<6月14日の説教から> 『浦和教会が見る幻』 (教会創立80周年記念礼拝)

614日の説教から>
『浦和教会が見る幻』
(教会創立80周年記念礼拝)
             ヘブライ人への手紙1117~22
                               牧師 三輪地塩
 1935年に教会として建設された浦和教会は、記録では1885年から巡回伝道があり、既に家庭集会が始まっていた。この教会の創立当初から多くの牧師や長老たちが携わってきたが、押しなべてこの教会が大事にしてきたものは「神学」である。「シンガク」という言葉を聞くと、かしこまった、お堅い印象を受けるが、要するに「神様のことをよく知りたい」という切望が人を神学させる原動力となる。この教会は良く耕された畑のように、神学することによってしっかりと整備され、福音の実りという作物を育てるのにちょうどよい土壌となっている。その意味でこの共同体は、先達たちの尽力と学びが作り上げたものである。
そして今、80周年を迎えるこの教会が向かうべき場所をどのような幻で見るのであろうか。
 我々日本のキリスト教会は、戦前、戦後、21世紀の現在に至るまで、少数者として生きることを余儀なくされてきた。それを保つためには、自らを「主張し」「他者との差異を明らかにし」「自らの信仰の何たるかを周囲に示し」てきた。そうでなければ生き残ることができなかったからである。しかし今一度、この80周年の記念の時、この浦和教会が進むべき道を確認せねばならない。我々は「シンガク」によって神を知ろう知ろうと努めてきた。しかし同時に他者を知ろう知ろうと努めてきただろうか。この教会が「浦和」に建っていることへ感謝と喜びをもって歩んできたであろうか。そのことが問われる。マタイ712節で主は言われる「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と。
 わたし(説教者)は、日本の教会が「我々(教会)の欲すること」を地域に求めてきたのではないかという反省を持つべきであると考えている。地域が欲することを我々はどれだけなしてきたであろうか、と。これからの日本の教会と日本の宣教の課題がここにある。そしてそのことを考えることこそが、これからの浦和教会に与えられた幻と考えるのである。

2015年6月7日の説教 ヨハネによる福音書5章31節~40節

67日の説教から>

『聖書研究』

ヨハネによる福音書531節~40

                 牧師 三輪地塩

キリストをどう理解し、聖書をどう読んでいるか。我々は聖書からいつもこの問いを受けている。信仰によって読み、信じるという視点から読むことによってはじめて この一冊の書物は、単なる本から一冊の聖なる神の御言葉として立ち上がってくるのである。

現代人である我々は、あの38年間床に伏せていたベトザタの男性が起き上がったことを信じ、そこに信ずべき神を見出すことができるのか、という問いの前に立たされている。神の言葉としての聖書の出来事は、ほかでもなく我々に対して語られ、我々の救いのために語られている。我々はそのことに気付いているだろうか。38年のあの男性は、病気が治ったから奇跡が起きた、というのではない。聖書は癒しの業を行うことに注目させたいのではなく、イエスご自身が神の働きそのものであることを示している。この癒された男性は大変ラッキーなことであった。けれども現実は、我々は一生涯障害を抱えて生きねばならないことが起こり、寝たきりの生活を余儀なくされることもある。そのいずれの生涯においても「神の業は我々に十分である」と信じることが出来るか、そのことが問われている。

第二コリント129節で、体と心の弱さを受けた使徒パウロは言う。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。パウロは弱さの中にあって、主の恵みは「十分である」と言い切る。そう信じることが出来る神との関係が大切である。

 我々が聖書を読むとき、このような信仰と共に読むべきであろう。神の独り子を証しする書物として読むこと。この聖書を神の言葉と理解し解釈し、その中に神の恵みが十分であることを見出し信ずること。それこそが我々が御言葉を聞きそれに応答する責任である。

 御言葉は既に語られている。キリストがこの世に来られた時から御言葉は我々の傍らにあるのだ。それに適切に応答しそれを受け入れ、それを信ずることの出来るものとなるよう、祈り求めたいものである。

2015年5月17日の説教 ヨハネ福音書5章19節~30節

517日の説教から>

                 『死から命へと』

ヨハネによる福音書519節~30節  

三輪地塩

 ユダヤ人は怒っていた。イエスが、神を「父」と呼んでいるからであった。我々は「父なる神」という語り掛けを当然だと思うかもしれないが、ユダヤ人には地雷となる。彼らにとって神は「創造者」であり、人間とは全く相いれない、「聖にして」「別格の存在」であった。彼らの神は「絶対他者」であった。しかしイエスは神を「父」「おとうさん」と親しげに呼んだのである。ヘブル語では「アッバ」と言う。アッバは親しみを込めた呼び掛けであり、近しさを意味する。イエスにとって神は「近しい方」であり、ひいては我々信仰者に、神との近さを伝えようとしていたのだ。5:18では「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。」とある。ここに決定的な神観の違いが生じている。十字架へのカウントダウンが始まろうとしていた。

 人間の罪深さは神を遠ざける。否、神は人間を罪深さのゆえに遠ざけざるを得ない、と言い得るだろう。そこには絶対的な隔絶があり、断絶がある。それは正しい。しかし我々は「キリスト」という「真の神であり、真の人」であるお方のゆえに、神に近づける者となる。遠い存在を近い存在として、相いれない絶対他者が、「隣人となられた」それがキリストがこの世に生まれたこと(つまり“受肉”)の意味であり、そこに我々の救いがあるのだ。

 いみじくもユダヤ人たちの指摘は正しい。神は絶対他者である。しかしキリストの十字架と復活の光に照らされるならば、間違っている。神は隣人と「なられた」のだから。

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日 (2)

 浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節
              『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日 (2)

 ≪(1)からの続き≫

 このような疑問を受けて、私たちは、この箇所をどのように読む事が勧められているのでしょうか。それは、この箇所がどのような文脈の中にあるかによって明らかになるのです。

 今日の箇所の一つ前には、10節以下で「迷い出た羊」の話があります。99匹の正しい羊ではなく、1匹の羊の救いにこそ、天の国の喜びがある、という話であります。
 そして今日の箇所の次の箇所には何があるでしょうか。来週の先取りになりますが、「仲間を赦さない家来の譬え」があります。この話は単に借金を帳消しにしてやらなかった家来の愛の無さを伝えようとしているのではなく、むしろ有罪判決を受けるべきものがその罪を赦されている、という事に焦点が当てられているのです。

 つまり今日の箇所は、迷い出た1匹の羊の話と、借金を帳消しにされた家来の話にうまく囲まれるようにして、ここで語られようとしているメッセージを示されているのです。それはすなわち、罪を犯した者がどのように裁かれるかではなく、この二人はどのようにして和解が成立するのか、という大事なメッセージであります。神が望んでおられるのは、3段階の教会法制度によって、改心し悔い改めないものは、教会の群れから除外されるというペナルティーを負う事になる、という事ではなく、神は、罪人同士が和解し、共に救われるようにという事が求められているのであります。
 
 19節にはこうあります。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」この文脈では唐突に出てくるような言葉でありますが、しかしJ.D.M.デレットという神学者はこの19節を次のように読み替えています。

 「もしあなたがたのうち二人が何であれトラブルになっている事柄に関して、お互いに同意する事    ができるなら、その同意に対して、天の父は祝福してくれるだろう」。

 このように言い換える事が可能であるとデレットは言うのです。そしてその流れで20節も解釈されるべきであると思います。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この教会を表わす時に良く用いられる有名な一節は、単に教会とは仲の良い信仰者2~3名、乃至、神様を信じる信仰者2~3名が集まればそれは教会である、と言うだけの言葉に留まりません。この20節は、神の救いと神の赦しの文脈の中で読まねばならないのです。

 それは、「ここに集まる人々が、キリストの名によって集まる時、それらはキリストの十字架の赦しに属しているのである」という事です。従ってここに集い得る2~3名の中には、仲裁する者が居ようと居まいと、言い争っている2名の信仰者が、彼ら彼女らを隔てているどんな問題や、どんなトラブルや、どんな怒りや憎しみや損害にも拘らず、和解を目指そうとする2~3名なのであり、お互いに和解を目指そうとして進む時、その只中にこそ、真の贖いの主、イエス・キリストが居られるのだ、という事がこの20節で語られているのであります。

 この19節には大変印象的な言葉が使われております。それは「シュンフォネーソーシン」というギリシャ語であります。これは「心を一つにして」と訳されている言葉です。これは「共に」「一緒に」を意味する「シュン」という接頭辞に、「音」を表わす「フォネオー」が付き、「シュンフォネオー」、すなわち「音が調和する」、とか、「意見が一致する」「合意する」「協定を結ぶ」などの意味を持つこのシュンフォネオーは、交響曲「シンフォニー」の語源にもなっております。

 シンフォニーとは、まさに、一つの音として、響き合う一つの音楽となります。交響楽が奏でられる時、コンサートホールでは数十種類の楽器が準備され、それが複雑に絡み合ってあの大きな潮流のような音楽となるのです。どんなに音の小さな楽器、たとえば、トライアングルや、カスタネットのような、小さなパーカッションであっても、その音は独特の響きをもって、ここぞと言う場面で用いられるでしょう。あるいは一曲の中で一回しか出番のないようなものであっても、そこに不要な楽器というものは存在しないのです。数十人から曲によっては百人を越える大編成の演奏者がおり、コンサートマスターからはじまって、大きな楽器の陰に隠れてしまうような目立たない立ち位置にいる一人まで、すべてがシンフォニーとして必要とされており、役割の違いがあるだけであります。舞台の右にいる人は左の人の音を聞きながら、指揮者の奏でようとする音楽を目指して、共に音を聞き合って、それぞれの個性を生かしながら、しかし楽譜の支持に、作曲者の意図に従って、心を一つにして、思いを一つにして奏でるのです。そしてシンフォニーは生まれるのです。まさにシンフォニーは、全体の調和、全員の心が一つにされる時に、本当の音楽となって響き渡るのです。

 教会も、教会員の交わりも又シンフォニックなものである、と聖書は言います。教会は罪人の集まりです。ですからそこには間違いも起きます。トラブルもあります。しかしそれぞれの心がどこを向いているのかが重要なのです。それぞれがいがみ合い、キリストを除外し、キリストをそっちのけで訴訟し合う時に、そこにあるのは不毛な結論でありましょう。

 しかし互いに向き合い、共にキリストの臨在を求めつつ、心を一つにして、和解を願い、赦しを願い合うならば、その方向に進む事を心から願い求めるならば、そこには真のキリストの十字架が立ち給うのだ、と聖書は語るのであります。

 私たちは神が望んでおられる事を求めたいのです。二人または三人がキリストの名によって集まるところに、裁きがあるのでも、決裂があるのでもありません。キリストの名によって集まるところには赦しと和解があるのです。私たちの教会という集まりが、このような場所である事を願い、主イエス・キリストがいつも共におられる事を信じて、歩みたいと、いつも願っています。

  祈りましょう。

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日

 浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』

 2013年8月4日

 司法制度改革が行われてから約10年が経ちました。この改革は、司法が抱える様々な問題を法律によって解決する事が出来る社会の実現するために行われた改革でありました。生活上のトラブルを、法律によって解決し、予防する事は、これからの日本の社会を見据えた上で必要だという理念の下、このような改革が行われたのであります。具体的には1000人の司法試験合格者を3倍の3000人に増やすという数字が掲げられ、その為に幾つかの大学に法科大学院というものが設けられたのです。しかしこのような10年前の見通しとは裏腹に、現代の日本において、私たちの日常生活レベルにおいて、全てのトラブルを法によって解決しようという考えをどれだけの人が持っているでしょうか。むしろかえって、様々なトラブルが起こった時、その解決に司法が活用されるどころか、行政や法の専門家ではない人が仲介に入ったり、その社会の慣例に任せられたり、ひどい場合には暴力や脅しが未だに横行しているような事も少なくありません。法的な解決は最後の手段と考え、又、弁護士費用の負担や、長期にわたる裁判などを考えると、司法を活用するのはかえって面倒な事であると言うのが、今でも我々の心の中にあるのではないかと思うのです。いまだ尚、法的手段は高いハードルであるという現実があるのです。
 元々アメリカを初めとする、西欧的な法概念を日本にも植え付けたいという事があるのかもしれませんが、しかし日本人においてはトラブルの解決はそんなに簡単ではありません。つい最近も、山口県周南市の小さな集落で男女5人が犠牲になった事件も、近所付き合いのトラブルが元であると言われておりますし、このような事件は後を絶ちません。ここまでではないにしても、近所付き合いや、ご近所トラブルというものは、誰もが避けて通る事が出来ず、日常茶飯事のように起こるものでありましょう。
 会社の中でも、学校の中でも、近所付き合いでも、残念な事に教会の中でさえも、そのようなトラブルは起こるのであります。

 今日与えられた聖書箇所は、このような私たちに色々な事を考えさせるでしょう。この箇所を一読して思いますのは、教会内でトラブルが起こった時の法的手段について、という事であります。つまり自分が、ある信徒から被害を受けた時どのように対処するか、というトラブル解決方法を、教会法的な見地から語っているように思うのです。この箇所から読み取れるのは、こういう事です。

 自分に対して罪を犯した人のもとに行き、誰もいないところで「私はあなたに罪を犯されました、あなたから被害を受けました」と言って抗議するべきである。もし相手がそれを聞き入れるならば、その人と和解が成立するわけだから、その相手とは良好な関係を結ぶことが出来る、これが第一に言われている事であります。

 しかし1対1で話しても埒が明かない場合は、1名か2名の人を一緒に連れて行き、そこで忠告すべきである。その1~2名の物は、あなたの言い分の正しさと相手の罪の証人となってくれるだろう。これが二つ目であります。

 それでも駄目な場合は教会に訴え出なさい。教会が相手の罪を認めた場合、相手側に罪を認めさせるが、それでも拒否する場合は、異邦人か徴税人と見做しなさい。

 このような3段階の法的手段があると言っているように読み取れるわけであります。そして教会における、言い換えるならば、信仰者同士の間におけるトラブルの解決方法には、このような3段階のやり方があるので、私たちはこの段階に従って行いなさい、と言われているように読めてしまうのであります。

 けれども、この箇所は表面的にはそう読む事が出来るかもしれませんが、しかし少し深く読む方であれば簡単に気付くと思いますが、ここには色々な問題点や疑問点が挙げられると思うのです。

 例えば、この訴え出る人、つまり原告側の訴えそのものが不当なものである場合、という事であります。その事については一切語っていません。相手が悪い、相手が罪を犯した、という一方的な訴えの事しか書かれていないという事は、聊か疑問が残るものであります。
 もう一つの問題点は、訴え出る人が1~2名を連れて行く、とありますが、その連れて行く人は当然、訴え出る人のシンパであり、原告側に有利な証言をする人である事は火を見るよりも明らかであります。そうなると当然のごとく、ここでは被告側には大変不利であると言わざるを得ず、この2段階の内、2段階で不正な裁判が行われるというように思えてならないのであります。

 さらに、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」という言葉に引っかかります。つまりここで主イエスは何を言おうとしているのかが明確ではないのです。あれほど異邦人と共に生き、徴税人こそ神の許に来なさい、と言って、招いた人々であるのに、それらのように見做される、というのは、これまでの主イエスの行いからは場違いな言葉であるように感じるのであります。

 そしてもう一つは、教会が出す判決それ自体が、そもそも本当に正しいのか、という事も重要です。この3段階の法的手段は、言ってみれば、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の3段階の控訴制度のようでもありますから、最終的に最高裁である教会が出した結論は全て正しい、というこの文脈は、随分と乱暴な言い方であるようにも感じるのであります。そして聖書は、否、主イエスが、このような「罪多き教会に、人を裁く権威をお与えになった」というのは、考えられないのです。何故なら同じマタイによる福音書7章1節では、「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにする為である」とはっきりと「主イエスの口を通して」語られているわけでありますから、これは今日の箇所と矛盾するように思えるのです。

   (2に続く)

マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』 2013年5月26日

  マタイによる福音書15章29節-39節 『神讃美と感謝の祈り』② 2013年5月26日

 ≪続き≫

 この群衆が異邦人であるという事から考えると、弟子たちからではなく、主イエスから空腹を満たしてやりたいと願い出ている事は納得がいくのです。つまり、弟子たちはここに来た群衆たちに対して、そこまで配慮する必要はないと考えていたかもしれません。異邦人なのだから、そしてイエス様がその苦しみに手を差し伸べて癒して下さっているのだから、もうそれで十分なんじゃないか、と。
 33節で「弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」と言っているこの弟子たちの返答には、「そこまで面倒見なくていいですよ、だって何も持っていないのですから」という意図が込められていたのかもしれません。

 しかしここで主イエスは、異邦人である彼らの空腹を満たすという奇跡を行なうのです。「ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ」とパウロが言う通り、主イエスはそこに隔てない恵みを与えられるのです。先週のカナンの女性の願いに対してイエスが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と冷たくお答えになった事が記されていましたが、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と願う異邦人に対し、イエスは食卓から落ちるパン屑をお与えになったのです。そして今日の箇所では、単なるパン屑ではなく、4000人もの大勢を養い、祝福し、命の糧を与えているのです。異邦人である事とそこに神の祝福が与えられる事は、決して切り離されるべきことではない、と伝えているかのようであります。その意味において、このカナンの女性の出来事と、今日の箇所は裏と表の物語として語られるべきものでしょう。

 このように4000人を養った主イエスですが、弟子たちはどうだったのでしょうか。ここには弟子たちの様子は「それを配った」という事しか描かれていません。主イエスがカナンの女性との出会い、そしてガリラヤ湖のほとりでの異邦人たちとの出会いを経て、主イエスが示そうとされる恵みと祝福の大きさに、私たちは心を柔軟にして主イエスに従う事が大切なのです。

 このような異邦人と共にする食事は、弟子たちにとってはおそらく初めての経験だったことでしょう。パンが増えることは既に14章にありましたが、ユダヤ人の言い伝え、ミシュナーと呼ばれる口伝律法によりますと、ユダヤ人が異邦人と食事をすることが禁じられています。ミシュナーは異邦人を「汚れた民」と教えているからです。食事はもちろん、共に交わりを持つ事も禁じられていました。もっとも、モーセの律法によると、レビ記や民数記では、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事することを禁じていませんので、後に出来上がった律法ではあります。いずれにせよ、そのような慣習の中で育ってきた弟子たちだったので、異邦人と、しかも4000人もの異邦人たちと共に食事をすることは、彼らにとって初めての経験であ、しかしその心境としては、いたたまれないものであったと思います。これまでも徴税人や娼婦たちといった「罪人」と呼ばれていた人たちとの食事はありましたが、これらはユダヤ人でした。それに対して今日の箇所では周りを無数の異邦人で囲まれていたのです。熱心党のユダヤ主義者シモンは、「絶対に一緒に食事しない」と頑なに拒んだかもしれません。ペトロも同じだったかもしれせん。特にペトロは、ガラテヤ書2章11節で、異邦人と一緒に食事をするのを同胞のユダヤ人に見られる事を懸念して逃げて行ったと言われているぐらいです。当時の律法を頑なに守って生きていた者たちにとって、イエスの行ないはあまりにも逸脱したものでしたから、弟子たちは恐れていたと思うのです。

 今日の箇所を、マタイ福音書全体の大きな流れの中で捉えてみましょう。29節で、最初に主イエスが山の上に座られたとあります。14章の5000人の話の時は、イエス一行は舟を下りてすぐに平地で行なった奇跡でした。しかし今日の箇所では山に登ってしかも腰を下ろしているのです。マタイによる福音書では山は神の顕現される場所として捉えられます。この後起こる、山上の変貌の話が17章にあります。そして最も重要な場面は「山上の説教」です。イエスは、山に登り、腰を下ろし、そして語り出されたとあります。すなわちイエスの「言葉」を通して「神の意志」が啓示された出来事、それが山上の説教だったのです。それに対して、今日の箇所は、山に登り腰を下ろし、イエスの「行為」を通して「神の権能」が啓示された出来事であります。すなわちこの場面が、山上の説教との関連で読み解かれる時、そこには神の栄光が示されるのです。

 私たちは「御言葉を糧にする」と言いますし「人はパンのみによって生きるにあらず」という言葉を知っています。それは命のパンとしての御言葉こそが、最も重要であるという事が示された言葉です。しかしそうは言っても、空腹は命の問題でもあります。この世における生命の問題であります。死ぬほどに空腹の極限の人に聖書を読み聞かせても空腹が満たされる事はありません。しかし今日の箇所で主イエスは、その両方の両方を与えて下さると言っているのです。私たちは主の祈りの最初で「御名を崇めさせ給え、御国を来たらせたまえ」と主の国の到来を願う、いわば高尚な祈りから始めます。しかしそのすぐ後に「我等の日用の糧を今日も与え給え」と卑近な祈りをするのです。しかしそれらは決して分けて考えられるものではなく不可分なものである事を主の祈りは示します。そして主はその両方を与え、その両方に責任を持って下さる、という事が今日の箇所に示されているのです。

 主は民族主義的なところから人を養われません。主義・主張・文化・人種、と言ったような実に複雑で、問題を孕む人間の問題があるにも拘らず、しかしそこに主は立っておられないのです。如何なる場合でも、主は御言葉をお与えになり、その日の糧を与えられるのです。弟子たちが、いささかの抵抗を持っていたにも関わらず、主なる神は、それでも尚も、主のなさりたいように御言葉をお与えになり、その日の糧を与えて下さるのです。

(日本キリスト教会 浦和教会  主日礼拝説教 2013年5月26日)