<2016年10月30日の説教から>『イエスの祈り(2)』

 

 
          <1030日の説教から>
           イエスの祈り(2)』
       ヨハネによる福音書1720節~26
                   牧師 三輪地塩
 第二次大戦中、ナチスドイツの空襲を受け、天井が破壊された
ある教会での出来事。礼拝が終わりに差し掛かり「主の祈り」が
祈られたが、「我らの日用の糧を今日も与えたえ」と祈った後、
会衆がくちごもった。なぜなら、その続きが「我らに罪を
犯したものを我らが赦すごとく…」という祈りであったからである。
我々はあの憎きドイツ帝国を赦す事など出来るのか」という
問い掛けと共にその教会の信仰者は生き・生活していたからである。
具体的な敵を想像しない現代日本の教会とでは、その空間、時間の
次元は全く異なるのである。
 つまり「教会の祈り」とは、教会員一人一人の、それぞれ別々の
祈りが、それぞれの生活の中にある状況において、それぞれの
信徒たちの一つ一つの喜びや悲しみ、━あるいは誰にも話す
ことができないドロドロした自分の罪でさえも!━、その教会、
集合体の中での祈りとして、捧げられる祈りとなるのである。
 当該箇所から、我々は主イエスの祈りが、教会に向けて祈られて
いることを聞き取るべきである。21節でイエスは、「父よ、あなたが
わたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、
すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるように
してください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになった
ことを、信じるようになりなす」と祈る。それは神がイエスと共に
おられるのと同じように、三位一体の神の内に我々教会共同体が
存在していることを示している。
 教会は、教会自身が独自に自分たちの力で作り上げるものでは
なく、父と子と聖霊の交わりの中にある神の働きによってのみ成り
立つのである。教会は、信徒一人一人の祈りによって支えられ、
その信徒の集合体の中にキリストがおられる。教会の歩みを
決める根本には、教会員一人一人の祈りの支え、祈りの力がある。
一人の祈りは小さく卑近なものかもしれず、時には個人的で、
整っていない稚拙で幼稚な祈りとなることもあろう。だがその中に
「聖霊の執り成し」を信じて、大胆に祈りを捧げていきたいものである。

    

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2016年10月23日 Open Churchの説教から

  <20161023Open Churchの説教から>
ヨシヤ王
             (列王記下221節~20節  牧師 三輪地塩)
 ユダ王国歴代の王様20人のうち12人は神様から離れ、残りの8人だけが神様の御心に適った王だと言われています。ヨシヤ王のおじいちゃん「マナセ王」は悪い王で、神様の言いつけを守らず、偶像礼拝などを行なったりして、神様に背を向けていた人でした。しかしそれだけではありません。このマナセの次、息子のアモン王についても聖書は次のように言います。「アモンは父マナセが行ったように、主の目に悪とされることを行った。父の歩んだ道をそのまま歩み、父が仕えた偶像に彼も仕え、その前にひれ伏し、先祖の神、主を捨て、主の道を歩まなかった」。
更にこのアモン王、あまりに悪すぎたため、「彼の家臣たちは謀反を起こし、この王を宮殿で殺害した」のでした。王様として悪すぎたために、部下たちから愛想を尽かされて、殺されてしまったのです。
 この流れから言うと、マナセの孫でありアモンの息子であるヨシヤは、普通なら悪い息子(孫)になってもおかしくないところです。ですが、彼は「31年間王様」の地位にあり、その治世の18年の時(彼が26歳の時)に、宗教改革を開始します。それは乱れ混乱していた神様への信仰を元通りにする、という改革でした。ヨシヤ王は、父や祖父たちが行なった罪を、そのまま受け継ぐのではなく、間違った事をしっかりと正し、親族、家族という、血縁の関係から離れ、神様との繋がりを第一に考え、礼拝の改革、信仰の見直し、生活の改善、と行ったのです。私たちは「負の連鎖」を断ち切らなければなりません。あらゆるレイシズム、憎悪、間違った考えなどは、現代社会にも厳然と存在します。私たちは、このような「負の連鎖」を断ち切る勇気ある者たちでありたいのです。
 
 

2015年11月15日の説教から ヨハネによる福音書8章12節‐20節

      <1115日の説教から>
      『わたしは世の光である』
       ヨハネによる福音書812節~20
                          牧師 三輪地塩
 『光の降誕祭』という説教集の中に、エドゥアルト・トゥルンアイゼンというドイツの神学者が礼拝で語った説教が残されている。ヨハネ福音書15節の説教として以下のように語れている。
 
 「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。とこで極めて明らかになるのはこのことです。イエス・キリストとは何か。それは神ご自身が「私どもと共にいて下さること」、神のいのちそのものである、と。わたくしどもがそのことを疑わずにおれなくなっても、―わたくしどもが、わたくしどもの人生や考えの中で、神は本当に戸口を出て下さったのであろうかと疑わずにおれなくなっても― そこでこそ、この飼い葉おけの幼子、十字架にかけられたこの方は、わたくしどもに言われます。わたくしどもが疑おうが疑うまいが、ご自分は、確かに戸口を出て下さったのであると。この方のうちにこそ、いのちがあるのです!!」
 
 この説教は1937年に語られた。1934年にナチスがドイツの政権を掌握してから数年が経ち、世の中が徐々に怪しい雰囲気に包まれて来たことを国民が感じ出した時期である。このような怪しげな社会情勢の中「本当に神がこの世を支配なさっているのか?」と疑いたくなる緊迫した世の只中でトゥルンアイゼンは言う。「我々の側が疑おうと疑うまいと“キリストは光であり続ける”」と。
 このような状況は、現代社会(とりわけ日本)を取り囲むモヤモヤした雰囲気に何らかの類似性を感じずにはおれない。このような中にあっても「キリストは光である」と告白し、そう信じて生きている中に、我々の真の希望があるのだろう。暗闇の中でこそ光が より強く輝くように、我々はこの光なるキリストに従って歩みたいものである。
 クリスマス時期を我々はどう過ごせば良いだろうか。それは「御言葉に聞き」「真の希望が何である(誰である)のかを見つめ」「暗闇の中で輝く“光”の存在に信頼する」ことである。アドベントとは、まさにこの光を待ち望む時期である。我々は、自らの心を静めて、闇に輝く光に目を向けたい。

 ヨハネによる福音書7章53節~8章11節 「あなたを罪に定めない」

 
   <111日の説教から>
       「あなたを罪に定めない」ヨハネによる福音書753節~811節)
                                牧師 三輪地塩
 この箇所は大変有名である。イエスの愛と赦しに満ちている温かく優しい箇所と言えるだろう。我々がこの箇所を読むときに心の中に湧き起こるのは、「痛快感」や「スッキリした思い」ではなかろうか。あるいは「あの憎き律法学者やファリサイ派をやっつけたという爽快感」であろう。トンチで将軍様をやり込めた「一休さん」のようでさえある。
 だがよく考えてみると、この女性は「無実の罪」によって不法にも連行されてきたのではない。彼女は、当時としては赦されるべきではない「姦淫の罪」という逃げ隠れ出来ない罪を犯し、言い訳の出来ない現行犯で捕まっているのである。
 つまりこの箇所は、イエス・キリストが「罪を犯した人の“罪が無くなった”」と言っているのではない。赦されざる罪を犯した者がその後どうなったかを示し、我々は一つの問いを与えられるのである。この箇所が「愛にあふれる箇所である」と我々が感じるとき、我々の目線はどこにあるのだろうか。これを「勧善懲悪の痛快な話」として読む場合、我々の心は「イエスの目線」からこれを読んでいる事になる。あるいは、守られて赦された姦淫の女性の視点に立っていることになるだろう。しかし本来、聖書が我々に投げかけるのは、「あなたも赦されている」ということよりも、「あなたは誰も罪に定めることなどが出来ない」ということである。つまり、他者の罪は非常に厳しく告発するけれども、自分の罪は見過ごしがちな我々に内包される「都合の良い自己愛」に対し、「そのあなたの罪を悔い改めよ」ということが重要ではなかろうか。律法学者を糾弾し、ファリサイ派をギャフンと言われた痛快感に浸る我々は「被害者」としてこれを読んでいる。しかし本来読むべきは逆なのだ。我々は「加害者である」という視点からこれを読むとき「愛に満ちた箇所」というよりも、我々の罪そのものを糾弾される 「心に痛く突き刺さる御言葉」となるのである。
 主イエスは「この女に石を投げなさい」と言っているように、決してして律法を破って良いなどと言ってはいない。しかし「あなたも罪を犯していることに気づきなさい」と、内省的に自己吟味することへ促されている言葉である。「ああ イタタタ・・」と、心に痛みを感じながら読んでもらいたい箇所である。

9月20日の説教から ヨハネによる福音書7章25節~31節

 
920日の説教から>
『救い主はどこからくるのか』
              ヨハネによる福音書725節~31
                                牧師 三輪地塩
 
 この箇所は「キリスト告白」を主題としている。
 「人間の知」は未知を探求する。それは人間に備わった知恵であり、欲求である。それによって我々は新たな地平を得て行く。しかし「キリストを知る」ことは、我々に、「未知の神」が更に未知であることを明らかにすることを意味する。つまり我々は神を完全に知る事は出来ないし、キリストを自分のものとすることはできない。我々に与えられている神との関わりは「信仰告白」においてのみ可能となるのである。
 我々はキリストを告白する。もっと具体的には「キリストの救いを信じること」を告白するのである。我々は、自分で自分自身を救うことが出来ない。我々の中には絶対的な正義はなく、絶対的な知恵もない。良い判断、高い知識、正しいを思われる行いは出来るかもしれない。しかし「完全な」ものは我々には不可能である。これが聖書の語る人間存在である。
 このように考えると聖書の語る人間観は何とネガティブだろうかと思うかもしれない。しかしそうではない。なぜなら我々は、キリストを告白することが出来る存在」として創造されているからである。聖書は我々に限りなく明るく前向きな人間観を与える。それは「功績なくして罪を赦される」という御子との関わりが与えられているからである。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「人間は全的堕落の存在だ」と言った。人間が全ての部分において悪い方向に傾いているという意味である。だからこそ我々は信仰を告白せねばならない。だからこそ、神の正しさの内に生きなければならない。我々のうちに起こり得るただ一つの希望、ただ一つの慰めは、「神の希望の内に生きること」なのである。我々人間という存在は、神と共に生きる時、希望ある存在となるのである。
 そのためにいつも聖書と共に歩み、聖書から御言葉に聞くことが肝要である。聖書の言葉に耳を傾けそれに応答する生活こそが、我々の希望の生活となるのである。
 
 

8月30日の説教 ヨハネ福音書7章1節-9節

830日の説教から>
わたしの時はまだ来ていない

                  ヨハネによる福音書71節~9

                                 牧師 三輪地塩
 イエスの兄弟(主の兄弟)たちが批判的に描かれている。ここには主の兄弟が重んじられるという血統や家系を重んじるという「初代キリスト教会へのアンチ」が込められているのではないだろうか。ヨハネ福音書が書かれたAD90年頃は主の兄弟たちが重んじられる教会の政治体制、特に総本山としてのエルサレム教会に権威が集中しているあり方を批判しているのではないかと思われる。つまり我々の信仰とは、イエスの血筋であるから偉いとか、「イエスの兄弟であるから崇敬に値する」ということになった場合、そこにはキリストの福音に反する価値観による評価が起こってしまうと言おうとしているのではないだろうか。「私の親兄弟とは誰か、ここにいる者たち、御言葉に聞き従おうとして集まっている人たちが、私たちの本当の兄弟姉妹である」、と主イエスは言われた。それは我々の信仰が、御言葉に立っていることを示すものであり、神の救いが人間的な、家系、血族、家柄の中には無い ということを表わす言葉であろう。
 キリストは誰のために死なれたか。それは世のすべての者たちのためである。キリストと同じユダヤに生まれた者たちだけ族のためでもないし、イスラエル民族だけのためでもない。キリストは世を救うメシア、キリストであられた。十字架がそれを示している。しかし「イエスの兄弟たち」はそれが理解できなかった、最後まで目に見えるものや事柄に引っ張られていたのである。
 翻って我々現代に生きるキリスト者はどう生きることが求められるのか。それは「御言葉に立つ」という信仰の在り方である。我々は目に見える事柄に流される。奇跡的な出来事があると、そこに神の姿を見ようとしてしまう。しかし本当の神の姿は「素晴らしさ」の中にあるのではなく、「痛みと苦しみの中」にあったのだ。その命を捨ててまで我々を愛される姿の中に、本当の神の姿を見、その神こそが、我々を罪から救い、神と共に生きうるものとされる「贖い」があるのである。我々は教会において、神に愛される兄弟姉妹として共に生き、生かされたいと願う。