ヨハネによる福音書18章28節-38節 『真理に属する者はキリストの言葉を聞く』

 ヨハネによる福音書18章28節-38節 『真理に属する者はキリストの言葉を聞く』

 裁判員制度が始まってから来月で3年が経過致します。いささか混乱を招きつつも、少しずつ浸透しつつあるこの制度でありますが、当初この制度は、司法関係者だけでなく、一般市民を判決に巻き込むという事で混乱が生じました。つまり先週一年数か月ぶりに行われた死刑執行に関しても、犯罪者とは言え一人の命を一般市民が担うという事ですから、その責任の重さは並大抵ではないと思います。又、実際の裁判に関して言えば、見たくもない証拠資料を見せられたり、心痛むような自供を聞かねばならなかったりと、強制的に嫌な事をさせられるという点で、人権侵害であると考える人もいるぐらいであります。
 しかしこの制度は、裁判所をオープンにする、というのが本来の目的であるそうです。私たち日本人は、裁判所に対して、社会正義を行使する立派な行政機関であると思い込んでいる向きがありますけれども、実際は、閉鎖的で、中身の見えない、密室で行なわれる、言わば「官僚主義の役所である」というのが現実であるようです。もちろんこれは司法関係者の言葉ですから、あながち間違いではないと思われます。つまり、検事や弁護士たちが議論を戦わせ、積み上げられた証拠を基にして被疑者の罪状の白黒をはっきりとさせる、というような裁判のイメージを映画やドラマの中で、私たちはそのように思い描くのですが、実際の裁判はもっと官僚的で、機械的で、事務的であるという事であります。例えば、少しでも目立つような画期的な判決を下した裁判官は左遷され、裁判長の印象を良くするための判決をし、それによって出世するか否かが決まってくる。そのためには、事件に対して余計な詮索はしない、と言うのが暗黙の了解であるそうです。勿論これは現在の司法制度に疑問を投げかける一部の関係者の言葉ですから、真実が如何なるものであるかはもっと検証の余地があるのでしょうけれども、ある意味で事実であるという事であります。ですからこのような官僚的な裁判所に対する非難を回避するために、一般市民を判決の仲間に入れて、透明性をアピールするというのが、裁判員制度の目的なのだそうです。
 政財界と異なり、裁判所だけは信用できると思い込んでいる私たち日本人にとって、いささか残念な話ではあるのですが、しかし司法のみならず、一般企業であれ、教育機関であれ、どのような機関であっても、本音と建て前の矛盾のような問題は存在するわけでして、裁判に関しても同じという事であります。そして「裁判の不正」と「そこにある官僚的な性格」に関しては、時代や文化が違っても同じことが言えるようであります。
 それが今日の箇所にあります、主イエスの裁判の場面であります。ここには3人の人物が登場します。一人はユダヤの総督ピラト。そして訴えを起こしているユダヤ人祭司たち。そして主イエスであります。
 これは、エルサレム入城から始まって、最後の晩餐を終えた木曜日の夜、ゲツセマネで逮捕され、十字架に架かるために行なわれた裁判であります。クエンティン・マセイスという中世の画家がおりますが、彼が「この人を見よ」という題の絵を描いております。そこには、茨の冠を頭に乗せて惨めに立っているキリストと、それに群がる民衆の異様な光景であります。理性を失い、異常な心理状態で、目を剥き出しにして、血眼になってイエスの死刑を求めている、民衆の憎悪に満ちた表情が印象的な絵であります。機会があればぜひ一度ご覧になって頂ければと思いますが、いずれにしましても、今日の箇所で行われた裁判は、まさに異様な興奮状態の中で行なわれていたと思われます。人間がひとたび憎しみに取り付かれ、そこに執着する時、異様な状況になっていく。その事を表しております。
 しかしこの中でただ一人だけ、その異様な心理状態になかった人がおります。それがユダヤの総督ポンティオ・ピラトであります。彼は民衆とイエスの間に立ち、裁判の判決を出すように迫られておりました。しかし彼にとって、イエスが有罪であろうとなかろうと、生きようと死のうと、関係なかったのです。それは彼がローマの官僚であったからです。
ローマ帝国の属州であった当時のユダヤ地方は、ローマ皇帝から派遣された総督がエルサレム一体を治める事になっていました。ローマ総督は一年の大半を地中海沿岸のカイザリアという町で過ごしておりました。しかし「過ぎ越し祭」というユダヤ最大の祭りが行なわれる期間中に限り、エルサレムに滞在する事になっていたと言います。それは、暴動や犯罪などを取り締まる、治安維持のためでありまして、過ぎ越し祭が無事に終わる事が総督の最終的な目的であったからです。つまりピラトは、ローマ皇帝から権限を委ねられ、ユダヤが平定されることによってその仕事ぶりが評価されたわけです。ですから、エルサレムで暴動や混乱が起こった場合、彼は出世できなくなります。その為彼は「イエスを十字架にかけよ」という民衆の異様な雰囲気に飲み込まれることなく、彼はただ只管(ひたすら)、治安維持のため、暴動が起こるのを阻止するため、その事のためだけに働いたのであります。31節に「あなたたちが引き取って自分たちの律法に従って裁け」という言葉には、余計な事に巻き込まれたくない、という心境が現れています。彼の心には、目の前に連れてこられたこのナザレのイエスという罪人を「適切に、正しく裁く」ということ念頭には無かったのです。むしろ彼が求めたのは、自分に対する皇帝の心象を良くすることと、ローマに帰ってからより高いポストに就くこと。それだけであっただろうと思うのです。ピラトにとって恐れるべきはローマ皇帝あり、神も、神の独り子も、彼にとっては恐れるべき対象ではなかったのです。混乱を避けるために、ただただローマの法律にのみ忠実であろうとしたのであります。

 それに対してユダヤ人の権威者たちはどうだったのでしょうか。主イエスをここに連行してきたのは、祭司長や律法学者たちでありましたが、彼らが規範とし、従っていたのは「律法」であります。律法とはご存知の通り旧約聖書のモーセ五書に記されている、神の言葉である、あの「律法」です。しかし彼らは決定的な矛盾の中で律法を守っておりました。その矛盾が、今日の箇所の最初に記されています。28節。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし彼らは自分で官邸に入らなかった。けがれないで過ぎ越しの食事をする
ためである」。ここに書かれているのは、完全な矛盾であります。つまり、彼ら祭司たちは、「イエスを殺そうと急ぎながら、不浄を避けることには几帳面であった」のです。不浄というのは「汚れた行い」ということであります。「彼らはイエスを殺そうというけがれた行為に躍起になりながら、律法のけがれは行なわないようにしていた」。完全な矛盾であります。総督官邸は異邦人の場所であり、血なまぐさい場所であるために、律法上は不浄の場所とされていたのでしょう。だから彼らは官邸に入らなかった。けれども彼らが行なおうとしているのは、他でもなくイエスという律法違反の罪人の血を流させるためであったのです。完全なる矛盾に彼らは気付いていません。ユダヤの法律には人を死刑にする権限はないからローマ法で死刑にしてくれと懇願するほどイエスの処刑を望んでいた。しかし自分は汚れないようにしていた。律法が神の愛の言葉であるならば、彼らの律法解釈から、「愛」と「慈しみ」の文字消えていたのであります。
 つまりここにあるのは、ローマ帝国の官僚として、ローマ法に則ることだけを考えて行動した総督。そして自らの利権と名誉を守るために、自らの矛盾に気付かずに、もしくは気にせずに、イエスを死刑にしようとする祭司長たちがここにいたのです。

 ピラトと主イエスのやり取りの中には、「お前はユダヤ人の王なのか」という言葉が何度も出てきます。それに対して37節で主イエスは「私が王だとはあなたが言っていることです。私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」。このように答えるのです。
 ここでは「真理」が語られています。ピラトは思わず「真理とは何か」と質問しましたが、このことは大変重要であります。 
 ピラトにとっても、祭司長たちにとっても、真理は大して問題ではありませんでした。真理が何か関係ないから矛盾にも気付かないわけです。ピラトも祭司長も、立場は違えども、事務的に仕事を遂行することを目的としている、ということからするならば、彼らの目的には真理は必要ないのです。真理を伝えるイエスが自分たちの偽善を暴いてくため、イエスの存在が邪魔になったから消そうとするわけですし、またピラトにとっても、真理を追究しても出世できないから、真理など必要ないのです。機械的に事務的に裁くことや、おかみの顔色を伺う事が何より大事であるならば、キリストの真理はいりません。実用主義とはそのようなものであります。実用主義には真理は邪魔なのです。
 例えば第二次大戦中の日本では、哲学や文学などは見向きもされず、ただ、物を作る技術、生産するための政策や方法だけが重宝されました。それは「戦争に勝つ」という実用主義のゆえでありました。実用主義は、ある一面では私たちの生活を便利にし、活発にします。固定概念を取り払い、必要なものを作り上げるための力となります。けれども、そこに理念や理想、哲学や思想が皆無であったらどうなるでしょうか。自分の国を繁栄させ、裕福にさせる事のみを考える国家と政治家が、神の真理を見失ったとき、日本では侵略に侵略が重ねられ、ドイツでは600万人もの人間が虐殺されたのです。実用的であること、事務的であることは効率が良いかもしれません。しかしそこに神が居られるのか。神の真理が存在するのか。そこが最も大切なのではないでしょうか。
 信仰から真理を抜き取ったとき、そこに現れたのが、「イエスの裁判」であります。神の愛の律法から神の愛という真理を抜き取ったとき、祭司長たち、ユダヤの権威者たちは、実用主義的に律法を適用したのであります。「私たちには人を死刑にする権限がありません」という言葉は、それを象徴しております。もはや彼らの信仰には神はいない。彼らが読み、そして従おうとする聖書には、真の神は存在していないのです。そのとき十字架が起こりました。人間の中から神の存在が消し去られるとき、十字架が起こるのです。
 
 しかし37節で主イエスは大切なことをお語りになります。「私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」。「真理に属する人は皆、私の声を聞く」。私たちはこの言葉を忘れてはならないのです。言い換えるならば、「キリストの言葉を聞く人は皆、真理に属している」と言うことです。キリストの言葉を聞く私たちは、皆真理に属する者たちである、ということです。であるならば、私たちは神の真理によって歩まねばなりません。物質主義や実用主義に流されて、真理を見失ってはならないのです。知恵と賢さを与えられておきながら、中傷、誹謗、憎しみ、殺戮のために自らを加担させてはならないのです。むなしい働きにではなく、神の栄光を輝かせる働きに従事していきたいのです。なぜならば、いつも私たちのうちにはキリストの真理があり、私たちはその真理と共に歩んでいるからです。そしてそのように聖書が証言してくれているからです。次週のイースターに向けて、自らの思いを人間の罪に向け、その贖いの主に祈り求める一週間でありたいと思います。この受難週をキリストの真理の言葉と共に過ごしましょう.

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月1日 棕櫚の主日) 

マタイによる福音書6章12節 『汝、赦しの中に立て(主の祈りⅣ)』

 マタイによる福音書6章12節 『汝、赦しの中に立て(主の祈りⅣ)』

 以前、モーツァルトの特集番組が放映されておりまして、大変興味深いものでありました。それはモーツァルトという天才が如何にして造られたのか、という事と、彼の頭の中にはどのような働きが隠されていたのか、という事を解明するという、非常に興味深いものでありました。その中でピアニストの内田光子という人が、モーツァルトのオペラを批評して次のように言っておりました。「彼の作品の根底には、赦す事と赦される事、という大きなテーマが流れている。それは彼が本当に自分の罪を知っているという事、そして他者の罪を赦す事が如何に美しい事であるかが彼のオペラに描かれている」。と、このように言っておりました。フィガロの結婚などに代表される彼の作品は、非常に陽気で、明るいものであり、彼の作品の多くがそのような明るさに満ちたものであります。しかしその根底に流れている思想が「赦す事と赦されることである」、というのであります。彼はオーストリアに生まれました。オーストリアは非常に厳格なカトリックの教義を基盤とする土地柄ですから、おそらくこのような事も起因しているのであろうと思います。

 第一次世界大戦の時のことですが、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊しました。その次の日の日曜日、壊された教会の中で礼拝が行なわれました。しかしいつものように、主の祈りになって、この一節のところまで来ると、皆んな黙ってしまったというのです。その時、全ての礼拝者は、ドイツ人が自分たちに対してした事を思い出していたためでありました。「我らに罪を犯す者を、我らは赦せない」、だからこの一節を祈れなかった、というのであります。
 私たちにはこの事が、とてもよく分かると思います。自分を迫害する者、直接的な害を与えてくる者を「赦しなさい」と言われたとしても、そう簡単に許せるものではありません。主イエスが、いくら「このように祈りなさい」と言われたのだとしても、そう容易く祈れるものではないのです。このように本来祈る事が大変困難な事柄を、私たちは毎週祈っているというわけであります。

 マタイによる福音書の6章12節をもう一度見てみましょう。「私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と書かれております。主の祈りとして完成された定型文では、赦す事柄は「我らの罪」となっておりますが、その原型の一つであるマタイ福音書の原文では「私たちの『負い目』」となっております。口語訳聖書では、これを「負債」と訳しております。負債、つまり支払いの責任を負うことであります。負債とは、私たちの罪の事です。私たちは罪を犯します。その行動において又その思いにおいて、罪は、他者に対する悪として行われるものです。罪を犯す相手、損害を与える相手がいて初めて罪は成り立ちます。もし誰も嫌な思いをせず、誰にも損害を与えないのなら、それは罪にも負い目にもならないかもしれません。相手を傷つけ、他者の心や体に損害を与えるからこそ、それは罪であり、負債となるのです。
 ですから、主の祈りで祈られる負債とは他者に対する「罪」であり、相手を傷つけ、相手の痛みになる事を言い表しています。しかし主の祈りは私たちをこのように祈らせます。「我らに罪を犯す者を『我らが赦すごとく』」と。つまり私たちは、私たちに負債を抱えた者、私たち自身に罪を働いた者、私たちの心を傷つけた者を赦せるのであろうか。この事が問われるのです。

 この祈りの難しい所は、「我らが赦すごとく」という言葉がくっついている事にあります。つまり「私たちが相手の罪を赦しますから、あなたも私たちの罪を赦してください」、と祈られているのです。このため罪の赦しを祈るのにたじろぎ、小声でしか祈れないような時もあるのだと思うのです。
 しかしここで考えておきたいことは、そもそも神というお方は赦しの神である、という事が大前提である、という事です、それは新約聖書ではなく旧約聖書の中で既に赦しの神である事が明らかなのです。

 例えば詩編103編
103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
103:3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
103:4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

それから詩編130編
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

出エジプト記34章でも
34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。

このように言われています。主は私たちを赦される神であり、私たちの罪を贖って下さる神である事が旧約聖書のあらゆる箇所であきらかとなります。
 しかしここで主の祈りは、私たちに重要なもう一つの赦しの要素を祈らせます。それは「我らが赦すごとく」という言葉です。つまり私たちが赦すように、私たちの罪を赦して下さい、という意味です。
 ここで疑問に思うのは、私たちの信仰告白の中で、「功なくして罪の赦しを得」と常に告白しているように、私たちの赦しは神の一方的な恵みによって赦されているという事であります。功、つまり私たちの功績がなくても罪赦されている、というように我々は教えられてきたし、そう信じてきた。だから私たち罪人は赦されるのだと考えてきたのです。
 しかしここで重要な間違いが潜みます。それは、私たちは赦されるけれども、私たちは赦さなくても良い、という間違いであります。それは大変自分勝手で、都合の良い解釈となってしまいます。つまり私たちは人を赦さなくてもよいけれども、人が自分を赦さない事は神様の意に反する、と考える事です。
 その事が明確に譬えられているのが、マタイによる福音書18章21節~35節に記されている「1万タラントンの家来の譬え」です。新約聖書35ページ下の段であります。
 
 この譬えは、私たちに今日の主の祈りの文言の何たるかを
伝えます。この家来が負っていた1万タラントンの負債を、主君が赦してやったのは、ただひとえに主君の憐れみによったのであります。何の条件もなく負債を帳消しにしたのでありました。しかしこの家来は、自ら受けた赦しを、他人に与えませんでした。負債が免除された事を本当に恵みとして受け止めていたのならば、彼もまた他者に対して負債を免除せざるを得なかった筈です。徹底的に大きな赦しが目の前にあるのだから、その赦しの中に置かれた赦された者として、彼は赦す必然を負わされ、赦す力が神から与えられているはずなのです。
 ある人が「本当の愛を知らなければ、本当の愛を行なう事は出来ない」という事を言いました。まあ一概にそうとは言い切れない部分もありますが、ある意味において真理でありましょう。本当の愛し方、愛され方を知らなければ、どのように愛して良いのか戸惑ってしまうでしょう。赦しもそれと似ております。つまり私たちは、大きな力で、大きな心で赦された時、本当の赦しとは何であるのかを知るのであります。
この家来は膨大な負債を、主君の寛大な心と憐れみによって赦されました。1タラントンというのは、6000デナリオン。現在の貨幣価値に換算いたしますと6000万円ほどの膨大な金額であります。しかしここで家来が主君に対して負っている負債額は、1万タラントンであります。つまり6000万円の1万倍、6千億円という事になります。これは文字通りの金額というよりも、私たちの罪はこれほどに膨大だと言っているのです。彼はこの6千億円を主君に帳消しにしてもらった、というのです。しかしこれだけの赦しを得ておきながら、彼は友人の100デナリオンの負債を赦すことが出来なかったのです。彼は6000億円が帳消しにされたその足で、100万円の借金を取り立てにいった。それが赦された者の行いなのか。そう聖書は問うのです。

 ここで言われている事は、あまりにも桁外れな数字である為、私たちにとってはあまりにも現実離れしている、想像の世界のように思えてしまうかも知れません。けれども本当にそうでしょうか。私たちの罪を数字に表すとしたら、低い数字に留まるのでありましょうか。そうではありません。私たちはこの家来が負っていた負債1万タラントンに匹敵するか、それ以上の罪の負債を負っているのであります。その私たちは赦されたのです。キリストの十字架によって。私たちの負債があまりにも膨大である為に、自分自身では償う事が出来なかったのです。しかし神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、私たちに代わって、十字架によってそれを負って下さったのです。その事を心の底から本当に自分のものとして知る人は、人の負債を帳消しにする事が出来るというのであります。言い換えるならば「我らに罪を犯す者を我らが赦す」ことが出来るのは、「我らの罪が赦されている」「しるし」であると言えるのです。本当に神の下にへりくだって、自分の罪の大きさを知っているならば、自分が赦された事を棚に上げて、人の罪に執着する事は出来ないのです。つまり神に赦されている私たちは、自ずと人を赦す事ができるようになるのだ、と言われているのです。

 真の赦しを本当に良く知っている人は、自分の生活の中にその赦しがどう反映されるかにを向けるのです。赦された事を知った時、もはや「他人が自分を赦すのか」とか、「自分が他人を如何に赦しているか」、などという事を推し量るのをやめ、又、私があの人を赦すのと、あの人が私を赦すのと、釣り合いが取れているとかどうかなどという打算や計算が行なわれるのではないのです。神が私を赦して下さっている事によって、全ての計算は終わっています。大きな1万タラントンの負債は帳消しなのです。だからこそ私たちは、安心して人を赦す事が出来るのであります。
 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。主の祈りの中でこのように我々が祈る時、そこには、既に赦された私たちが、神の恵みの無限の大きさと、その下にあって私たちもまた、赦す事の出来る者であるという確信が与えられ、常に新しい赦しへの決意に立たせられるのであります。「汝、赦しの中に立て」とこの祈りは私たちの告げているのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年3月25日)

マタイによる福音書6章11節 『我らの日ごとの糧を』主の祈り (Ⅲ) 

 マタイによる福音書6章11節 『我らの日ごとの糧を』 主の祈りⅢ

 インターネットのブログに「パンも大好き―聖書読んではひとりごと―」というサイトがあります。ご存知でしょうか?そしてこれには「日本キリスト教会発行『家庭礼拝暦』にそって」という副題が付けられております。ご覧になられた方はおられるでしょうか。これは未だに謎なのですが、日本キリスト教会関係者の誰かが立ちあげているらしいのですが、それが誰だか分からないのです。しかしその内容は、家庭礼拝暦の毎日の言葉に対しての雑感を書くというものでして、それが非常に的確で、且つ、好意的であります。聖書を良くお読みになられる方か、もしくは教職の誰かが書いているように思うのですが、だれかお分かりになる方がいれば教えて頂きたいと思います。
 しかしこの「パンも大好き」という題名はユーモアに溢れていると思います。イエス・キリストが40日40夜の荒れ野の誘惑を耐え忍ぶ中で、「この石をパンに変えたらどうだ」という唆しに対して「人はパンのみに生きるに非ず」と答えて悪魔の誘惑を蹴散らしたという話しがありますが、これに倣って、「私は御言葉の糧も好きだけどやっぱりパンも大好き」というユーモアの一つとしてこの題を考えたのではないかと思うのです。
 しかし私たちキリスト者はパンに対して如何なる思いを持っているでしょうか。キリスト教会でパンと言えばパンと葡萄酒というように聖餐式のイメージがあるかもしれませんが、しかしパンを欲する、という事を考えますと、荒れ野の40日の逸話にもある通り、パンを欲する事はキリスト者的ではない、というようなイメージがあるのではないかと思うのです。つまり「パンのみによって生きるに非ず」という言葉が植え付ける印象、すなわち第一義的に私たちに必要なのは御言葉であり、パンは二の次であるというイメージです。金銭などと同じように、パンを欲する事は物欲の一つとして捉えられがちであります。
 出エジプト記にあるように、エジプトの奴隷の身分から脱出してきたイスラエル人たちは、すぐにモーセに、ひいては神に対する不平不満をぶつけるのです。それこそが、食べ物がない、つまり「パンがない」「パンが欲しい」というものでした。
 ですから私たちが「我らの日用の糧を今日も与え給え」と主の祈りを祈るとき、この言葉があまりにも卑近な問題を扱っているかのように思えてしまうのは、聖書を良く知る私たちにとって当然の事なのかもしれません。これまで、神の御名、御国、神の御心を願っていた祈りであったのに対し、ここから突如として人間のおなかを満たす事を祈るのです。言うならば高尚な祈りの次に、突然卑近な祈り「パンを下さい」と祈りだす。とても不思議な感じがし場違いな感じも致します。

 しかし食べ物を求める祈りとは、そもそもそんなに卑しいものなのでしょうか。むしろ人間にとって、これほど切実な祈りは無いのではないか。そのようにも考えられます。私たち人間は、なぜ毎日働くのでしょうか。その第一義的な理由は食物を求める為、日々の糧を得る為という事ができましょう。自分の、そして家族の食事を守る事は、すなわち神に与えられた命を維持する事になる。そう考えるならば、食事を求める事は被造物としての我々が、神に対して負う責任、と言えるのかも知れません、
 そもそも主イエスの時代、ナザレの労働者の家に育った主イエスや弟子たちは、パンを得る事がどれほど深刻な問題であるのか、身をもって知っていたことでしょう。パンがないという事が、どれほど苦しい事であるのか。パンの問題の為にどれほど人を狂わせたか。その事を知っていたのだと思うのです。
 人類の歴史は食料調達の歴史と言っても過言ではありません。1789年フランス革命においてルイ王朝が滅ぼされます。王侯貴族から受ける搾取にあえぐ民衆たちは、度重なる飢饉と貧困の末、ヴェルサイユ宮殿に集まり、ルイ16世に向かって、「ドゥパン、ドゥパン、ドゥパン」、と叫びました。それは「パンを、パンを、パンを」という切実なシュプレヒコールであったわけです。
 日本でも百姓一揆と呼ばれる納税義務の軽減を求める最下層民の武力行使が行われました。現代社会でも、貿易の自由化によって問題になるのは、国益と共に、食料、つまり農業や漁業などの第一次産業への影響であります。
 このように見ていきますと、食料の事を求める祈りが卑近であるとか、卑しい事であるというのは、飽食の時代に、何の不自由もなく、不足もなく生きている我々だからこそ生まれる思いであって、食事もままならない環境に生きる者たちには、パンを求める事によって戦争や革命が起きるほどのものであったという事を、我々は知らねばなりません。
 
 先ほどお読み頂きました、出エジプト16章にはマナの出来事が記されております。エジプトの奴隷から解放されてモーセに導かれた民らは、荒れ野の真ん中で食糧難に喘いでおりました。そして民らは文句を言いだすのです。こんなだったらエジプトにいた方がマシだった。エジプトの奴隷の時の方がウマい肉鍋を食べられた。このように具体的に文句を言うのです。まさに人類が食糧調達の歴史を歩んできたように、彼らも又、その事で今まさに暴動が起こらんとしていたのです。

 しかし神は、この時マナとうずらを与えられました。この時一つのルールがありました。それは「一日分しか取ってはならない」ということです。安息日の時だけ二日分とって、それ以外は一日分だけにしなさい。明日を思い煩った者が二日分取ると、腐ってしまった、と書かれています。ここには民を養う神の姿が描かれます。その日一日の糧を与えて下さる神の姿です。

 けれども、この出来事についてモーセがあとから回顧している申命記の8章3節で、注目すべき言葉があります。旧約聖書294頁の上の段、申命記8章3節以下、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わった事のないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった」。このようにあります。つまり、マナの出来事というのは、人間の食糧確保、肉体の維持、空腹の解消を目的とするものではなくて、神はそれ以外の事柄を、第一義的に示そうとした出来事であった、という事であります。それは食料を与えることによって、実は、神の御言葉の意味と重さを知らしめる為の、マナの出来事であった、というので
あります。

 出エジプトの旅は、長く重苦しい旅でありました。距離にすると大した事のないところを、40年もの間の長きに渡り、行ったり来たり、放浪の旅を続けたのです。生まれたばかりの人は40歳になり、二十歳の若者は還暦を迎えるほどの長い期間彷徨っていたのでありました。彼らは何を感じて旅を続けたのでしょうか、自分の家も持たず、帰るところもなく、単調毎日が続くだけ。何となく繰り返される日々。昨日も今日もそう変わる事なく続く毎日。そのような旅であったと思うのです。40年の旅の最中に亡くなった人も大勢いたようですから、この出エジプトの旅は一体なんなのかと神に問いたくなるような、そんな思いの中にある長き旅であっただろうと思うのです。
 しかしこのようなイスラエルの民らと私たちは、全く掛け離れた存在なのでしょうか。そうではないと思うのです。私たちの毎日とは、いつもいつも新しい事で満たされ、新鮮な毎日に満ち溢れていれば良いと思いつつも、しかし、日ごと平凡単調な出来事の繰り返し、いつも新しいことを発見していたいと思いつつ、そうもいかない日々。ただ食べていく事のために汗水流す日々。三度の食事と掃除と洗濯をすれば、何となく一日が終わってしまうような毎日。嫌な上司に頭を下げ、働かない部下に心を痛める日々。ふと気がつくと、どうして毎日働いているのだろうか、どうして生きているのだろうか、とすら考えてしまう事しばしば、なのではないでしょうか。つまり、出エジプトの経験した旅と、我々の生涯には、非常に似通った部分があるのでは無いかと思うのです。

 主の祈りの中で、私たちは「われらの日用の糧を」と祈ります。この「日用」というのは「毎日の」と訳される言葉です。ですから「私たちの毎日のパンを下さい」と理解するのです。けれども、この「日用の」という言葉の持つ意味を、我々はいささか誤解している傾向にあるようです。つまり「日用の糧」というのは、「今、この時の糧を」をいう意味だけでは無いからです。毎日の単調な生活の中にあって、昨日の食事のように、今日もまた同じように恵まれた食事をお願いします。という、反復を促す「日用の」という意味ではないからです。
 ここで言われている「日用の」という言葉には、「差し迫っている次のこと」が示されています。つまり、朝この祈りをすれば、そのすぐ後に続く昼食や夕食の事を思い、夕べの祈りであれば次の朝の朝食を求める祈りとなります。差し迫った次の時の、つまり、明日の命を支える糧を与えてください、という意味が、ここに含まれるのです。

 明日の命は誰にも分かりません。今この次の瞬間であっても誰にも保障は出来ません。このような私たちのために、差し迫った次の命を生かす糧を下さい、と祈るのです。このように考えますと、「我らの日用の糧を今日も与え給え」、という祈りは、自分自身の限りある命を直視しながら、新しい命を求める祈りであると言えるのではないでしょうか。それは、ただ肉体の生と死に関わることだけでなく、いつ死ぬかと怯える事でもなく、少なくとも今日だけは生き延びさせて下さい、という消極的な祈りでもありません。それは、神の確かな養いのうちにいる事を確信させて下さい、という祈りであり、たとえ明日この肉体が滅びようとも、キリストによって神の国の永遠の命に生きる事を求める祈りなのです。

 詩編145編14節15節は、今日の箇所に一つの示唆を与える重要な言葉があります。旧約聖書986頁の上の段ですが、(詩編145編15節)「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます」。このように書かれております。しかしこの15節は14節と共に読む時、初めてその意味の深さが立ち上がってきます。145編14節「主は倒れようとする人を一人ひとり支え、うずくまっている人を起こして下さいます」。このように書かれております。そしてその後に、時に応じて食べ物が与えられる事が記されているのです。
 今、しっかりと立っていても、次の瞬間は誰にも分かりません。うずくまるかもしれないし、倒れてしまうかもしれない。しかしそのようなうずくまる時、私たちは、主イエス・キリストの父なる神が、そのようにかがみこんでくださる事を知っています。十字架という低さに降りて下さり、倒れてうずくまった私たちに対し、限りなく低くうずくまって下さり、私たちの倒れんとするこの体を支え、抱き起こして下さる神がおられるのです。あの十字架の上に居られるのです。
 「我らの日用の糧を今日も与え給え」。この祈りは、単に食料を求めているのではなく、主イエス・キリストによって、私たちは現在の命を保ち、これが滅びようとも尚も命を保ち続けて下さる事を求める祈りであるのです。この祈りは、決して卑近で卑しい事なのではなく、むしろ私たちの命が主によって守られるという願いと確信に基づいた祈りであります。主の祈りの後半の最初に、最も適切な祈りがなされているのだ。この事を覚えたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年3月18日)

マタイによる福音書6章10節 『天と地に生きる』(主の祈りⅡ)

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書6章10節 『天と地に生きる』(主の祈りⅡ)

 先週の金曜日、浦和教会において世界祈祷日礼拝がもられました。今年はマレーシアの教会の為に祈りを合わせ、「正義を来たらせたまえ」というテーマによってこの礼拝の時を送りました。歴史的には1887年にアメリカの長老派の女性たちが、様々な抑圧を受けている人たちを覚えて祈る事からこれが始まり、徐々に他教派の人たちにも広がっていきました。1920年になり、レントの第一金曜日を伝道のための合同祈祷日と定め、組織的な祈りの会となっていきます。第二次大戦後の1945年、和解と平和を求める祈りへと教派を超えて広がり、これが現在の世界祈祷日の始まりとなったわけであります。ですから発足してから125年も経っており、また日本でも1932年から80年間これが守られていたわけですから、決して最近はじめられたムーブメントとしての祈祷会ではないのです。これまで色々な国々の為に祈りを合わせてきました。インドネシア、ガイアナ、南アフリカ、ポーランド。決して祈りの対象は、発展途上国のみに絞られているわけではなく、様々な国の事情、問題や課題が克服され、より良い世の中を実現する為の、世界全体が神の御国の実現と栄光を現すためにこの会が開かれて来たのであります。

 しかし21世紀になり既に12年目を迎えましたが、この世は徐々に良くなっていくどころか、様々な複雑な問題を抱えております。政治経済においても、国が破綻するという状況はかつて考えられなかったものでありますし、世界規模の温暖化、環境破壊、それから次世代エネルギーの問題、石油の枯渇。何よりも、なくなる事のない世界中で行われる紛争や戦争。どのように祈りを合わせても、世界の和解と平和を祈っても、この世は神の御心に反したものである以外の方法を取らず、罪に罪を重ねる人類社会が厳然として残るだけであります
 このような私たちの生きる世界の中で我々は祈るのです。『御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせ給え』と。今日はこの祈祷の言葉に思いを寄せ、学んでいきたいと思います。

 ここで祈られる「御国」と言うのは、ギリシャ語的には「あなたの国」、つまり「神の国」であります。私たちは「神の国が到来しますように」という祈りをしているのです。神の国というのは、この世の中の権力や、政治に左右されない、神が直接ご支配なさる国、を意味しております。
 主イエスが述べ伝えていたものは、まさに「神の国」でありました。主イエスの福音とは、神の国の到来であったわけです。

 しかしながら「神の国」とは一体どのような国の事なのでしょうか。ある注解者は、「神の国とは、終末の時、終わりの日に完成する、神がご支配される国のことである」としています。しかしそうなりますと、「神の国」は、私たち信仰者にとって現実的なものではなく、漠然とした、非現実的な場所のように思えてしまいます。いずれは来るかもしれないが、今目の前に無いのならば、私たちとは今のところ関係の無い場所。私たちの日常とは無縁の場所、このように思えてしまうのであります。

 しかし主イエスは「神の国」とはどのような場所であるかについて、色々なところで語っておられます。ルカ福音書17章20節~21節143頁の上の段でありますが、ここで主イエスは、神の国について最も明確に語っております。

 「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に神の国は、あなた方の間にあるのだ』」。と、このように言われております。つまり主イエスは、「あなた方の間に、あなた方の内に、神の国はあるのだ」と言っているのです。「国」という言葉を聞くと、国土、領土、国境線、などのような、物理的な領域の事を想像するかもしれません。もしくは、政治的・経済的な動きや、支配と被支配の関係、民主主義、王政、大統領制、などのように、組織や運動体としての「国」、私たちの外側にある、現象としての国を思い浮かべやすいと思います。しかし主イエスは、「あなた方の内に、あなた方の間にあるのだ」と述べているのです。

 この「あなた方の間」とは一体なんでしょうか。「あなた方の『心の中』」という事でしょうか。そう考えがちなのですが、実は違うのです。「あなた方の間、あなた方の中」というのは、決して心の中の精神的なものに限定されたものではありません。神の国は心の中の問題に限定する事柄ではないのです。

 例えば、神の国を心の中に限定してみましょう。するとこうなります。「この世の中は大変無秩序で、理不尽な事が多くあるから、神の支配の中にあるなどと、言えるわけがない。だから神の支配というのは、私たちの心の状態如何によって、つまり心の持ちようによって、神の国であると信じる事が出来る」という理解になるでしょう。しかしそうではないのです。

 私たちの「間」というのは、私たちの心の内、という意味ではなく、私とあなたと彼と彼女の間、つまり人間同士の間に、人間世界の中に既に神の国がある、という意味なのです。私たちの間には、共同する力があり、喜び合う関係を作り出す事も出来ます。しかし同時に、私たちの間では、諍いや争いがあり、差別や虐げの絶えない世の中であるとも言えるのです。それはちょうど、世界祈祷日で祈り合う170国の国々がありながら、その国同士が、政治的には武力行使をし人を殺め合う関係であるのと同じように。

 しかし忘れてはならない事は、「私たちの間に」誰が立っておられるか、であります。誰の犠牲の為に我々の命が存在し、誰が我々の仲保者であり、誰の血によって赦され、和解する事ができたのか。それこそが、イエス・キリストであります。私たちの間に立っておられるのは、主イエス・キリストであるという現実、その現実の中に、その事実の間に、私たちが存在するという事です。だからこそ、この主イエスの立っておられるところだからこそ、神の国、神の支配は既に来ていると、言っているわけです。神の国は主イエスのいまし給うところに現実に存在するのだと語るのです。

 つまり私たちが「御国を来たらせ給え」と祈る事によって、主イエスがますます近くにいて下さ
り、その事によってキリストの支配が本当に私たちに強く、生きたものとして迫ってくる事を願っているのであります。もっと深く言いますならば、先立って歩まれるキリストを見つめつつ、私たちの視線は十字架に向かいつつ、自らの欲望と自我を超えて、十字架の愛、十字架の和解と共に私たち人間の関係が成り立つという事であります。

 牧師の加藤常昭氏は、「神の国はを、『キリスト教会』と言い換える事も可能である」と言いました。これは大胆な言い方であるな、と思いました。確かに教会は神の国の先取りとしてこの地上に建てられ、教会はキリストの体である、と私たちは告白していますから、教会の頭がキリストであり、その肢体となって教会の関係性から考えるならば、教会は本来神の国を写す鏡ある、と言えるのかもしれません。この見解は非常に正しい見解であると思います。しかしながら、この世の教会は、何と未完成な場所であろうかと思います。地上に建てられた教会の何と欠けの多い事であろうかと思うのです。教会は聖なる神の国を写す器でありながら、罪人の共同体という、一見矛盾する事柄を内包する場所であるのです。

 しかし、私たちは、神の国である教会に託された、最も重要な働きに目を向けたいのです。それは「罪の赦し」であります。この世に建てられた、非常に卑近な場所。罪人たちが依然として罪人である場所。愛を説き、又、説かれながら愛せず、悔い改めを説き、又、説かれながら悔い改めない人々の集う場所。それが現実の教会の姿であります。しかしこの教会こそが、神の真の赦しを携えて、自らが罪人として、罪赦された罪人として、他の罪人たちに福音を伝え、救いの言葉を伝えようとするのです。それは人間の思いによって赦すのではなく、人間の権威によって救うのでもありません。神の赦しは「キリストの名によっての赦し」であり、キリストの十字架によって私たちが赦されている事を伝える福音なのであります。すなわちここに神の国が既に来ていると言えるのです。罪赦されるはずのないような状況の中で、又、原罪を抱えた私たちの現実の中で、神がこの我々をお赦しになって下さっている。この赦しこそが、神の国であります。神の国は、キリストの十字架の赦しによって真実性を帯びて神の輝きを照らして行くのであります。「御国を来たらせ給え」と私たちが祈る時、そこにはキリストの臨在を思いつつ、私たちの視線はキリストの十字架の愛に向けられるのです。この祈りは、未来の事を祈り求めるのではなく、今ある現実の中に、神の国がある事を認め、その神の国が、神ご自身がそう願ってお造りになられたものであるように、と祈る祈りであります。現実世界は人間的であるが、神の国性を帯びたものとなるようにと
祈る、信頼の告白でもあるのです。

 だからこそ私たちは、その御国が真のものとなるように願い、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。「御心」という言葉は、「あなたの心」つまり、「神の意に適うこと」「神が良しとされる事」であります。天地創造の時、神は御自分の創造なされたものを見て「良しとされた」と何度も書かれております。 

 神はこの世をご自分目に「良いものとして」お造りになられました。地上も、天体も、植物も、動物も、そして人間も、全ての被造物が作られた目的に従って神に仕え、神をほめたたえ、神との繋がりを持つ交わりを喜び、神の平和が支配する世界として、お造りになったのです。しかし現実の私たちの世界は、如何なる物であるのか。それは創世記3章に記されている通りです。人間は誘惑に駆られ、誘惑に負け、神の命令に背くものであった。神に背を向け、創造の秩序を破壊する人間となってしまった。ヨハネによる福音書1章に書かれている通り、「キリストという光を理解できない闇の世界」とさせてしまった。そのような世界に対して、尚も神は、その御心をなそうとして自らと人間との交わりの道を開き、本当の和解を与え、生き得るものとして、命の可能性を与えて下さったのです。主イエス・キリスト誕生、十字架、復活の出来事は、罪の私たちに、その生きる可能性を示して下さった出来事に他なりません。今はレントの時ですが、レントは単に神の苦しみを覚える時だけなのではなく、その苦しみによって本来死すべき我々が生きるべき道を与えられた事を想起する時でもあると思います。

 私たちが祈る時、それは「イエス・キリストにおいて、神との関係が回復され、神に仕え、神を讃え、この世に豊かな平和と輝きが与えられますように」という意味を持つのであります。

 「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」という祈りは、「人間の力によって天の国を地上に作り出そう」という祈りではなく、「神に対する反抗的な思いが捨てられ、神の意志への従順と、神と人との関係が回復され、あらゆる罪を悔い改めさせられ、主に私の罪を裁いて頂き、さらに私のうちに神の御心に従う力と、勇気と、希望をお与えください」という祈りであるのです。
 
 この祈りによって私たちは、人間中心の思いを変えられ、神の御腕の力に信頼し、それ故に私たちが他者との和解をし、他者を愛し、他者と共同する事の出来るものとして、イエス・キリストに罪贖われた者として生きるたい、という願いであり、また。告白でもあるのです。

マタイによる福音書6章9節  『御名をあがめさせ給え』主の祈り(1) 2012年2月26日

 マタイによる福音書6章9節 『御名をあがめさせ給え』主の祈り(1)

 私たちの信仰の中心的営みの一つに「祈り」があります。ある神学者は「祈りは宗教の精神であり、また脈拍である」と言いました。宗教における最も奥深く、深遠なる本質こそが「祈り」によって表されると言っても良いでしょう。つまり祈りを知る事こそが、その宗教の本質を知る事に他ならないという事です。

 これは私たちキリスト教信仰においても同じです。しかし祈りには多くの危険と誘惑がある。それが偽りの祈りであると先週の箇所で主イエスは言われました。あなたは誰に対して祈るのか。人間を思い浮かべて人間のおもねって祈るのか。それとも真実の主に対して主に向かって祈るのか。それが最も重要だと言われていたわけです。
そこで主イエスは「だから、こう祈りなさい」と前置きして私たちに言われます。その真実な祈りとは次のようなものであると前置きして、私たちに「主の祈り」を教えられたのであります。「主の祈り」はギリシャ語にすると、たった57語から成る小さな祈りです。しかも日曜学校の小さな子どもたちでも出来る簡単な祈りです。しかしこの祈りこそが、主が「だから、こう祈りなさい」と言われるほどの、信仰の最も深淵な事柄を祈り、また最も身近な事柄を祈るものとして、私たちはこれをいつも口にするのであります。

 このように「主の祈り」は、私たちの財産と言って良いものでありますが、しかし私たちクリスチャンはこの祈りを、実はあまり理解していないのではないかと思うのです。毎週毎週、祈っている筈のこの祈りが、実は本来の意味が忘れられて、形式的にそらで暗唱する事が目的になってしまっているのではないかと思うのです。一語一句、噛み締めるというよりも、これを諳んじる事によって主の祈りを祈っている、そのように思うのです。宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト教の歴史における最大の殉教者は、『主の祈りである』」と、大変皮肉を込めて述べております。つまりキリスト教の歴史の中において主の祈りが、本来の祈られ方をされておらず、「抹殺された」という事を言っているわけです。つまり私たちクリスチャンこそが、主の祈り殉教させているわけです。そのような自己反省とルターの皮肉を受けつつ、この祈りの本当の意味を一つ一つ読み解いていきたいのであります。

 今日から5週にわたって、「主の祈り」について学びたいと思います。形式的に繰り返される祈りとしてではなく、心から搾り出される祈りとしてこれを祈る事が出来るならば、主の祈りの居場所を確保し、殉教の身から「主の祈り」を救い出す事が出来るのではないでしょうか。

 主の祈りの構造について少し説明します。簡単に言いますと、「前の三つ」の祈りが「後の三つ」の祈りを支えていると言えると思います。「天にまします~」から「地にもなさせたまえ」までが最初の3つの祈り、「我らの日曜の糧を~」から「悪より救い出だしたまえ」までが後の3つの祈りであります。

 前の三つは、御名、御国、御心の三つについての祈りです。この三つによって、私たちの全てが神に支配されるという事、神の主権によって私たちへの約束が果たされ、私たちの願うあらゆる類の願望と、希望が支えられる、という事です。

 従って、自分のために、日曜の糧、つまり毎日のパン一つを願い求める際も、神の御名、御国、御心を考えないでは、まことに相応しい態度をもって願う事が出来ない、という意味を持つわけであります。つまり主の祈りと言うのは、単に私たちの願望を羅列した祈りなのではなく、神が中心におられる事を前提としながら、極めて人間的なパン、赦し、試練に関する人間中心的な祈りでもあるわけです。主の祈りは、神中心であり、同時に人間中心の祈りであると言う事が出来るのであります。
 その中で今日は、「天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせ給え」という、文言について深めていきたいと思うのです。


 祈りというのは、ちょうど手紙のやり取りと同じであります。手紙を書くとき最初に「誰々さんへ」と、宛先を明記いたします。宛先の名前がなく、突然手紙の本文から始まったとしたなら、この手紙が誰に読まれる為に書かれたのかが不明瞭です。祈りもこれと同じです。最初に宛先についてはっきりと述べる事が必要です。主の祈りではこれを「天にまします我らの父よ」と言っております。つまりこれは神に対して宛てられた祈りである、という事です。祈りとはそもそも神に対するものであり、人間に対するものではありません。そんな事を分かり切った事であると思うかもしれません。しかし私たちの祈る祈りとは、決してそうではない事を、先週の箇所から学びました。つまり神を神とする祈りではなく、人間からの評価を受ける為に行う祈り、すなわち人間を神とする祈りが偽りの祈りとして存在するのだ、と主イエスはおっしゃいます。ですから決して「そんな事、分かり切った事だ」と簡単に読み飛ばす事は出来ないのであります。もしこの大切な文言を読み飛ばす、もしくは意識なく諳んじるならば、神不在の人間に向けられた祈りとなる危険が迫る瞬間がそこにあるのかもしれません。だからこの最初の文言は大切です。
 
 しかしここで注目したいのは、「神」が「父」と言われている事です。この事はルカ福音書15章11節、「放蕩息子の譬え」に言い表されている意味での「父」であります。このルカの箇所は、一般に「放蕩息子の譬え」と呼ばれますが、しかし実は放蕩息子がテーマではありません。この話の主人公は、「放蕩息子の弟とそれに嫉妬する兄に対して、父が愛とは何であるのかを教える話」と言うのがテーマであります。言い換えるならば、天の父とはどのような方であるのかについて語られた譬えなのです。「父の家から離れていき、放蕩の限りを尽くし、飲み食いなど散財を重ね、一文無しになり、誰からも失われた者となった、その失われた者を「失われたままである事を欲し給わない方」。それが私たちの父である、という事なのです。

 もう一箇所、マタイ福音書20章1節以下、「ブドウ園の労働者の譬え」と言うのがあります。あるウ園の主人が、から晩にかけて数名の労働者を雇い、ブドウ園で働かせた。その労働者の勤務時間はまちまちであった。しかしその主人は12時間働いた者にも、1時間しか
働かなかった者にも、同じ1デナリオンの賃金を支払った。勿論多く働いた者たちから抗議を受けました。しかし主人は言います。「私の気前の良さを妬むのか」と。この主人が神であり、父である事は言うまでもありません。そのような気前の良さと、ご自分の誠実さと自由さに基づいて、全ての者を同じだけ慈しみ愛して下さる方。それが「父」であると聖書は言います。

つまり「主の祈り」で語りかける「父」とは、こういう方であると聖書は言うのです。「失われた者を、失われたままにされない方」。そして自分自身に誠実であり、全ての者に対しても誠実な方」であります。その父に対して私たちは、「天にまします我らの父よ」と呼びかけるのです。このように呼び掛ける時、私たちは、全ての権利と全ての支配を、この父なる神に明け渡すのであります。

 そしてこの父は私だけの父ではなく、「我らの父」として呼び掛けています。私たちは決して神を独占する事は出来ず、また独占できる方でもない、という事を意味します。そして同時に、「我ら」は同じ「父」を中心にした被造物であり、又、信仰共同体の一人である事を、公に告白する事も意図されています。アメリカ南北戦争の時に、北軍も南軍も、同じ神に勝利を祈った。そのような矛盾に対しても、神はご自分の義を行い賜う方なのです。誰も神を独占できない。我らの父とはそういう意味を含むのであります。

 そのように宛先を明確にした後、私たちは「願わくは御名をあがめさせ給え」と祈ります。「御名」と言うのは、単に観念としてではなく、実体そのものとしての神の名を指します。すなわち「御名」とは、「神御自身そのもの」という意味です。
 モーセが出エジプトの命令を神から受けたとき、神は御自分の名を「私はあってある者」と言いました。ヘブル語でハーヤーという言葉は英語のbe動詞と同じような意味ですが、ハーヤーは「ある」とか、「いる」というような存在を示す動詞です。そのハーヤーから派生して出来た名前が「ヤハウェ」つまり「私はあってある者」と、御自分をお示しになられた通りの名がそのまま「神の名」として認知されたのであります。

 十戒でも「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と戒められるように、神という存在は、私たちに簡単に呼び出され、私たちの都合によって如何様にでも出来るような存在では無い、という事を示します。

  「御名をあがめさせ給え」と言うのは「神の御名が聖とされますように」という意味です。「聖とされる」というのは、尊ばれるとか、敬われると言う事ではなく、「分離される事」を示します。つまり神と人間の絶対的な隔絶性、相容れる事の出来ない神という意味であります。イザヤ書6章でイザヤが預言者としての召命を受けたとき、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」と告白いたしました。そしてイザヤは自らの口の汚れと、神の言葉の聖さのあまりの違いに、自らが預言者として相応しくないと思い尻込みする、という一場面が描かれております。「聖とされる」というのは、それほどの意味で神が罪ある私たちとは隔てられた存在である事を意味するのです。

 しかしそんな事は分かり切った事である筈です。何故主の祈りでは、「御名が聖とされますように」という分かりきった事を敢えて祈らなければならないのでしょうか。それは神の御名が「聖とされていない」現実があるからです。先ほど言及しましたマルティン・ルターは主の祈りの講解の中で、「この祈願ほど私たちの生活を打ちのめす教えは無い。なぜなら、私たちがこの祈りを祈るのは、私たちが神を絶えず冒涜し、聖としないで生きているからだ」と、このように言っております。
また、リュティというドイツの神学者は、この祈りについて次のように言います。

 「神の聖なる御名は受難の時を過ごしている。神の名は、ちょうど一個の貨幣(コイン)のように、人の指の間を巡り巡って、完全に使い古され、もう見分けがつかぬほど磨り減ってしまう。すりつぶされ、きたなくなり、ベトベトした貨幣を手にした後、手を洗いたくなる衝動を感じるに違いない。その貨幣は信仰者の間では、神の名に置き換える事ができる」。このように言っております。つまりリュティは、神の名はあまりにもみだりに唱えられすぎている、と危機感を募らせているのであります。

 私たちがもし主の祈りを形式的に、ただ何となく唱えているのだとするならば、それは完全に使い古された貨幣のように、御名をみだりに唱える事になるでしょう。ですから主の祈りは唱えるのではなく、唱和するのでもなく、主の祈りは祈られるべきものなのであります。

「御名をあがめさせ給え」という祈りは、私たちは本当に真実な方を真実な方としているのか、という懺悔と、悔い改めの祈りであるのです。この神の名が全世界にとっての真の聖なる名とされるために、私たちはその生活を通して、生きる様子を通して、自らの態度を通して、神の証人となる事が求められているのです。「御名をあがめさせ給え」。この祈りによって私たちは、神ではない者を神とする世に「否」と言い、唯一の神を聖とする事に「然り」と言いつつ、真の神を証しする者である宣言をするのです。主の祈りは、単に私たちの願望の祈りではなく、極めて明確に、私たちの歩みの道しるべとなる祈りであります。その事を思いつつ、これからも私たちの礼拝において、主の祈りが真の主の祈りとなるべく、祈り続けたいものでございます。 

 (浦和教会主日礼拝説教 2012年2月26日)
          

マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』  2012年2月5日

 マタイによる福音書6章1節-4節 『偽善か真実か』 2012年2月5日

 3.11以来、日本では国内外から莫大な金額の募金が集められいますがその中でも驚いたのは、ある篤志家である某企業の社長が100億円のポケットマネーを寄付したという報道でした。ポケットなどに入り切る筈もない莫大なマネーであります。これが発表されたのが4月初旬でありまして、その1月半後、まだ一円も入金されていない事が話題になり、メディアはこれを二つの見方で捉えました。

 一つ目は、株の売る時期を見計らっていると言うものです。この社長には6800億円の資産があると言われますが、勿論現金で持っているわけではなく、その大半が自社の株であるという事であります。その株を100億円分まとめて現金化しますと、株価が大暴落してしまい、この企業自体の存続に影響しかねない。それで少しずつ換金をしていくため、その時期を見ているのだ、という肯定的な見解であります。

 そしてもう一つの捉えられ方は、そもそも100億円など出す気はなく、一種の企業戦略であり売名行為に等しい、という批判的なものでありました。見せガネとして100億という莫大な数字を見せ世論を味方につけるという戦略であるというものです。そもそもこの社長さんは、東日本大震災をビジネスチャンスと捉えているのではないかという事も言われる事があるそうです。
 このような報道は、一部のメディアで言われている、いわば三面記事的な内容でありますし、その情報ソース自体がどこに由来するのか分からないものでありますから、今お話しした内容も話半分でお聞き下さればと思うわけです。しかし善意というものは、面白いもので、ある一つの善意が行われた時、それが善意であるのか、偽善であるのかという正反対の見方があり、どちらの内容にも真実味があるように思われます。彼が行なった莫大な募金が、完全な善意であるなら、後者の報道は全く事実無根であり、名誉棄損にもなりかねない見方でありましょう。しかしこれが、売名行為やビジネスへの足掛かりとして行われていたのなら、それこそ企業の存亡に関わる問題であろうと思います。私はこの事に対してどちらなのかという事は申し上げられませんし、この資産家である彼自身しか、本当のところが分からない、というのが事実であろうと思うのです。しかし人は、それをああでもない、こうでもないと言う。今ここでお話ししている事も、その類に属するのかもしれません。

 つまり何が言いたいのかと言いますと、人間は善意も悪意も、人に見られるという事によって受け止められ、それによって行われた行為は善意にも悪意(もしくは偽善)にもなるということです。言い換えるならば、善意の行動は、往々にして人に見られる事の中で評価され、批判される、という事であります。

 今日与えられた箇所は、この戒めが私たちには厳しい言葉であることを示します。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」このように厳しい言葉が示されます。そしてここで言われている善行とは、2節にあるように「施し」である、というのです。

 当時のユダヤでは、一般的に施しが行われていました。彼らの生活は、日常生活と信仰生活が分離されていない、一体化したものであり、信仰者としての行為として、神の憐れみを他人に分け与える具体的な行為として施しが行われていたのです。これは律法に基づいており、申命記15章11節にその事が示されています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」このように律法で命じられる事によって、ユダヤ人たちは貧しい人々への施しを一般的な行為として行っていたのです。そう考えますと、当時のユダヤ人たちは大変立派であったと思います。今日の箇所が偽善的な行為の戒めなので、どうしてもユダヤ人たちの大半が自分の行為を誇っていたというイメージで読んでしまうのですが、しかしこれらの行為自体がもし偽善であったとしても、何もしないよりは随分立派な事ではないかと思うのです。アジアのある国で、5歳の男の子が車に轢かれて血を流しているのに、何十分もそのまま放置されて死亡した様子が、防犯カメラに全て写っていたという事件が起こりました。人通りの少なくない道で倒れている子どもを、我関せず、と素通りしていくという事が往々にして起こり得る世であります。このような現状が現代社会であるとするなら、主イエスの生きられたユダヤ人社会は、律法に根差した大変立派な心掛けであると思うのです。

 この立派な行いが当時も評価されていた事でありましょう。しかしこのような立派な行為は、得てして「人に見られる事を好む」と主イエスはおっしゃるのです。立派な行為の中には隠された誘惑があり、善意は偽善となる可能性を秘めていると言うのです。

 善意と悪意という事を考えてみます時、それが決定的に異なるのは、見られたいか否か、に尽きると思います。例えば、空き巣はそれを悪い事と知っているから人目に付かないように犯行を行います。悪い事をしていると自覚する者は、人に見られたくないと思い、隠れて行動します。世の中で起こる殆どの悪い事は、人に知られたくないと思われて行われているはずであります。

 しかしそれと正反対に行われるのは、「善意」です。良い事をしている、というのは見られても良い、否、見てもらいたいと思うものなのです。あの100億円の募金者も、究極的には、誰にも知られずに募金する事も出来たはずですが、しかしそれを公表する事によって、善意を公に知ってもらいたいという思いがどこにも無かった、とも言い切れません。勿論そうではない人もいるでしょう。誰にも知られないで良い事を行なう。多額の募金という事だけではなく、ひっそりと行われた慈善的行為、隠れてなされたみんなの益となる助け。それらは実はこの世で行われている筈なのです。しかしそんな事があったかどうか、誰も知りません。そのような慎み深い良い行為であるなら、それこそみんなに知られて欲しいと私たちは願います。しかしそんな事は起こり得る筈がありません。なぜなら誰にも気付かれずに行われるからです。

 ここに一つの矛
盾が生じます。「誰にも知られない」という事は、その知られなかったという事自体が評価されるべきなのですが、しかし「誰にも知られない」という事は、誰からも評価されない、という事になるのです。つまりここに今日の箇所の示す意味があります。それは「評価の問題」です。

 どうして人は、自分の良い行いを見てもらおうとするのでしょうか。口語訳聖書ではその事が明確に示されます。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」。「自分の義」それは自分自身の正義であり、自分自身の正しさであります。自分の正しさを人に見てもらいたい。そのような心の働きが起こるのであります。先ほどの悪い行為と表裏一体です。悪い行為は誰にも見られたくない、しかし良い行為はみんなに見てもらいたい。それが私たち人間の本質にあるのだと言うのです。

 今日の言葉の確信はここにあるのだと思います。つまり誰が評価するか。誰の下で行為するかが問われているのです。人に見られて人の評価の中で自分が善行を行う時、その評価の基準は人であり、人が自分を如何に見ているかが重要になってきます。人からの評価の高さがその行為の高さであり、その人自身の高さになっていく。人からの評価が低い場合、その行為がどんなに素晴らしかったとしても、そこには意味が無くなって来るのです。
 言い換えるならば、誰のための行為となるかという事です。人から評価を受ける事の中で自分を律していく者は、人を重んじ、人を敬い、人を尊重して生きていく。その行為自体は決して悪くありません。しかしそれは突き詰めていくならば、行為の内容そのものではなく、人がそれをどう見るか、人がこの行いをどう評価してくれるのか、という、他者の胸三寸で決まる「善意」となってしまうのです。それは「あなたにとって神とは誰か」という問いになります。人からの評判、人からの噂を神にするのか。それとも真の神を真の神とするのか。その事が問われているのです。

 人は、得てして、どんな評判でも流します。ある事ない事、作り話に至るまで、実しやかに流します。そして人は、その事に一喜一憂し、嘆き、落ち込むのです。立派な行為を、人知れず行っていたとしても、それは見えないので、行っていないのと同じなのです。だから人は、評価してもらおうと見せようとする。その事を言っているのであります。人の評価とは、適当なものであります。莫大なポケットマネーを募金したとしても、その評価は全く正反対になるのですから。

 だから誰がその行為を見ているのか。その事をいつも念頭に置きなさい、と聖書は言うのです。「評判」と言う神。「人の評価」という神ではなく、真の創造主なる、御子イエス・キリストの父なる神、その方こそが、あなたの行為を知っておられるという事であります。ディケンズの『クリスマスキャロル』の中で、主人公スクルージが回心したのも、自分の行為が主に見られているという恐れに気付かせられたからであると語られます。聖書の中にも、レプトン銅貨2枚を献げたやもめの行為が神に見られている事が語られ、ニネベに行く事から逃れようとした預言者ヨナの行為は神に見られていたことが語られ、カインとアベルの思いの違いを主は見ておられ、使徒言行録5章のアナニアとサフィラの夫婦が貧しい者たちへの施しをごまかした事を主に見破らその場で主の裁きを受けた事など、主が我々を見ておられると多くの箇所で語られているのです。
 誰が見ているのか。人を主人にしてはならない。主イエス・キリストの父なる神こそ真の主人とせねばならない、この事が言われているのであります。

 そして最後に、山上の説教全体を通してこの言葉を考えてみたいと思います。それは5章16節であります。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」という言葉と、見せることなく善行に励めという言葉は矛盾するのではないか、という事であります。あちらでは立派な行いをしろと言い、こちらでは人に見せるなと言う。これは矛盾なのでしょうか。否、良く読んでみるとそうではない事が分かります。それは「あなた」と「あなた方」という2人称単数か、複数かの違いであります。つまり、あなた自身の善行は、独りよがりのものになりかねない危険を孕んでいるけれども、しかしそれが複数で行われる、共同体的行為である時、その責任はその共同体にあり、その責任の下で、その善行を吟味し、世にある共同体としてあり続ける意味を持つのであります。つまり言い換えるならば、そこにキリストをかしらとする教会の意味があるのです。2人もしくは3人いるところに私は居るのである、と主はおっしゃいました。それは複数の信仰の友らの交わりと祈りの中で行われる主イエスを中心とした行為こそが、その光を輝かしなさいと言われる行為であります。そこに教会形成の意味があり、そこに教会がこの世に存在する意味があるのです。

 今日は新任の長老と執事が任職式を迎えます。この浦和教会が、主によしとされた良い教会形成をし、良いしもべとして導かれる事を、主は望んでおられる。それはこれ見よがしに自分の善行を世に知らしめる行いではなく、慎み深く、人を慈しみ、隣人を愛する中で行われる行為であり、見えない行為を見ておられる神の名を崇める事になるのです。
私たちの行いが、主によって良い者とされますように祈る者であります。

 
(浦和教会 2012年2月5日 主日礼拝説教)