『民衆全体から好意をよせられた』 2010年6月6日

浦和教会主日礼拝説教    使徒言行録2章37節-47節

 「キリスト教共産主義」という神学的な理念があります。特にマルクス・レーニン主義が脚光を浴びていた時代盛んであったようですが、「共産主義こそがキリスト教徒が求めるべき、理想の社会体制なのだ」、と声高に叫ぶ者たちがいたということであります。それを唱える者たちが根拠にし、拠り立っているのが、イエス・キリストが、エッセネ派であったということです。ユダヤ教の一派であるエッセネ派は、財産が共有されていたと言います。だから主イエスも財産の共有を奨めていたはずである、という論理であります。もちろん聖書には主イエスがエッセネ派に属していたなどとは書かれておりませんから、憶測による状況証拠的な論理でしかない、といえます。

 そしてもう一つ彼らが拠り立っているのが、今日私たちが聞こうとしている箇所、使徒言行録2章、特に43節以下の記述である、というのです。彼らは、聖書によると、エルサレム教会では財産を皆が共有することによってキリスト教社会主義共同体が既に維持されていたのだ、と理解しているのです。エルサレム教会とは神学的な理念の異なる使徒パウロでさえも、ヤコブも、教会員同士の不平等があってはならない、と信じていた。だからこの聖書の箇所は、原始教会が共産主義的理念に立っているのだ、と、そのような根拠を引き出そうとしてきたのであります。

 確かに、この箇所をもう一度見てみますと、44節「信者たちは皆一つになって、全ての者を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。この言葉から連想されるのは、少なくとも資本主義社会ではなく、共産主義社会のそれに近いものであることは間違いありません。共産主義はご承知の通り、一切の私有財産の所有を認めません。簡単に言いますと、自分の財産を持ってはいけませんよ、つまり自分の土地も、貯金通帳も、タンス預金もその理念に反する行為である、というのが共産社会なのです。そしてこの箇所を読んでみると、そう読むことも出来なくもない。では聖書はそのように生きる世の中の実現を求めているというのだろうか。この箇所は私たちに何を語ろうとしているのだろうか。その辺りが、今日の主題となってくるのです。
 
 今日の箇所を読んでいると、このようにして生活することが、キリスト教倫理道徳上、優れたことであるのか、という疑問が沸いてまいります。やはり貧富の差が無くなる社会、キリスト教共産主義という理想を掲げることが、教会が支持すべき社会理念であり、社会システムであると聖書は言っているのか。という疑問であります。そしてもう一つ、共産主義が言われているのではないにせよ、今日の箇所が語るのは、教会とは助け合って、和気藹々と、和やかに過ごす集団であることが求められているように感じる、ということであります。一体、教会とは、信仰共同体とはこのような家族的な、あるいは共産主義的に生きる事が求められている集まりであるのでしょうか。結論から申しますと、「否」でありましょう。つまりこの箇所が語るのは、社会理念やシステムの構築、こうやって生活することが信仰的であって望ましい、という、共同体のあり方が語られているのではないのです。ですから私たちは、良く目を凝らして、聖書に耳を傾けねばなりません。

 47節「(彼らはこのように生活していたので) ~民衆全体から好意を寄せられた」とあります。ここに書かれている言葉を間違ってはならないのです。つまり単に「財産を共有しあっていたから好意を持たれた」のではなく「必要に応じて分け合ってたから」でもないのです。そうではなく、彼らが財産を共有するという事柄の前に、「彼らの内に起こった出来事が何であったのか」に注目したいのです。

 財産というのは、私たち人間にとって何を表すのでしょうか。それは、生きるための道具、自分の頑張りに対する価値、あるいは人生を賭けて得る報酬という方もいるかもしれません。とにかく、私たち人間にとって、財産は生きる術であり、自分を支える目に見える安心材料であり、また安全保障であると言えるでしょう。そのような財産は多かれ少なかれ、私たちはそのために生き、それを稼ぐために汗水流していると言えるのです。

 しかし彼らはそれらを「共有している」のです。自らの生きる術であり、安心材料であるそれを投げ出している、のであります。これが財産共有の意味です。つまり、彼らはそれまで生きてきた大事なものを、イエス・キリストの名において、放棄している。それまで彼らを支えてきた生きるために最も大事であると思ってきた物を投げ出しているのです。言い換えるならば、彼らは、財産の呪縛から解放されているのです。人は財産を得るためになら何でもおこないます。他者を傷つけ合うことも厭わず行います。それは私たちが「所有する」という欲求に縛られているからであります。創世記4章に出てくる、あのカインが、『主の祝福』という財産を得た弟アベルを妬み殺害したように、人間の罪はの多くは「所有する」ことに由来します。しかし今日の箇所で彼らは、多く持つ者が、そこから解放されて、共有することを良しとしているのです。彼らはそのように生きる選択をしたのです。そのように生きる者へと変えられたのです。
 それはちょうど、あのザアカイが、小銭を貯める事に必至に自分の命を費やしていたあのザアカイが、ルカ福音書19章で「主よ、私は財産を半分を放棄します。騙し取った分を4倍にして返します」と言って解き放たれたように、この人々は、自分の人生を縛り付けていた所有欲から解き放たれたということなのです。

 勿論私たちは、この話を聞いて「では全てを投げ出さなければならないのか」と早合点する必要はありません。決してこの箇所は私たちにストイックに、禁欲的に生きることを求めておりませんし、また財産の所有を敵視しているのでもありません。そのような早計な御言葉の適用ではなく、私たちは御言葉と信仰的生活によって、自らが変えられているか、という事に思いを寄せてみる必要があろうと思います。私たちは、キリストに出会う前に自分を生かして来た物や、縛られてきた事柄から、解放されているか。キリストとの出会いによってそこから解き放たれているか、ということが重要なのであります。御言葉は私たちを変えるのです。それがここでは彼らが財産の共同所有という形で現れた、ということなのです。


 さて、もう一度47節に戻りましょう。「(彼らはこのように生活し
ていたので) ~民衆全体から好意を寄せられた」というこの言葉には、もう一つの理由があります。それは、共同の食事ということです。これはしばしば、聖餐式の食卓を表していると言われてきました。勿論そのように読むことも出来ます。一同に集まり、パン裂きを伴う共同の食卓は、まさに聖餐式そのものであるからです。しかし当時の食事は、通常、その家の主人が「パンを裂いて、取り分けて、もてなす」という形式が採られていたようですから、必ずしも聖晩餐でなくてもこのような行為は伴ないます。聖晩餐であれ、通常の食事であれ、いずれにしましても、「信者たちは皆一つになって」(44節)それが行なわれていた、ということの中に、意味があると言えるでしょう。それは、貧富の差、地位の高さ、男女の性差、年齢差、そのような全ての格差を越えて彼らは皆一つになっていた、ということなのです。

 そもそもこの共同の食事の中に、イエス・キリストを見出さずにはおれません。使徒言行録の第1巻であるルカ福音書の中で「イエスが食事の席につかれた」という時は必ず、一緒に食事をすることを拒否された者たちとの食事か、もしくは、主イエスの論敵であるものたちとの食事でありました。ルカ5章29節では、忌み嫌われた徴税人レビと食卓を囲み、7章36節以下では、罪深い女と呼ばれる人と共に食卓を過ごし、19章5節では徴税人ザアカイに「今日は是非あなたの家に泊まりたい」と言ったのです。またファリサイ派とは、11章37節、14章1節などで、自分の論敵であるにも関わらず、共に食卓を囲んでいるのです。
 そしてルカ15章1節では、ファリサイ派の人たちが、罪深い者たちと食事をしている主イエスの行動を避難しているのです。それはイエス・キリストという方自身が、罪人を交え、論敵を交え、そして世間から忌み嫌われる者すべてを招く、分け隔ての無い方である事を示しています。社会的に差別される人たちは、しばしば食卓で排除されることを現代の私たちは知っています。南アフリカ然り、南北戦争のアメリカ然り、であります。当時のユダヤ地方も勿論厳格に差別を行い、被差別者たちを排除するのが慣例でありました。しかしイエス・キリストにある交わりは、かつて厳格に行なわれていた差別的な見方から、一人の信仰者として共に食卓につき得るものへの変革の徴であるのです。主イエスの共同の食卓は、社会的な障壁が打ち破られたことを証しする徴なのであり、また私たち信仰者がこの世においてそう生きることへと派遣されることを示す行為なのであります。

 つまりここで行なわれている行為によって示されていることは、単に道徳的に物を持ち寄って和気藹々と過ごすことが求められているのではなく、又、一緒に食事をする、という和やかさが求められているのでもないのです。ここに示されているのは、自分を縛り続けていた価値概念からの解放であり、また、社会を縛り付けていた差別的社会通念からの解放が、この主にある共同体の中で行なわれているのだ、ということなのです。だからその新しさに民衆は驚き、民衆全体が好意を寄せてきたのではないでしょうか。

 教会は、決して家族の延長として存在する集まりではありません。優しさとか、道徳心とか、理想の家族的集まりや、ほのぼのとした家庭の実現を教会の到達点としてしまうならば、必ず限界が訪れると思うのです。つまり私たちの教会という信仰共同体は、家族的なものとは違った又別の原理によって結びつかなければ、心を一つにして歩むことは出来ないと聖書は言うのです。それが46節以下に書かれています。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、~喜びと真心をもって~、神を讃美していたので」。つまり、至極単純なことですが、「信仰共同体は信仰を何よりもの柱とする」ということなのです。その中で、私たちの内には、自分を縛り付けていたもの、そして、社会を縛り付けていたものからの解放が与えられていく共同体として、成長していくのです。解放とは、主の救いであります。日々の雑多な生活での、また社会生活での、様々な労苦と、呪縛からの解放が、私たち自身の身に起こるならば、それは主の救いでなくして何でありましょう。私たちはその救いが、全ての人々に広がっていくことを求め、その業に参与し、我々の身を主の救いに投げ打って生きて行きたい。それを今日の聖書から聞き取るのです。

 

 『ペトロの説教』

<5月30日の説教から>
 使徒言行録2章14節-36節
   牧師 三輪地塩
 このペトロの説教は私たちに、週毎の礼拝式順序を思い起こさせます。勿論意図して書かれたわけではありませんが、人が神に招かれ、罪を自覚し、御言葉に慰められてキリスト者になるということは、このようなプロセスを辿るのだと暗示されているかのようです。つまり私たちの礼拝式というのは、単に儀式的な順序、セレモニーとして整えられただけの順序なのではなく、私たちが救いに導かれるプロセスがこの1時間という小さな時間の中に込められている、ということです。この礼拝の中で語られた御言葉を、私たちが自分の事柄として受け止め、自分が悔い改めへと導かれるための糧として、自らのものにする作業こそが、礼拝への参加であり、御言葉に、又説教に聞く、ということなのではないでしょうか。
 語る者は真剣に語り、それと同時に、聞く者が全身全霊を傾けて聞く者でなければ、説教は神の御言葉としての御言葉性を失ってしまいます。礼拝は出席することそれ自体に意味があるというより、むしろ、その中から自らへ問い掛けられた言葉を捜す作業です。神様の招きの意味を礼拝の中から見出すのです。聖書の中に、説教の中に、讃美歌の中に、祈りの中に、オルガンの奏楽の中に、礼拝の奉仕や、招きの言葉の中にでさえも、神様を見出すことが出来たならば、それがあなたへの御言葉です。だからこそ説教者同様、礼拝者も御言葉の解釈者であると言えるのです。耳を澄まして、目を凝らして、神様があなたに今日語る言葉を、自らの心で、自らの信仰で、聞こうではありませんか。

 『教会の誕生日』

   <先週の説教から> 
       創世記11章1節-9節 
       使徒言行録2章1節-13節
              
 ・・・その意味でペンテコステは、教会が教会足りえる日、教会の本来の姿が回復された日、と言えるのです。教会が不毛の土地から大いなる収穫を得た日と言い換えてもよいかもしれません。主イエスが昇天したあとの弟子たちは、気力もなくなり、途方に暮れていたと思います。心は燃え上がらず、何かを成し遂げようとする思いにも至らなかったのでしょう。しかしこのような弟子たちの落ち込む時が聖霊によって収穫の時に変えられました。家から出られず、互いに話をする気力すらも失っていたであろう弟子たちが、聖霊に満たされて語りうる力をえたのです。このような不毛の時期をも収穫の時として下さったのです。それこそがペンテコステの出来事なのです。
 同じく私たちも、イエス・キリストを信じ、聖霊に満たされるならば、どのような時も収穫の時となり得ます。心沈むときも、喜びにあふれる時も、聖霊に満たされているのなら、これもまた収穫の時なのです。苦しみもまた収穫であり、嬉しさも、落ち込む事もまた収穫となりうる。そのことをペンテコステの日は私たちに語るのです。
 私たちはこのペンテコステを覚え、聖霊による「回復の恵み」を喜びましょう。弟子たちはひっそりと息を殺して過ごしていたはずです。ローマ当局に見つからないように、静かに祈って生活していたはずです。しかしその彼らが、「聖霊に引っ張り出され」、日の光を浴びる者となったのです。それは神から隠れる生活から、神との関係を回復された生活に戻る瞬間でもあるのです。神との回復。人間との回復。自分自身への回復。そのことを覚えたいものです。

すべての人の心をごぞんじである主

箴言18:18、使徒言行録1:12 -26 

牧師 三輪地塩
 
 一つの言葉に注目してみたいと思います。それはギリシャ語の「デイ」という言葉。「ねばならない」という言葉が使われていることです。16節「ユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」。そして22節「いつも一緒にいた者の中から誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。この2箇所の「ねばならない」によって強調されるのは、聖書の必然の成就として、また神様の意志として起こった「ねばならない」であるということです。つまり主イエスがユダに裏切られたという悲劇的な出来事さえも、神の意志の中で捕えられ、神の計画の進展の中で考えられているということなのです。

 イスカリオテのユダが選ばれている事の中に神の計画と必然があります。主イエスに選ばれた者たちは、人間的な完璧さや、素晴らしさ、優れた資質などによって選ばれたのではありません。むしろ、それに全く価しない者たちを呼び寄せ、その者たちを愛し、赦すための十字架であったのです。ユダは弱い人間の代表者です。しかしキリストはこの弱いユダのために十字架にお掛かりになりました。十字架は、自らを滅ぼした彼の為にも聳え立つ神の愛であります。十字架の救いは、滅びる者の滅びを自ら引き受けて下さる神の愛です。救いに価しない者が救いに価することを告げる神の愛なのです。

 私たちが今、この教会に集っているのは、偶然ではなく、神の必然、神の「ねばならぬ」の中に生きているから集まるのです。たまたまそこに教会があったから入ったという神の必然。たまたま連れ合いがキリスト者だったから教会に来た、という「たまたま」という神の「必然」があるのです。私たちに起こるすべての事は神の必然の中で起こり、私たちは神の必然の中に生きている事を「信じる民」なのです。この12人の選びが、今現在ここに集う私たちへの選びであり、この12人を選んだ十字架の愛が、私たちに対しても同じく与えられる愛なのであります。神の愛に価しない者が愛される。集められるに相応しくない者が集められる。それが私たち自身に起こっている出来事なのであります。裏切り者のユダを選び、くじによってマティアを選んだ必然の神がここに居られる。そのことを今一度想起する時としたい、そのように思うものであります。

地の果てに至るまでわたしの証人となる

2010.5.9 使徒言行録1章6節-11節  三輪地塩牧師

 イエス様は私たちに「地の果てに至るまでわたしの証人になりなさい」と言い残して昇天されました。つまり主イエスは宣教の働きを私たちにお委ねになったのです。

 ともすれば教会の集まりは、古の指導者イエス・キリストをノスタルジックに懐かしむ行為となってしまうかもしれません。しかし礼拝はイエス様の記念会ではありません。礼拝は週毎にイースターを想起することの中にその本領があるのです。だからこそ天使が現れてこう言うのです。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのか」と。つまりイエス様の昇天をただポカンと見上げ、黙って懐かしんでしまいがちな私たちに対し「イエス・キリストの証人となりなさい」と我々を派遣するのです。

 もちろん私たちには賜物の違いがあります。体の動く人。動かない人。それぞれ出来ることと出来ないことがあります。しかし一人ひとりが信仰者として生かされ、赦されていることを実感しているならば、その生かされ赦された事実を背負って生きる事それ自体が主イエスの証人となることなのです。特別な伝道活動は必要です。それぞれの賜物を生かして宣教に励むことなくして教会は教会として立ちえません。しかし神様が、あなたのその動かないからだ、聞こえない耳、見えない目、弱る気持ち、そして心に渦巻く不信仰さえも用いて、イエス・キリストがあなたの中に生き、あなたを生かし、あなたを励ますならば、そのあなた自身が既にキリストの証人足りえるのだと主はおっしゃるのです。今あなたに出来る最良の仕方で、キリストの証人となろうではありませんか。

もし神がわたしたちの味方であるならば

2010.4.18  ローマ 8:31-39  牧師 中家 誠
 
 ローマの信徒への手紙8:31-39は、同書の中のクライマックスの部分と言える。福音の核心(確信)を高らかに謳いあげたものである。

 ここには、「神がわたしたちの味方である」と告げられている。

 その確証の第一のものは、神が御子(独り子)イエス・キリストをわたしたちに賜ったことである(ヨハネ福音書3:16参照)。かけがえのない「独り子」をさえ、惜しまないでお与えくださったことが、ここに告げられている。

 その確証の第二は、死んで復活されたキリストが、神のもとで「とりなし」てくださることである。それは聖霊のとりなし(26節)でもある。神のご存在も、そのみ心も、容易に受入れられないわたしたちのために、人の心の中にまで入って来て、とりなしてくださるのが霊なる神の働きなのである。

 第三に、キリストを信じ受入れた者の中に働く神の力である。この世の中に働く患難や危難にも打ち勝つ力が与えられるのである。

 この世には、人をおびやかす様々の力が働いているが、それらに打ち勝ってあまりある勝利が神から与えられてくる。これが、神から与えられる愛の力である。

 神は創造者なる方であるから、「死も生も、天使も支配者も、その他どんな被造物にも」打ち勝つことができる御方なのである。