。「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も赦される。しかし聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」
何故、神をけがしても赦されるのに、聖霊をけがす事は赦されないのか。大変難しい一節と言える。「神をけがす」というのは、「人間の弱さが神を疑うこと」と言い換えてもよい。苦しみの中にあって人は神を疑い、嘆く。「なぜ神はこんな苦しみを与えるのか」と。だが、そのような神への疑いは「赦される」とイエスは言う。
『ヨブ記』の主人公ヨブは、神に忠実に従う信仰者であったが、突然思いもよらない災難に見舞われる。「何故神はこのような仕打ちをするのか」と彼は悩むがヨブの信仰は揺るがなかった。更に苦しみが彼を襲った。彼は次第に神の正しさを疑うようになっていく。「神は人間をもてあそんでいる」と、次第に彼の信仰は懐疑的になっていくのであった。だが神は、最後的にはご自身を現し、大きな祝福を与えた。ヨブの疑う心は戒められるが、永遠の罪に定められる事はなく、神に赦されて生きることを得たのだった。これが「神をけがす」者の赦しである。
これに対し「聖霊をけがす」というのは、「自分の弱さや、信仰の迷い」から神をけがすのではなく、「確信犯的に、つまり自分は神をけがしていると自覚しつつ神に逆らうことを示している。言い換えるならば、「神と真っ向から対立し、神に対して宣戦布告をするような、決定的な背反のこと」である。イエスは言う。「聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」。聖霊は神の力の表れであります。神の働きが現実に私たちの中に与えられる力である。だがその力を、「悪霊である」と断罪する事は、到底赦される事ではない。それはイエスがファリサイ派の者たちから言われた批判でもあった。この世は神の力をけがしていないか。いつも我々に問われることである。神に敵対せず歩みたい。

2018.01.14の説教から

114日礼拝説教から》
         『彼らのかたくなな心を悲しみながら』
          マルコによる福音書31節~6
                                牧師 三輪地塩
 
 蓮見和夫著『マルコによる福音書』には次のような話がある。
「オランダでの出来事。ある日曜日に大きな高潮があり、今にも堤防が決壊しそうな状態であった。オランダの国土の多くは海よりも低いところにあるため、堤防の決壊は、大惨事に繋がってしまう。オランダの警察はキリスト教会に対し、教会の信徒たちを動員し、決壊を防ぐための工事を手伝って欲しいと要請した。だが、この緊急要請に対し、ある保守的で戒律的な教会は、その要請を断ったという。その理由は「安息日の掟を破るわけにはいかないから」だったという。彼らは、「我々が礼拝を守るなら、神は奇跡をもって助けてくださるでしょう」と主張した。しかしその間も、堤防決壊の危機は増していった。そこにある信徒がマルコ3章「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」との言葉を引き合いに出し、教会員は皆説得されて工事に加わった」
このような話である。おそらく相当に脚色されているか、或いはフィクションかもしれないが、しかし戒律や規則と、実質との事柄を考える大変興味深い話しです。「保守的で戒律的な教派」と言われているのは、おそらくオランダ改革派教会のことであろう。この話は極端な描き方であるが、これに近い事は実際に起こり得る。我々日本キリスト教会にも、教会法(教会の憲法・規則)に固執するがあまり、似た事例がある。又、教会だけでなく行政の画一的なやり方でも似たことが起こる。
日常生活においては、堤防が頻繁に決壊するという事はないが、苦しんでいる人に無関心になる事は起こりがちであろう。「命を救うのと、殺すのと、どちらがよいか」というイエスの言葉は、我々の身の周りでいつもなされるべき問いである。この主イエスの問いかけに、我々がどのように答えるべきかは、一人ひとりに委ねられた課題である。信仰に「マニュアル」はない。その時、その場所で、主が与えられる「問いかけ」に、如何に耳を傾けるのか。そこに掛かっている。

2018.01.07 (新年礼拝)説教から

201817日(新年礼拝)説教から》
                『与えられる神』
             マルコによる福音書22328
                                 牧師 三輪地塩
 「安息日を覚えてこれを聖とせよ」という十戒(第四戒)の言葉は現代人に多くのことを伝える。出エジプト記2312節に「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やロバが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」とあるように、安息日とは、人間が生き、仕事をするための重要な休息の時間である。興味深いのは、イスラエル人だけでなく、奴隷や家畜たちを休ませよ、と言われていることにある。
当時は奴隷制社会であった。奴隷は、自分の命を主人に預けているので、生きるのも死ぬのも主人の胸三寸であった。今でいう「基本的人権の尊重」「生存権」はなかった。奴隷が死ぬと、また新しい奴隷が補填された。
 これは現代の労働環境問題にも通じる話である。ブラック企業などと言われる法定基準を無視した労働環境を従業員に強いる会社が増えている昨今。使役動物のように働き、会社の歯車として一生懸命に尽くしても、必要がなくなると新しい人が補填される。当時の奴隷の状況に似ている。だが視点を変えると、ブラック企業を作っているのは、我々消費者であるとも言える。「お客様は神様」などという決まり文句が1970年代に始まり、我々消費者は過剰なサービスを求め、客を神のように扱う事を当たり前とする風潮が出来上がってしまった。日本社会は歪な消費者至上主義社会であると言える。
 旧約聖書は、その最初(モーセ五書)から人間の尊厳のみならず、神の造り給う「すべての命」の尊厳が守られることを宣言している。
 神の御言葉(律法・十戒)は、すべての命が尊重され、神の被造物として生きる権利と「責任」を指摘する。或いは、神の愛された被造物として生き「させる」責任を指摘している、と言った方が正しいかもしれない。現代社会に広がる労働の環境は、私たちの罪が重ねられた結果であることを見つめ直し、共に社会を生きる隣人を愛し、尊厳を守り、我々は社会活動・消費活動を行うのである。