使徒言行録19章8節-20節 『スケワの七人の息子たち』 

使徒言行録19章8節-20節 『スケワの七人の息子たち』 2011年4月10日

 パウロはエフェソの会堂で、2年3ヶ月に亘って宣教を行ないました。相変わらず多くのユダヤ人たちは、頑なにキリストを信じようとはせず、結果として長い間ここに留まることになったのです。9節に「ティラノという人の講堂で毎日論じていた」とありますが、ティラノという人が、この講堂の所有者であったのか、それとも毎日議論の中心になっていた人物であったのかはっきりいたしません。とにかく侃々諤々やりあっていたというのです。しかしそのようなやり合いが、かえって主の言葉を長いことこの町で語らせることとなりました。このティラノという人の講堂で毎日論じることがなければ、より多くの人たちを回心に導くことはなかっただろうと思います。時にはこの議論が不毛なもので終わる事もあったでしょう。喧嘩腰になることもあったでしょう。時には身の危険すら覚えるほどの激しさもあったことでしょう。しかし結果としてそれらの議論の末に、「ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、誰もが主の言葉を聴くことになった」というのです。結果として2年3ヶ月という長きに亘ってエフェソで宣教することになりました。巡回伝道者のパウロとしてはかなり異例の長さであったわけです。

 さて、今日の箇所の中で、大変面白いと感じるところが二つございます。まず一つ目ですが、11節、「神はパウロの手を通して目覚しい奇跡を行なわれた。彼が身につけていた手拭いや前掛けを持っていって病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった。」とこのようあります。この箇所は肯定的に書かれているものとして読むことができます。つまり、神様はパウロの手を通して、彼の身につけていたものでさえも癒しの道具としてお用いになられた、ということです。しかし一方で、これを否定的な内容として読む事もできるわけです。無教会の神学者で高橋三郎という先生が折られますが、彼はこの箇所について次のように言っております。「パウロにも、ペトロと同様の奇跡の力が与えられていたということをここで語ろうとしていたのであろうが、その身につけていた手拭いや前掛けに奇跡的癒しの能力が乗り移ったことになると、聖霊の働きやパウロの祈りとは全く無関係に、癒しが行なわれたことになる。それはもはやキリスト信仰とは無関係な、呪術信仰の表明と言うほかない。ここには神の存在も、伝道者の祈りも参与しておらず、そういう意味での人格性が欠如していることを我々は見過ごすことは出来ない」。このように言っておりました。

 これを読んでみてなるほど、と思ったわけです。「鰯の頭も信心から」ということわざもありますように、鰯の頭のようなどんな取るに足らぬものであっても、信じる思いさえあれば、何でも神様のようにありがたく感じてしまうものだ、という揶揄的な意味が込められたことわざであります。ここでパウロの手拭や前掛けは、あたかも鰯の頭のように、パウロの手を離れ、何よりも神の手を離れているにも関わらず、人々に何らかの癒しの力を行使した、というのです。

 私たちは殊更に魔術的な信仰や、迷信、まじない、占いの類の物を、まったく信仰とは別のものとして忌み嫌い排除してきたと思います。確かに旧約の律法の中にもそのことは書かれております。申命記18章には「あなたがたは、異教の習慣を見習ってはならない。娘息子に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。~主はこれらの者をあなたの前から追い払われるであろう」。と書かれております。また、レビ記20章27節には「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを意志で打ち殺せ。彼らの行為は死罪にあたる」とあり、これは申命記の文言よりも、より厳しい口調になっているのです。つまり旧約において魔術や占いやその類のものは、厳罰に処されて、時には生かしておいてはならない、というほど厳格な対処を求められていたということが分かります。

 しかし私たちは、今日の箇所を見る限りにおいて、魔術的な行為に対して、懐深く捉えているようにも思えます。使徒言行録をずっと読んできましたけれども、これまで見てきたように、例えば8章では、フィリポがサマリアの魔術師シモンと対決しておりますし、13章でパウロはバルイエスという魔術師と対決しています。しかしこの両方とも、単に魔術師を処刑したとか、追放した、という結末を迎えているわけではないのです。8章のバルイエスは、自ら魔術を捨てて洗礼を受ける者となりました。13章のバルイエスの場合は、一時目を見えなくさせられましたが、「時が来るまで日の光を見ないだろう」と13章11節で宣言されております。つまり、時が来て、回心のときを迎えたら日の光を再び見ることになるだろう、という予告の言葉と共に、バルイエスとの対決を締めくくっています。

 つまり使徒言行録の中で考えられているのは、魔術とか、占い、という迷信的なものを、積極的に推奨することはありえないとしても、しかし「鰯の頭」を信じるほどの、小さな信仰がある場合、そのような小さな信じる思いを神様は無駄にされない、という事が言えるのではないかと思うのです。もちろんパウロの手拭や前掛けなどのような物は、単なる無機質であり、人格的な物ではないし、それ自体が何をしてくれるわけではないにせよ、そのような取るに足りないものを通してでも、神様は苦しむ病人の癒しのために働いてくださる、という事が言えるのではないかと思うのです。

 しかし、それとは全く正反対のことも言われております。ここに出てくるスケワの七人の息子たちは、単に主イエスの名を濫用した、癒しの真似事をしているに過ぎません。そこに信仰があるわけではありませんでした。「試みに、主イエスの名を唱えて」という言葉が示していますように、「試しに、イエスの名前を使ってみた」という程度の軽率なものであったのです。私たちは十戒の中で「主の名をみだりに唱えてはならない」という文言を知っていますが、まさにこの言葉に抵触しこれを無視するかのような、主の名の濫用であるのです。

 この七人がどういう人たちであったのかは分かりません。父親が祭司長である、という事から、かなり恵まれた生活をしていたでしょう。また
宗教的にも、祭司長の息子、というだけで、一目置かれた存在となっていたのかもしれません。ですから何をしても怒られない。何をしてもやりたい放題であったのかもしれません。このような彼らのよこしまな考えに対してどのような結末を迎えているのでしょうか。これが今日の箇所の面白いところなのですが、ここで悪霊自身が「イエスとパウロを知っている」と言っております。そしてスケワの7人が「偽者である」ことを突き止めて、彼に怪我を負わせ、追い払ったのであります。「悪霊が」イエスやパウロの偽者を暴き、追い出す。これは大変面白いところです。言ってみれば悪霊たちは、これまで何度もイエスに追い出されてきた者たちであります。マタイ8章28節以下、マルコ9章14節以下、などに書かれているとおり、悪霊がイエスの名によって追い払われてきたことがあらゆる箇所に書かれております。しかしここでは反対なのです。悪霊が、この七人に対して「お前たちはイエスではないのに、イエスを名乗っている不届き者だ」と言わんばかりに、彼らを追い払っているのです。まるで悪霊が「私はイエスの権威以外に従うつもりはない」と宣言しているようでもあります。
 
 先ほどの手拭と前掛けにありがたさを感じた事柄と比較してみてどうでしょうか。勿論「鰯の頭も~」という考えもありますし、神様はそのことで神の力を感じることが出来るなら、ということでおおらかに、懐深く捉えてくださっているのかもしれません。しかしそれは実体不在の信仰でしかないのであります。悪霊にでさえも分かってしまうほどの眉唾ものでしかないのです。つまり私たちは信じる神は、実体の伴った、神それ自体が、根拠になっている神なのである。確かに占いや、魔術などによって、心が晴れやかになる人も中には存在するかもしれません。しかしイエス・キリストを知る我々は、イエス・キリスト不在のところに真の救いが存在することはない、ということを知っているのです。「私はある」という方が、そこにおられるとき、初めて「神我らと共にいまし給う」のであります。「私はある」と自己開示なさる神がおられないとき、そこには鰯の頭はあったとしても、神ご自身と、神の決定的な救いはそこに存在しないのであります。私たちは神の「ような方」を信じるのではなく、又、聖者が使ったとされる
「由緒正しき着物」を信じているのではありません。神を信じているのです。神が我々の近くにおられることを信じるのです。

 この箇所の最後は全く劇的な終わり方をしています。18節以下です。「信仰に入った大勢の人が着て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨5万枚にもなった」このようにあります。魔術を行っていた者たちが、真の神に立ち返ったというのです。神のようなもの、神として信じてきた神ではないものを捨てて、それが実体のない、神不在の魔術であったことを告白して、神のもとに集まってきたのです。そして彼らが持っていた本、を全て焼き捨てました。彼ら魔術師にとって魔術の本は最も必要とされてきたものであったことでしょう。これらの本にはあらゆる魔術について書かれていたのでしょう。その筋では相当な価値のあるものだったと思います。銀貨5万枚というのは、5万デナリオンと同じです。つまり一人の労働者が5万日かかって稼ぐ賃金、137年分の労働賃金に匹敵するほどの大金であります。しかし今や、イエス・キリストの前に、その魔術本の価値はなくなった。5万日分の労働賃金に匹敵するほどの魔術書よりも、イエス・キリストへの信仰、キリストと共に生きようとする告白が何よりも価値があると、皆がその道を歩み始めたということであります。魔術書は、言ってみれば、魔術師たちにとって彼らの生活を支えていたものであります。彼らの生活、それまでの人生、彼らの生業であり、彼らのそれまでの生涯に亘って最も大切であると考えてきたものであります。しかし今や、キリストの前に、その価値はなくなった。新しい生命を与えられて、新しい歩みを示されて、新しい価値を受け継いで、彼らは歩み始めたのであります。この恵みが、その価値の転換が、私たちにも与えられているのです。復活祭に向けて歩む私たちです。新しい命。キリストに示された命に向かって歩もうではありませんか。

使徒言行録17章16節-34節 『神はどのようなお方なのか』

 使徒言行録17章16節-34節 『神はどのようなお方なのか』 2011年3月20日

 原子物理学に触れてこなかった文系の私は、「ゲンパツ」という言葉は知って居ましたが、全く自分の範疇外の学問として考えてきました。しかし皮肉なことに、このような私でさえ、電力会社のホームページにアクセスしてみたり、本を読んだりして、その情報を知らざるを得ない状況にさせられています。核分裂、臨界、制御棒、濃縮ウラン、プルサーマル、MOX燃料。取り立てて気にかけることのなかったこれらの用語の「概要だけ」は分かるようになってしまいました。
 しかし一人のキリスト者として、また牧師として、この今のような危機的状況を、どのように神学的に捉えることが出来るのか。また、これをどう理解し、ここから神の何たるかを知り、御言葉をどう聞きうるのか。それが先週一週間の私のテーマでありました。

 大地震によって津波が起こり、目を覆いたくなるような悲惨な出来事と共に、放射線の恐怖に私たちが怯えるとき、私たちは何を考えるでしょうか。「どこの電力会社が悪い」「政府の対応が悪い」と、特定の企業や集団、あるいは政治体制に対して苛立ちをぶつけてしまうと思うのです。しかし事柄はそんなに単純ではありません。一方から見ると、一方は正しく見え、逆の光を当てると、それが正しいようにも見えてしまう。何が正しくて、何が間違っているかの判断は、私たち人間にとって最も困難な事柄の一つであるのです。

 人間は、人間にコントロールしきれないものに手を出してしまった結果が今の状況を生み出している。これが率直な思いです。私たち人類は、人類に出来ない事は何もないと豪語し、制御出来ないものを制御できると思い込んでしまってきたのです。それは私たちのエゴです。人間はもはや、人間を越えてあたかも神の領域に手を出す権威を持っているかのように、そのエネルギーに手を出し、制御不能になることなど考えもせず、人間が人間としての限界を越えようとした結果、そこに疑問を持たずに、単に科学的な事として理解し、神の被造性と神の秩序の問題として考えてこなかった結果が、この事故なのではないかと思うのです。

 これらのことを通して、今日の箇所に向かい合いましょう。
 今日与えられた箇所は、使徒パウロが、アテネという学問の都市で宣教活動をした結果、みんなからあざ笑われ、相手にされなかった、という話です。皆さんはこの箇所をどう読むでしょうか。平和なとき、私たちは、この箇所を、単なる「パウロの失敗」として読むのではないでしょうか。パウロも伝道に失敗することがあるのか。猿も木から落ちるとはよく言ったものだと、そんなのんきな事を考えながら、今日の箇所を読むと思うのです。

 しかし今、多くの被害者を出し、危機的な現状の中にある私たちに、この箇所が与えられました。パウロの言葉をあざ笑ったアテネの哲学者たち。それでも懸命に「神とはどのような方であるのか」を熱心に伝えようとしたパウロがここにいるのです。

 ここに出てくるのはエピクロス派、ストア派の哲学者たちです。この「哲学」は、私たちの良く知る、「デカンショー」の「西洋哲学」とは違います。それは学問の一分野としての哲学です。しかし古代ギリシャにおいて「学問」は哲学しかありませんでした。文学も医学も天体観測や数学も芸術も、哲学のカテゴリーに含まれていました。その最高峰であったのが「アテネの哲学者たち」です。さながら、ハーバードやオックスフォード、ケンブリッジの学者たち、スタンフォードの科学者たちが、アテネに終結しているようなものであります。まさに世界の学問の中心地、それがアテネでした。

 パウロはこのアテネに来て、神の事を伝えるのです。哲学者たちの反応は様々でありました。「このおしゃべりは何が言いたいのか」「彼は外国の神を宣伝する者らしい」などと噂しました。パウロの評判は上々であったと考えて良いでしょう。最初からあざ笑っていたのではなく、強い興味関心を引いているのです。さすがに学問の最高峰アテネの有識者たち、と言った印象を受けます。彼らの学問に対する飽くなき追及心が伺えます。彼らはパウロを「アレオパゴス」という会議場に連れて行き、ここで神の事を聞かせてくれというのです。とても低姿勢であります。教えを乞う姿勢が見られます。それほど彼らは純粋に学問を求めていたのでしょう。

 そこでパウロは語ります。アレオパゴスの真ん中に立ち「アテネの皆さん~」と語りだすのです。「アテネを散策していると『知られざる神に』と刻まれた祭壇を見つけました。私はその「知られざる神」をあなた方に伝えに来たのです。その神は、世界と万物をお造りになった方で、人間の手で造った神殿などに住むことはありません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのは、この神なのです」‘。このように、神とはどのような方であるのかについて力強く語るのです。

 祭壇に刻まれた「知られざる神に」という言葉は印象的です。「知られざる神に」それは言い方を変えれば、人間は神を知らない、ということにもなります。 そこで思うのは、今の世の中です。私たちは、本当の神を知っている世界に生きているのでしょうか。むしろ、このアテネのように、「知られざる神」の存在は知っているけれども、どんな神かは知らないし、知ろうともしない、そのような世の中に生きているのではないかと思うのです。

 言い方を変えましょう。「神の見えざる手」を信じる市場経済は、それがイエス・キリストの父なる神であろうと、別な違う神であろうと、どうでもよいのです。「神の見えざる手」という言葉に示された神は、経済活動にとっては「知られざる神」で十分だからです。つまり誰でも良い。どのような神であっても良い。それが需要と供給を安定させ、商品価格を適正に保たせるならば、それが「見えざる手」であっても「知られざる神」であっても、どちらでも良いからです。

 市場経済において各個人が自分の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方、アダム・スミスは「国富論」の中で実は一度しか使っていないこの >「神の見えざる手」という言葉が、独り歩きしてしまい、これが市場原理の神の姿として、認識されてしまったのです。私たちはこの市場経済・資本主義経済の中で、たくさんの需要に対して、たくさんの供給を求めようとします。人間が欲するところに欲するだけの商品を作り出そうとするのです。それが社会全体の利益であると信じているからです。欲しい人がいるのに、品物が不足することをビジネス用語では、「チャンスロス」と言うそうです。逆に、「欲しい」人のところに「欲しい物」があることを「チャンスゲイン」と言うそうです。利益を上げるために、チャンスを生かし、チャンスゲインをしていき、多くの利幅を得ていく。決してそれは悪いことではないのですが、しかしひとたび今起きている出来事に目を向けるならば、電気の需要に対して、あらゆる手段を使って電気の需要を満たし、チャンスロスの無いように無いように、と発電を追い求めていった結果、辿り着いたのが、効率よく、巨大な発電力が得られる、利幅が取れる、原子力という制御不能なエネルギーであった、ということでありましょう。「神の見えざる手」つまり「知られざる神」を知ろうとせずに、「知られざる神」がどんな神であろうと関心をもたず、神への無関心と人間の過信の延長線上に起きた出来事。それが人間のコントロールしきれないものであることをどこかで知っていたとしても、需要と供給という知られざる神にばかり目を向け、その代償しての悪魔のような危険をぼやかしにしてしまった。その結果を、私たちは今、目の前で見せ付けられているのではないでしょうか。
 
 パウロはこの「知られざる神」がどのようなお方であるかを克明に語ります。「神は、世界と万物をお造りになった方で、人間の手で造った神殿などに住むことはありません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのは、この神なのだ」と。「すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのが、この神である」のです。すべての人に命を息とその他すべてのものを与えるのは、市場経済でもなければ、核分裂でもないのです。ただ全能の神、創造者としての神のみなのです。創造主と被造物の関係があるだけなのです。私たちはそれを等閑(なおざり)にしてはなりません。被造物は、創造者を制御できず、コントロールするのは神の側であり、我々は自らが神であるかのように、振る舞うことなど許されないのです。この時代、神に対する慎みと、謙虚さが欠如しているならば、私たちは今すぐ神に向き直って、新たに生き直さねばなりません。

 「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆、悔い改めるようにと、命じておられます」。この言葉は、今の私たちに対して、本当に突き刺さるような言葉であります。この無知な時代を大目に見てくれた、だから悔い改めなさいと聖書は言うのです。

 そしてパウロは、この哲学者たちに「キリストの復活」を伝えます。それは命の根源が、どこにあるかを伝える、究極的な神の使信、神のメッセージでありました。けれども彼らの反応は「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のです。

 彼らはキリストの復活を拒否しました。「知られざる神」に対しては興味を持っていた彼らが、復活という人間の為し得ない出来事、人間の不可能性の中に神がおられることを伝えると、人々はあざ笑い、立ち去ったのです。復活は、究極の神の業です。しかし信じないものにとっては、神話でしかないのかもしれません。けれどもこの神には不可能はないのです。人間には不可能でも神には可能なのです。哲学者たちは、自分の想像できる領域が神の領域であると信じていたのでしょう。それは、すべてを人間が制御し、人間に出来ないことはないと、心のどこかで信じている、現代人の姿がダブって見えるようです。

 さあ私たちは、今こそ、真の神に立ち帰るときであります。本当の神を見出し、知られざる神が、どのような神であるのかを、知る時であります。信仰は、神を知ってから入るものではなく、知ろうとしたときに既に信仰の内側に入っているのです。

 今日の箇所に、一筋の希望が見られます。それはアテネの議員ディオニシオとダマリスという夫人が、信仰に入った、という最後の小さな一節です。しかしこの小さな一節は、信じる者が与えられるという意味で大きな一節なのです。議員ディオニシオは、男性であり、裕福な社会的ステイタスを持った人物でした。ダマリスは、女性で、取り立てて裕福でなかったし、社会的な地位を持っていたとも考えられません。しかしこの正反対の者たちが、たったの二人だけれども、イエス・キリストの福音に聞き、復活を信じ、新たな希望に生きることが出来たのは、この箇所にとって、そして今、危機の中を過ごす私たちにとって、大きな希望となります。神はどのような神か。それを知ることによって人間は、真の人間として、被造物として、謙虚に、慎み深く、しかし大いなる希望の中を生きることが出来るのです。神を知りましょう。そして信じましょう。

使徒言行録16章16節-40節 「あなたも家族も救われます」

 使徒言行録16章16節-40節 「あなたも家族も救われます」

 私たちは、自由を求め、自由を謳歌し、自由である事を人生の一つの目的としています。行きたいところへ行き、好きな事をし、選びたいことを自分の意志で決める。学問の自由、職業選択の自由、思想・信教の自由。私たちの生きるこの日本社会は、そのような自由が与えられているのです。
 「自由」という言葉を考えるとき、思い出すのは「Arbeit macht Frei」(アルバイト・マハト・フライ)という言葉です。アウシュビッツの入り口に掲げられた標語で「働けば自由になる」という意味であります。収容所に収監されたユダヤ人たちが、この言葉を信じて働き続けたわけです。けれども、この標語が大嘘であった事を歴史は証明しています。しかしながら、この「働けば自由になれる」という言葉は、戦後65年以上経った今も、時代を越え、国を越えて、私たちの心に深く突き刺さる言葉となっています。

 戦後私たちの国は、民主主義体制となり、著しい経済成長と共に、国民はこれを慶び、人生をより良きものとして謳歌してきたのです。しかしその果てにもたらされた、市場原理主義、新自由主義経済が、私たちの求める本当の自由の姿であったのかという疑問が、頭をもたげてきました。それによって「働けば自由になれる」という言葉は、決して過去の遺物ではなく、現代社会に空しく響き渡る言葉として迫ってくるのです。働いても自由を得られない者たち、ワーキングプアについての現状を、毎日のように耳にするこのご時勢です。自由競争に耐えうるものがより強くなっていき、弱い者は更に弱くなっていく。それが格差を生み、一握りの成功者と、その成功の陰で日々の糧にありつけない多くの労働者たちが存在する。それが自由の目指す最終的な姿であるならば、それはもはや、本来の喜ばしい自由の形ではありません。それは、私たちの生きる世界が、自由を求める私たちに完全な自由を与えてくれない世界である、ということ。競争原理に生きるということは、成績を求められるということ。そこには既に自由は存在しないのかもしれません。

 今日の箇所で私たちは「自由」の本質を問われます。キリスト者にとって自由とは何かであります。フィリピの町に滞在していたパウロとシラスは「占いの霊に取り付かれている女奴隷」に出会います。この占い師は主人たちに多くの利益を得させていました。しかしパウロはこの女奴隷が悪霊に取り付かれているため占いを行なっていることを察知し、「この女から出て行け」という言葉と共に悪霊を追い出し、この女性の本来の姿を回復させたのであります。

 しかし彼女の主人たちは怒ります。彼女は占いが出来なくなったからです。主人たちはパウロとシラスを広場へ連れて行き、鞭で打ち、牢に投げ込みました。女奴隷の主人たちが何ゆえにパウロたちを捕らえさせたのでしょうか。それは女奴隷が利益を出さなくなったからです。彼女から利益を得ていた主人たちは「良い占い師として稼いでいたのに、その力を奪うとは何事か」と憤慨したのです。そして「金儲けの望みがなくなってしまった事を知った直後に」パウロたちは囚われてしまうのです。それはまるで、この世の中が最も必要としている事柄が、御言葉ではなく利潤であると言っているかのようであります。この女奴隷は神の御言葉によって主イエスの名によって救われました。悪霊に取り付かれていた彼女は、本来の姿を取り戻したのです。しかし御言葉ではなく利益。キリストによる世界ではなく経済による世界を求めている人間の姿を示されます。

 パウロとシラスは衣服を剥ぎ取られ、何度も鞭打ちを受けたのち捕らえたのです。彼らには厳重な監視がつきました。足枷をはめられ、身柄を拘束されたのです。しかしこの時自由を奪われていたのは誰であったのか。その事が次の瞬間明らかとなるのです。

 その夜、突然大地震が起こり、牢が揺れ動き、扉が開き、全ての囚人の鎖が外れてしまうのです。看守は目を覚まし、牢の扉が開いているのを見て恐れます。彼らは恐れたのです。それは扉が開いた事実への恐れ、神の業への恐れではなく、囚人を逃してしまったことの故に、これから自分の身に何が起こるか分かっているが故の恐れであります。すなわち彼らは自害しなければならなかったのです。それがローマ法によって統治された国と、看守たちのルールであったのです。彼らはローマ法を遵守せねばならなりませんでした。決して彼らが望んだものではありませんでしたが、彼らにとってローマ法は絶対でありました。そしてやむなく剣を抜き、自害を決心するのです。

 しかし彼らのもとに、パウロとシラスが帰ってきたのです。この出来事を我々はどう読めばよいのでしょうか。彼らは自由の身になっていたのです。もう鉄格子から離れ、手枷足枷を外されてその場所から逃れることが出来たのです。鞭打ちの刑は、子どもの教育としてされていたものとは全く違い、酷い時はショックにより命を落としさえいたします。パウロとシラスが収監されていたということは、死が目前に迫っていたことを示すのです。しかし彼らは戻ってきたのです。我々はこの彼らの行いを何と見るでしょうか。馬鹿な事だと責めるでしょうか。お人好しの行為として呆れ返るのでしょうか。しかし私たちはここに信仰者の自由の何たるかを見ることが出来ると思うのです。もう一度捕まることによって、どんなことになるかを彼らは良く知っていたはずです。もう一度鞭で打たれ、その痛みに耐え切れずに、命を落としてしまうかもしれない。あるいは過酷な条件の下で、餓死をするか、病気に掛かって獄死をするか、いずれかであったことでしょう。彼らは自由でした。しかしその自由を用いて看守のもとに戻ってきたのです。

 それは彼らが本当の「信仰における自由」を持っていたからであります。彼らにとって、否、私たちキリスト者にとって「自由」とは、この身を自分の思い通りに用いるだけではなく、また好きな事を選べる権利があるというだけではなない。私たちは、世の中自体が囚われている巨大権力や、国家体制などから自由であり、病気や体の痛みから自由であり、死からも自由の身となるのであります。
 ここに主イエスの十字架を見ることが出来ます。主イエスは神の御子故に、また神の御子という自由の中で十字架をお受けになりました。それは神から与
えられた、何人(なんぴと)にも左右されずに神の御心を問い続けがゆえに、十字架を選び、苦しみの道を選んだのであり、それが神の求めた道であったのです。それが主イエスの自由な選択の故に行なわれたのでありました。

 マルティン・ルターの「キリスト者の自由」という本の中で彼はこう言います。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。」(マルティン・ルター「キリスト者の自由、第1」より)
 彼らは、大地震が来る前から既にキリストによって自由でありました。それは「真夜中の讃美」が物語っております。投獄された人の最期は痛みと苦しみに耐えるものであります。しかしパウロとシラスは「真夜中ごろ、讃美の歌を歌っていた。他の囚人もこれに聞き入っていた」というのです。およそ繋がれた者でないかのように、喜びに溢れているではありませんか。しかしこれがキリスト者の自由なのであります。

 ウィリアム・。ウィリモンという説教者の中で、次のような話が紹介されていました。アンゴラの教会の司教の話しです。アンゴラは社会主義国家であり、教会が立っていくのは容易ではありません。しかしエミリオ・デ・カルバリョというこの司教は次のように言っているのです。「社会主義政府は教会に協力的ではありません。けれども私たちは政府に対して、教会に協力する事を求めていません。ついこの間、教会内の女性組織を全て解体するようにとの法律を政府は制定しました。それでも女性たちは集会を続けました。政府がもし今より強硬に女性集会の解体を求めてきても、私たちは集会を続けるでしょう。政府は成すべき事を成す。教会もまた、成すべき事をなすのです。もしも私たちが教会であり続けるために牢屋送りとなるなら、牢屋にも行くでしょう。多くの者たちが投獄されることになったあの革命の期間。我々の教会は実に大きな収穫を得ました。牢はたくさん人の集まってくる場所です。説教し、教える時間があります。あの革命の期間、確かに20名の教会の牧師が殺されましたが、我々が牢を出たとき、人数も力も、それまでよりもずっと豊かな教会になっていたのです」。このようなお話でした。

 ルターも言います。「人間の肉体が、病みつかれ、飢え渇き、悩み苦しんでいるとしても、このことが魂に何の損失をもたらすだろうか。無条件に神の恵みを信じた者は、その信仰から神への愛と喜びとが溢れ出て、また愛から価なしに隣人に奉仕する、自由な、自発的な、喜びに満ちた生活が出発することだろう。魂は清められ、罪は払拭される。そこにはキリスト教的自由があり、あたかも天が高く地を超えているように、高くあらゆる他の自由にまさっている自由が存在するのである」と。

 看守たちはパウロとシラスの牢獄の鍵をもっていました。しかし独房の鍵を持つことが自由なのではないのです。鍵を持つことに怯え、たった一度の粗相によって自害を強要されている以上、彼らは自由ではないのです。自分たちは自由であると誇り高く語っていた人々は、実はローマ皇帝に支配され、虐げられ、巨大な国家権力に隷属していた者たちなのです。実際彼らは自由ではありませんでした。彼らは、ローマ帝国と、ローマ法に縛られ、皇帝の機嫌を伺い、高官たちの目に怯えながら、皮肉にも「ローマの自由市民」という名の下に生きていたのであります。看守の命は、ローマ帝国の手中にありました。生きるのも死ぬのも、全てはローマのため、お国のため、上官たちのためであったのです。

 パウロとシラスが戻ってきたことによって、看守たちは真の自由の存在に気付きました。自分を解放し、救いに導く真実な方の存在が示されたのです。救われなかった看守たちは、パウロに尋ねます。「救われるにはどうすべきでしょうか」。彼らは答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
 彼らは洗礼を受けました。つまりここで聖書は、自由だと思われていた者たち――女奴隷の主人、高官、看守など――の人たちこそが奴隷であり、最初に奴隷だと思われていた者たち――女奴隷、パウロとシラスたち――が自由なのであることが示されるのです。囚われた者は囚われておらず、囚えた者たちが囚われていたのです。

 「Arbeit macht Frei」(アルバイト・マハト・フライ)。この言葉は、現代社会に生きる私たちに、様々な形をとって迫ってくる言葉です。「働けば自由になる」「勉強すれば自由になる」「利益を上げれば自由になる」「市場原理に従えば自由になる」「新自由主義は真の自由である」「それによって出世すればもっと自由になる」と。

 しかしこれらは、何かに縛られた自由であり、他者の牢の鍵を預かっている自由に過ぎません。民衆の言葉に同調し、他者を鞭で打ち続け、見張り番をし、ローマに忠誠を誓う自由に過ぎないのです。聖書は私たちに、如何にすれば真の救いを得、真の自由を得ることが出来るかをこの箇所で示されるのです。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。看守たちは洗礼を受けて真の神の自由を得たのです。そして私たちも、同じように問われています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」

使徒言行録15章1節-35節 『エルサレムでの使徒会議』

使徒言行録15章1節-35節 『エルサレムでの使徒会議』 2011年2月6日

 今日の箇所は、突然場面が展開しています。これまでのような、宣教活動に成功してきた喜びに溢れた場面から、突如「ある人々」と呼ばれる人たちが乗り込んでくるのです。それは、律法を厳格に守るユダヤ人たちが、パウロのアンティオキア教会に乗り込んできて「律法を厳守せよ、割礼を受けないと救われない」と教えたということです。アンティオキア教会は異邦人の教会でしたから、割礼を受けた人はおりませんでした。ですから「割礼を受けなければ救われない」という教えは、彼らにとっては信仰の根本を揺るがせる事柄でした。割礼を受けていない者は救われないのだろうか。このことに関して、パウロたちとユダヤ人たちは激しい論争となりました。「割礼は必要ない、いや必要だ」という言い争いであったと思います。このユダヤ人たちは、ユダヤ教徒ではなく、キリストを信じる信仰者です。しかしキリストがユダヤにルーツを持ち割礼を受けていたのならば、当然キリスト者もユダヤ人となるべきである、そのための割礼なのだ。それが彼らの主張だったと思います。
 しかしパウロたちはこれに納得いくはずもありません。使徒言行録10章では、ローマ軍の百人隊長コルネリウスが既に割礼無しで信仰者になっています。その後、キプロスの総督が改宗し、イコニオンやリストラでも、多くの異邦人改宗者を得たわけです。キリストを信じることによって全ての者がキリスト者となるのだ、これがパウロの見解でした。

 この疑問を晴らすために、パウロとバルナバたちは、キリスト教会の総本山であるエルサレム教会まで出向き、その真意を探りに乗り込んで行きました。エルサレム教会に着いた彼らは、歓迎される一方でファリサイ思想を持つ者たちから「割礼を強要すべきだ」という意見を聞かされたのです。ここでエルサレム教会のペトロが立ちあがり、異邦人にも聖霊がくだり、彼らは割礼の徴ではなく、心の信仰が認められたことを全会衆に向かって証言しました。そこでバルナバとパウロが立ち上がり、自分たちを通して神が異邦人をどのように救われたのかについて話したのです(12節)。

 これに対して、教会の代表者であったヤコブが答えて19節でこう言います。「それで私はこう判断します。神に立ち返る異邦人を悩ませてはなりません」。この言葉は割礼なしでもキリスト教信徒であり、神の救いに預かる確証を得る、という事を示します。その後パウロたちがアンティオキアに帰るのに伴ない、エルサレム教会の指導者たちを同行させました。彼らはアンティオキア教会で事の次第を説明しました。結果として異邦人教会はエルサレム教会に認められることとなり、その契機となったのがこの「使徒会議」であったのです。

 そして興味深いことに、この箇所は、福音書記者であるルカの視点から描いた使徒会議ですが、実はパウロの視点から書いた使徒会議が、ガラテヤ書2章1節以下に記されています。「それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任せられたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました」。パウロはこのように言っているわけです。使徒会議で決まったことは、ユダヤ人伝道と異邦人伝道とを区別して、それぞれの教会の地域性と特殊性に合わせた宣教を行なおうという話し合いの結果を得た、ということです。決してエルサレムとアンティオキアの教会が分裂し、相容れない関係として、それぞれ独立した組織となっていったのではなく、同じガラテヤ書2章9節で「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目される主だった人たちは、私とバルナバに、一致の徴として右手を差し出しました」とあるように、この時の会議の結論は、別々の働きを認めつつ「一致する」ことであったのです。キリストによる一致の中にあって、主のもとで別々の考え方を認め合うという結論なのです。
 彼らのこの会議の結果は、我々に多くの事を教えてくれます。全く別の考えの中にある兄弟姉妹たちが対峙したとき、教会は如何にしうるのでしょうか。如何にしてキリストを見上げて歩むことが出来るのだろうか。その答えを見るようです。

 そもそもこの話は「ある人々」と呼ばれるユダヤ人たちがやってくることから始まります。この人々は、保守的な考えを持ち、福音とはユダヤ人の伝統を守ることだと主張していたのです。エルサレム教会自体も、少なからずこのような考え方が正統的であると思っていたと思われます。ガラテヤ書では、パウロとペトロが割礼の考え方の違いで対立していることが出てくるぐらいです。しかしこれがエルサレム教会の考え方でした。保守主義のユダヤ的な考え方です。しかしユダヤ人たちが、異邦人の救いについて消極的なわけではありません。むしろ積極的に宣教の成果を喜んでいたことは明らかです。ギリシャ人もローマ人も同じく救われる、それはイエス・キリストの教えなのだ。地上の氏族が全て祝福に入ると創世記12章で神が宣言なさったアブラハム契約に、全ての人がこの神の預かることが出来るのだ、と考えていたのです。しかしどうして割礼という徴がないのに、その約束を得たと言い得るのだろうか。割礼は祝福への通行手形である。その徴は異邦人にも必要なのだ。こんな素晴らしい徴なのだからどうぞ割礼をお受けになって下さい。これがユダヤ人たちの考え方でした。もう一方で、彼らはこうも考えていたと思います。祝福と救いは、ユダヤ人だけに与えられた特権なのだから、異邦人であるあなたがたにそれを分けるためには、まずあなた方がユダヤ人にならねばならない。あなたが選ばれた民とならないことには、救いを受けることができないのだ。このように考えていた人たちもいたことでしょう。

 しかしこの考え方は、私たちキリスト者にも言えるように思います。つまり、私たちがこれまで行なってきた宣教は、自分たちのところに追いついてきた者たちだけがキリスト者になることが出来るのだ。という考え方であります。難しい本を読み、難しい教理を見につけ、聖書の箇所を暗誦し、毎週欠かさずに礼拝と祈祷会に参加し、理想的なキリスト者になった者が、救いを受ける資格を得るのだと。

 これまで西欧のキリスト教会は、植民地政策にのっとり、異文化圏の西欧化を進めてきました。つまり西欧的な考え方が神の御心であ
り、正義である、という考え方のもとで、世界宣教が行なわれてきたのです。アフリカも、東南アジアも、ラテンアメリカも、全てが西欧文化の生き写しの教会とならなければ教会ではありえない。このように考えて宣教してきたのです。

 しかし歴史には、その反動としての反ユダヤ主義もございます。ナチスドイツがユダヤ人を投獄し処罰する理由として「アーリア条項」というという考え方を政治的に広めました。それは、ユダヤ人の血を引く者は全ての重要ポストから排除し、アーリア民族であるドイツ国民だけが神の目に優越される民族であるという考え方です。しかしユダヤ主義も、反ユダヤ主義も、お互いの論理は全く同じです。つまり「こうでなければならない」という論理です。キリスト者とはこうでなければならない。信仰者とは、求道者とはこうであらねばならない。と、もしそのような考えを持ち込むのならば、アーリア条項と何ら変わらない論理の中で生きることとなってしまうでしょう。

 つまり、私たち信仰者が、信仰の本質とは異なる論理を持ち込もうとするならば、それは全く異質な信仰にすり替わってしまう事を忘れてはならないのです。私たちが信ずべき唯一つのことは、イエス・キリストの父なる神への信仰なのであって「信仰+割礼」であるとか、「信仰+道徳礼儀」「信仰+民族主義」というような信仰に付随する何者かがなければ信ずることができないとなった時、私たちは律法主義へ陥る危険を孕んでいることを忘れてはならないのです。

 しかしながら、今日の箇所では、パウロの側も、エルサレム教会の側も、両方が譲歩を引き出して、お互いの考えを歩み寄らせています。ユダヤ人たちは割礼の遵守を求めた。パウロたちは律法の如何なる箇条の遵守も拒否していた。しかし結果として与えられたのは、15章20節にあるような、「律法の中のでも特に『食物規定』だけは守るように」という事でお互いが歩み寄ったのです。それは教会が、新たな展開を見せた瞬間でもありました。ユダヤ人に対してはユダヤ人のように、ギリシャ人に対してはギリシャ人のように与えられる神の言葉を認めた、ということに他なりません。両者が、それぞれ頑なに守り続けようとし、執着したがるものから離れて、信仰の本質に迫った瞬間であったのです。そこには、いがみ合いや、憎しみ合いではなく、和合すること、お互いに主にあって共に生きる事の実践があるのです。つまり「教会は新しく変わりうるのだ」ということが示されたのです。

 私たちの教会は、信仰者同士で意見が分かれ、お互いの相違が明らかになり、意見の衝突が起こる時、その事実を隠したり、時には公然と批判しあってみたり、あるいは激怒して力ずくで押さえつけてみたりと、決定的な分裂の危機を迎えることが往々にして起こりえます。しかし言ってみれば、その対立意見のどちらも正しいのです。どちらも正論を持っているのです。お互いがお互いの言い分を持っているのです。ユダヤ人にはユダヤ人の生きてきた証としての律法の遵守があるのであり、パウロには異邦人宣教によって肌で感じてきた宣教の方法論があるのであり、どちらも自分が正しい、という正しさの中に生きているのであります。

 しかし教会は、それらに優劣をつけたり、どちらかが一方的に正しいと判断したり、一方を切り捨ててみたり、一方を完全に正しい、もう一方は完全な間違いであると見做したりすることは、福音の本質から言うと、それこそが間違いなのです。教会の目的は、人を断罪し、生き方の幅を狭めることではないのです。福音は、縛られている人を解放し
囚われている人を自由に導く神の言葉です。ルカ福音書4章18節で言われている通りです。教会が求めることは、その人にどう福音が届くのかに腐心し、心砕き、どのように提示していくことが可能なのか、ということ。神の働きとしての如何に宣教を行なうことが出来るのか。その事が求められているのであります。

 「一致する」という行為はそれ自体「ニュートラルな概念」であります。一致すること自体は何も良いことではありません。むしろ一致することで、いじめが起こるし、差別が起こるし、戦争も起こるのです。ですから「一致する」ということそれ自体は、特に良い事でも悪い事でもないのです。しかしひとたびキリストによって一致することが出来たならば、それは大きな力を得るのです。「一人よりも二人が良い、倒れたとき抱き起こしてくれる人は幸いである」と詩編で語られているように、共に生きる目的の中に、キリストが立ち給うのならば、そこには生きる意味があり、共に過ごす必要性があり、共同する可能性が広がるのであります。教会の中で、ユダヤ人が異邦人を認めず、異邦人がユダヤ人を認めないことがあるならば、そこには主の教会は立ち得ないのです。主の教会とは、ユダヤ人が異邦人を愛し、異邦人がユダヤ人を愛する教会であり、割礼の有無を認め合う教会であり、他者の他者性を尊重する教会であります。それがイエス・キリストをかしらとする教会なのです。

 先週私たちは、総会を開催し、様々な報告と、方針と、アイデアを出し合ったことと思います。そして今こうして、一人の新しい執事が、教会の奉仕者として選ばれております。どうかこの浦和教会という主の器が、真実の御言葉に立つ教会であるように。この器が、主に用いられて、真の福音の輝きを照らし出す教会であるようにと、心から願うものであります。 

使徒言行録13章42節-14章7節 『異邦人の光』

 使徒言行録13章42節-14章7節 『異邦人の光』 2011年1月23日

 反ユダヤ主義というものがあります。これは一般的には、ナチス・ドイツのプロパガンダとして使われた政治政策のように捉えられがちですが、しかしその起源は古く、既に中世ヨーロッパで起こっているようです。イスラム教の成立によって弾圧は強まり、十字軍によってキリスト教に迫害され、そして20世紀に入り、ユダヤ人たちは史上類を見ない受難のときを迎えることとなったわけであります。つまり大変に根の深い問題であるがゆえに、政治的プロパガンダとして悪用されやすかったのでありましょう。

 宗教改革者マルティン・ルターでさえも、反ユダヤ主義を標榜し「ユダヤ人とその虚偽について」というパンフレットまで発行しているぐらいであります。ヒトラーは、このルターの言葉を過大に用いて、反ユダヤ主義を正当化する証拠として使ったのであります。そしてあの忌まわしき600万人もの大虐殺という人類のなしうる最大の凶悪犯罪が起こったわけであります。

 では、聖書は何と言っているのか。私たちにはそれが一番の問題です。主イエスは、ユダヤ人でした。しかし敵対者たちもユダヤ人でした。同じユダヤの同胞たちから迫害を受け、十字架に掛けられたのです。祭司長も、律法学者も、ファリサイ派も、敵対する者たちすべてがユダヤ人であったのです。ですからユダヤ人はキリスト教徒の敵である。このような論調がまことしやかにささやかれるようになり、ユダヤ人を敵視する傾向が強まり、反ユダヤ主義が、聖書に基づく、正統的な考え方とされるようになったのであります。

 今日の箇所を読んでみましても、それを裏付けているかのような言葉が出てまいります。45節「しかし、ユダヤ人はこの群集を見て、ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」。そして50節「ところがユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」。14章2節「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」このようにあります。これら言葉は、反ユダヤ主義を助長させて余りある言葉ではないでしょうか。特に「ねたみ」「口汚いののしり」「扇動して」「迫害させ」「悪意を抱かせた」などのような言葉を並べますと、「イエスを十字架にかけよ」と口々に叫び続けたあのユダヤ人民衆たちを想起させるかのようであります。それに対してバルナバは「あなたは異邦人の光たれ、と主に言われたのだ」と言って、異邦人の救いのために働く事を宣言しております。ですから聖書はやはり反ユダヤ主義なのか、そのように考えてしまうかもしれません。

 しかし聖書は前後関係が大事です。文脈の中で読まず、新聞の切り貼りをするように読んでしまっては、肝心要の事に目を向けられなくなってしまいます。つまり、今日の箇所は、反ユダヤ主義的な言葉のように捉えられてしまうのですが、実はそうではないということです。神の寛大さと気前の良さに満ち溢れております。そのことに目を凝らしてみたいのです。

 今日の箇所は、パウロとバルナバの伝道旅行の話です。彼らの伝道は成功し、たくさんの改宗者を得ることが出来たようです。しかしそれをねたんだユダヤ人たちは、45節のように振舞ったのです。バルナバは46節でこう言います。「救いというのは、本当はユダヤ人のためにあったのだが、彼らはそれを拒否し、永遠の命を軽んじてしまった。だから私たちはユダヤ人への宣教を止めて、異邦人のところへ行く」と、このように宣言するのです。しかしこれに怒ったユダヤ人たちは、50節で反撃に出ます。町のおもだった人たちにデマを蒔いたのでしょう。彼らを扇動し、パウロとバルナバを迫害させたのでありました。このようなやり取りが中心となっているのが、今日の箇所でありますが、ここの前後を見てみたいのです。

 それは238ページ下の段、13章14節「パウロとバルナバは~そして安息日に会堂に入って」とあります。それからパウロは長い説教をするわけですが、その後、今日の箇所の13章44節で「次の安息日になると」とあります。これは1週間が経って次の週になってから、また次の安息日にパウロとバルナバは宣教を始めた、ということです。そして14章1節のイコニオンでも同じように「ユダヤ人の『会堂に入って』話をしたが~」とあるように、これら一連の話は、全てユダヤ人のユダヤ教の会堂、「シナゴーグ」で神の言葉が宣べ伝えられていたということを示しているのです。

 お分かりになりますでしょうか。先ほども言いましたが、この箇所は、見方によっては、あからさまな反ユダヤ主義を煽るように読めてしまいますし、これを契機に異邦人宣教へと舵を切って、新約聖書はユダヤ人たちと決別していったかのように読み取ることが出来てしまうのです。45節のユダヤ人の悪口、バルナバの言葉を読む限りにおいて、ユダヤ人たちは完全な敵対者であるかのように映ってしまうのです。 
 けれどもそうではない。反ユダヤ主義でいようとするならば、なぜ敢えて必ず「ユダヤ人の会堂で」宣べ伝えようとするのでしょうか。なぜ敢えてそれを続けようとするのでしょうか。一度ならずも、二度も三度も、神のみ言葉を拒否するあのユダヤ人たちの懐不覚に入り込んで、彼らに語らせるのでしょうか。それは、神が「彼らを招こう」とされているからであるのです。

 46節によると、ユダヤ人はもともと救われるはずでありました。旧約の預言者の時代から、彼らを救おう救おうとしてきたのです。しかし預言者を迫害し、神の言葉を軽んじ、預言者を痛い目に遭わせて、拒否し続けてきました。けれども彼らは、そうであっても愛された神の被造物であり、選ばれし神の民ということなのでありましょう。

 彼らは何度も拒否いたしました。究極的には、主イエス・キリストという神の啓示を「肉となった神の御言葉を」拒絶し、ののしり、悪口を浴びせ、最終的にはユダヤの法律にはない、最も残虐な方法である、十字架という処刑法を通して、神の言葉を抹消しようとしたのです。

 普通、人間同士の関係ならば、人間同士の契約関係、また企業や学校、医療機関などの
法人の契約関係ならば、もしそこまで拒否する人がいれば、簡単に契約は解除され、もう二度と関係を持つことはないかもしれません。万が一詫びを入れ、もう一度関係を結びましょうと打診されたとしても、今度は限りなく不平等な契約であったとしても、それを飲まねばならず、それは自分が拒否したことのツケであるのだ、と納得せざるを得ないところだと思うのです。

 しかし神は、私たちとの関係を断ち切らないで継続されるのです。神は寛大な神であり、気前の良過ぎる神であられるからです。このような拒否に拒否を重ねたユダヤ人たちであっても、神を拒否し続けたどのような者たちであっても、神は最終的に、その人を救いに招こうとされる神なのであります。

 あのペトロが、あなたを決して拒否しませんと豪語したすぐ後に「知らない、知らない、知らない」と三度言い放ったように。「キリストが本当に復活したのなら、証拠を見せろ」と息巻いたあのトマスのように。ニネべに行きなさいとの命令を無視し、タルシシュ行きの船に乗り込んだあのヨナのように。私たち自身も、神に背を向け、神のなさる業を否定し、神の計画を拒否することがあると思うのです。神から離れよう離れようとし、そこから逃げようとする心。もしそれがあったとするなら、私たちもまた、このユダヤ人と同じではないですか。あの、キリストに敵対した、ユダヤ人。神の計画に賛同せず、人となられた神の御言葉を消し去ろうとするあのユダヤ人こそが、私たちであるのです。

 けれども、今日の箇所が私たちに希望の光を見せています。なぜなら、このユダヤ人こそが、神に何度も何度も招かれ続けているからです。何度拒否しても、何度悪口をたたいても、この罪が決して消えないとしても、罪なき者と「見做して下さる」からです。この箇所は、私たちに、異邦人の光である神が、ユダヤ人の光でもあり、また私たちの光でもある事を教えてくださっています。13章39節に「信じる者は皆、この方によって義とされるからです」とあるように、私たちは一時も離れることなく、この神の愛に包まれて、歩もうではありませんか。

使徒言行録12章18節-24節 『神に栄光を帰す』 (新年礼拝)

 使徒言行録12章18節-24節 『神に栄光を帰す』 (新年礼拝) 2011年1月2日

 新しい年が明けました。今年もまた主の恵みを一身に受けて、御言葉によって導かれる日々を過ごしたい、そのように願っていることと思います。
 さて昨年2010年の日本は、GDPが世界第3位に後退したことが示すとおり、経済的な問題が浮き彫りにされた1年でした。不透明な経済情勢、とりわけ年間通しての異常な円高は、私たちの国が今後どうなっていくのかという不安感を煽り立てました。夏の猛暑は、私たちの健康を脅かすと同時に、不作を起こし、物価の高騰を招き、経済不況に追い討ちを掛けました。

 さらに「口蹄疫」の問題や、一昨年から流行した新型インフルエンザ、そして今後発生し流行するであろう、もっと強毒性のウィルスへの恐怖など、私たちの生活が脅かされたとき、国がどう対処するのだろうか、という不安感を募らせました。

 尖閣諸島の所有権問題。海上保安庁の船と中国の漁船の衝突事故と、映像の流出。。それから非核三原則を掲げながら、米国の核の傘に守られることの条約を秘密裏に結んでいた、という国民の知らない驚愕の事実。自衛隊の問題と、沖縄米軍基地の移設問題。これらは国家の安全保障上の問題でありました。

 このように、昨年は様々なことがありました。それは同時に、私たちには様々な問題や課題があることをも示しています。このような問題を解決するために、私たちはこの国がどう動いてくれるかに期待すると思います。景気の回復も、円高の解決も、安全保障や、広がりつつある凶悪犯罪に関しても、その解決を国家に委ね、国家に期待すると思います。医療に関しても、年金に関しても、戦争や、災害が起こったときも、私たちは国家に期待し、全能でさえあると思われるこの国家権力が、全てを解決できると感じると思うのです。
 国家と国家権力は、国民にとってあたかも全能の神のようであり、時には自分の命を投げ出してでも守り続けることを義務付ける教育を施し、国民の意思をコントロールし、自分自身の存在意義さえも、この国家との繋がりの中で見出すことさえあります。

 今日与えられた聖書箇所は、国家もしくは国家権力者が、神のようになり、神と同じ存在として、民衆に先立っている様子が記されております。ヘロデは「神の声だ。人間の声ではない」と民衆に叫び続けられたとあります。ここではヘロデが神として崇められている有頂天な様子が伺えます。

 ヘロデ王という人物は、権力的であり、独裁的であったようであります。12章1節以下には「そのころヘロデ王は、教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのをみて、更にペトロをも捕らえた」とあります。ヘロデは自らの考えに賛同しない者を投獄し、時には民衆の人気を得るために、世論を意識した行動にも出ております。ですから非常に政治的な人物であると言えるのです。単なる暴君ではなく、ある意味冷静に状況を判断し、大局的に物事を捉えながら、多数者の満足が満たされることを考えているし、民衆からの人気を得ることに力を注いでいる、と言う点において、彼は現代的に言っても優れた政治家なのであります。ユダヤ地方は小さな国でありますが、しかしこのヘロデの名声は天下に轟き、民衆の尊敬を集めていたのだと思われます。ヘロデの着ていた衣服は、神々しいばかりに光り輝き、それが印象的な彼の姿であった、と古い歴史家たちが伝えております。その神々しさ、光り輝く衣服によって、彼はあたかも神であるかのような崇拝を受けているのであります。

 ヘロデは当時のユダヤ地方を治めておりました。ユダヤはティルスとシドンに対して、食料を供給しておりました。ユダヤはこの二つの国に対して優勢な立場にあり、この国々はユダヤに頭の上がらない従属関係に近いものがあったと考えられます。

 ヘロデ王は何らかの理由で、このティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていることが記されています。何に憤慨していたのかは、ヨセフスなどの聖書外資料や歴史資料を紐解いても知ることはできません。いずれにしても「何らかの理由」ということ以外はわかりません。

 今日の箇所で言われていることは、ティルスとシドンの人々が、怒り心頭のヘロデのところに出向き、国家の存亡を賭けて、ヘロデの侍従ブラストに和解調停役を願い出たということであります。しかしこの和解の申し出が受け入れられたのかどうかについても、ここには書かれておりません。とにかく、この箇所から分かるのは、彼こそが当時のユダヤとその周辺都市を掌握し、生殺与奪の権利を持っているということなのであります。

 このようなヘロデが演説をしたのに対し、民衆は「神の声だ。人間の声ではない」と、ヘロデを神であるかのように祭り上げ、媚へつらう民衆の様子が記されております。ヘロデは自らが神であると呼ばれることを否定することもなく、それを受け入れているのです。しかし「するとたちまち、主の天使がヘロデを打ち倒した」のであります。

 私たちの生きるこの世の中には、神ではない者、神ではない事柄を、神として崇め奉ることが大変多く起こります。特定の人間自体を直接的に神だとすることはあまりないかもしれませんが、しかし私たちは、国家や国家権力といったものに対し、あたかも神であるかのように考えることは多くあると思うのです。私たちは自らの生活の保障を、国家に求めます。私たちは自分の身の安全や、社会福祉、保護、を国に求め、期待します。日の丸・君が代を崇拝対象的に扱い、民族の存在根拠をそのシンボルの中にこめて、忠誠心を植え付けられる教育が施されつつあります。私たちがもし、自分を守り、保護し、この身を保障する最終的な力が「国家にのみぞある」と捉えるならば、それは神ではなく、人間を崇拝することになるのです。

 冒頭で申し上げましたような、様々な問題や課題が、今年も私たちと私たちの社会を包むでしょう。経済不安や、犯罪の増加など、それらを解消できる最終的な手立ては国家にしか持ち合わせていない、とするならば、そこには神不在の、国家崇拝が存在することになってしまうのです。

 安全保障のことに関しては特に顕著でありま
す。私たち人類は、核の脅威に晒されながら、そこから脱却することが中々出来ない者たちです。核の脅威に晒され、世界で唯一の被爆国となった日本でさえも、アメリカの核の傘に守られることを前提として密約が、しかも戦後20年のうちに締結されていたという事実が意味することは「軍事力こそが我々の命を守り、命を保障するものである」という軍事力崇拝的な思いが人間の中にある、ということであります。

 しかし人間が国家の力を信奉し、そこに神の姿を見出すのであるならば、私たちは今後、核弾頭をこの世から消し去ることなど出来ないどころか、核弾頭の力を信じ、それをせっせと作り上げることに精を出して行き続けるのであります。むしろ私たちは、人間の作り出したものの無力さ、つまり核弾頭がいかに無力であり虚無であるか、という事実の中に身を投じてゆかなければ、私たちは本当の神に出会うどころか、私たちを本当に支配なさるのがどなたであるのかを見失うことになってしまうのであります。

 つまり私たちは、ヘロデ王の神々しい姿の中に「神のように見える輝き」を見出し、その輝きの中から「神の声のように聞こえる言葉」を見つけ出してしまうのであるならば、真の神を見ることはできないのです。しかしその反対に、ヘロデの神々しい服装や佇まいに、何の魅力も、何の輝きも見出すことがないならば、本当の神が如何なる方であるのかという真実に到達することが出来るのであります。
 面白いことに聖書は、ヘロデ王の演説それ自体には、全く関心を持っていません。使徒言行録は数多くの演説や説教が出てまいります。使徒たちの説教集のようにすら感じられるこの使徒言行録という書簡の特徴から鑑みて、ヘロデの演説と言葉に一切注意を払っていないことの意味がここにあります。つまりヘロデそれ自体は「神とは無縁な存在であった」ということです。シドンとティルスの人々は、食料援助を得るために、ヘロデの憤慨を宥めて和解するために、媚へつらって、又、お世辞の一つでも言えば何か良い事があるに違いない、と理解して「あれは神の声だ。今まで聞いた演説の中で、神にも劣らない最高のものである」と大喝采を送ったのです。

 私たちはこの御言葉を受けて、我々は真の神を見出すのか、それとも神以外の神のように振舞うものを見出してしまうのだろうか。そのことが今問われているのです。現代社会において、特に今の日本において、独裁者や暴君のような者は存在しにくい世の中であります。だから私たちは、ヘロデは出現しないと考えがちであります。しかしながら、ヘロデに象徴される力を信じることは往々にして起こり得るのです。

 ヘロデ流の救いは、人々を制圧し、威厳を示し、権力を誇示することによって頭を下げさせ、人々が犠牲になることによって、民衆の満足を得ていくというものでありました。失敗した番兵が処刑されたという19節の記述も、使徒ヤコブの殺害と、ペテロの投獄が民衆に喜ばれたため行なわれた、という記述も、ヘロデ流の救いの姿であります。つまり人々の犠牲の中で成り立っている、ということです。それは私たちの生きる現代社会にも言えることであります。国や組織というものは、往々にして私たちに犠牲を求めます。誰かが我慢し、犠牲になることによって、国は国としての体裁を守り、安全が守られるのだと信じられるからです。しかし主イエス・キリストの国は、我々の犠牲によってではなく、主ご自身が十字架の犠牲によって打ち立てた新しい国なのであります。私たち人間は、もっぱら強さと大きさの中に神の姿を見ようとしますが、しかしそれはヘロデの中に神を見るのと同じ事であります。むしろ私たちは、弱さと小ささの中にこそ、神が降り立ってくださったことの中にある、新しい神の国を見出すときにこそ、そこに真の救いが存在するのであります。

 私たちの救いは、私たちの信仰の内にあるのです。「国さえ何とかなれば、政治さえどうにかなれば、私たちの生活は救われる」と考えがちな私たちであります。神以外の中に全能性を投影し、それを神であるかのように扱い、その神が、私たちを守ってくれるように考えるのであるならば、そこには神ではない神を信じる姿、ヘロデの中に神を見出す私たちの姿を見つけるのです。

 しかしヘロデは主によって打ち倒されました。その理由が「神に栄光を帰さなかったからである」と書かれております。つまり私たちはヘロデに栄光を帰すのではなく、神に栄光を帰すこと、国家の安全保障と、軍備増強、政治的手腕と権力に栄光を帰すのではなく、神に栄光を帰すことが大切なのであります。人間は、神に代わる全ての代用品に対して、そこに何らの神的な信頼も、信仰も持ってはならないことを今日の聖書は私たちに伝えているのであります。

 21世紀に入りますます混沌としてきた現代社会であります。新しい年を迎えて心新たな思いをもって、この年を歩みだそうとしております。どうか私たち一人ひとりが、真の神を見続け、真の信仰が養われていくものでありたいと願うものでございます。