2017.12.03の説教から
<12月3日の説教から>
『医者を必要とするのは病人である』
マルコによる福音書2章13節~17節
牧師 三輪地塩
徴税人レビと共に食事をしたイエスを見て、ファリサイ派は非難した。これに対してイエスは次のように言う。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。医者は求められるところに行く。それと同じように、私は魂の病んでいるもの、私を求める者のところに行くのだ」。これは非常に濃密な言葉である。
「義」(ディカイオシュネー)と「罪」(ハマルティア)が対照的に出てくるが、聖書が語る「義」(ディカイオシュネー)は、「神と正しい関係性にあること」を意味している。また「罪」(ハマルティア)は、「的外れ」という意味を持っている。
義人と罪人の関係として、ローマ書3章10節には「義人はいない。一人もいない」とあり、またコヘレトの言葉7章20節には「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない」とある。おそらくイエスもそう考えていたのだろう。つまり、ここで義人(正しい人)と言われているのは、「「自分は正しい人間だ」と、思い込んでいる間違った人」、すなわちファリサイ派の罪を問う呼び方である。
それまでの穢れた生活、悪い心、犯してしまった罪の数々、それらは消えないけれども、罪を自覚し、ただ主に願い求める事が出来るならば、その罪人は、罪赦された罪人として生きることが出来る。あのヨハネ15章のぶどうの木の譬えのように、「キリストに繋がっていなければ」、私たちは正しい者ではありえない。幹に繋がっていなければ、その枝は、善い実を結ばない、からである。
この箇所で重要なのは「罪を持つ人は救われない」と考えていた当時の人々の固定概念を取り除いたことにある。そしてもう一つは、「求める者のところはどこへでも、イエスは近づき給う方である」ということも重要である。求める心を持たない者は、自らと主イエスとの間に隔たりを置いてしまう。だが求める者は、主イエスの復活の命と共に生きる者となる。
2018.05.06~12 今週の集会
今 週 の 集 会
◎祈祷題「無牧の教会・伝道所を覚えて」
〇聖書の学びと祈りの会 10日(木)10:00
列王記下16章(担当 三輪地塩)
司会 大月 美智子
〇聖書の学びと祈りの会 10日(木)14:00
使徒言行録11章19節~30
担当 安 井 国 雄
2018.05.06 礼拝予定
主 日 礼 拝 午前 10:30
<聖餐式>
奏楽 板 垣 玲 子
招 詞 マラキ書3章1節
*讃 詠 (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編89編1節~3節
*讃美歌 (21)16[1-3]
<神の言葉>
聖 書 イザヤ書29章13節~14節(旧約P.1105)
マルコによる福音書7章1節~23節
(新約P.74)
祈 り >
*讃美歌 (21)353
説 教 「昔の人の言い伝えに従って歩まず」
三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌 (21)401
*日本キリスト教会信仰の告白
聖餐式 (21)79
公 告
*献金感謝(21)211 クワイア
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄 (21)46
*派遣と祝福
*後 奏
2018.04.29~05.05
今 週 の 集 会
◎祈祷題「平和憲法を覚えて」
(憲法記念日5月3日)
「日曜学校のため」(日曜学校日5月5日)
〇聖書の学びと祈りの会 3日(木)10:00
列王記下15章 (担当 三輪地塩)
司会伊木 美穂子
〇聖書の学びと祈りの会 3日(木)14:00
テトスへの手紙4章 担当 大月 美智子
○「教会と国家に関する公開協議会」
4日(金)13:30
2017.11.26の説教から
<11月26日の説教から>
『子よ、あなたの罪は赦される』
マルコによる福音書1章40節~45節
牧師 三輪地塩
「中風」とは、脳卒中などによって、手足のマヒが生じた状態、半身不随の状態を言う。この中風患者と、彼を連れてきた4人の仲間たちの物語は大変面白い。中風の男は、床から起き上がれる状態ではなく、床ごと担がれてイエスのもとに連れて来られ、イエスとの出会いが「屋根を剥がす」という強硬手段によって行われた。この4人はリスクを顧みずに中風の患者を治らせたい一心で連れてきたのだ。我々はこの4人の「信仰におけるファインプレー」であると言えるだろう。
だが一方で違う見方も可能だ。この中風の男が一言も言葉を発していないことから、病気の本人が、特に治癒される事を求めていなかったと考えることも出来る。とするならば、この4人の行為は単なるお節介を焼いたということになろう。治りたいと思っていない人に対する押し付けがましい行為であると。
我々がこの箇所で読み取りたいのは、この4人の男たち(おそらく中風患者の「友人」と思われる4人)が、なぜイエスのところに彼を連れてきたのか、ということにある。4人が中風患者の治癒を求めていたにせよ、患者自身が癒やされたいと思っていなかったにせよ、いずれにしても「4人」は、「患者」を「イエスに会わせた」という事がこの箇所で行われた出来事(行為)である。
ひょっとすると中風の患者は「生きることを諦めていた」のかもしれない。もう治らない、もう生きる価値はない、もう生きていても仕方が無い、と。そうであるならば、この4人の最大のファインプレーは、「イエスに「会わせた」」ということ自体にある。つまり「こちら側(人間の側)が何をしてほしい」という一方的な願いではなく、「イエスを知ること」「イエスと出会うこと」「イエスに相まみえること」こそが、「我々の生きる意味」そのものである、という神の捉え方である。
かつて16世紀欧州の神学者は「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか?」という問いをした。それに対する答えは、「私が私自身のものではなく、~真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えている。神の恵みとは、我々の願望が叶う事にはなく、神の主権を求めることにある。