2017年4月9日主日礼拝

                 主 日 礼 拝              午前 10:30
【受難週・棕櫚の主日】
奏楽  三 輪 志 都
<神の招き>
 招 詞  マルコによる福音書11章9節b~10節
*讃 詠  (21)83
*罪の告白と赦し  交読詩編102編16節~29節
*讃美歌  (21)7(1~2)
<神の言葉>
 聖書  ヨブ記33章8節~18節  (旧約P.818)
      マタイによる福音書27章15節~26節(新約P.66)
 祷り                                    安井國雄
*讃美歌  (21)313
 説教   「あの正しい人に関係しないでください」
                                   三 輪 地 塩
<神への対応>
*讃美歌  (21)306
*ニカイア信条
 公告
*献金感謝
*主の祈り
*頌 栄  (21)46  
*派遣と祝福
*後 奏

<2016年11月27日の説教から>【あなたも弟子の一人ではありませんか】

<2016年11月27日の説教から>
『あなたも弟子の一人ではありませんか』
ヨハネによる福音書18章15節~18節
牧師 三輪地塩
 東洋医学では「未病」と呼ばれる状態がある。西洋医学の{疾病」に限りなく
近い状態でありながら、一応健康を保っている「病気に近い健康状態」ということだそうだ。これは「罪」の次元においても似ている。
 ペトロは命を捨ててでも付き従っていきます、と主イエスに宣言した。しかしそう豪語しながら、あっさり「違う」と、イエスとの関係を捨てたのであった。
 四つの福音書のどれもがこの「ペテロの拒否」のエピソードを伝えているが、特にヨハネ福音書は独特な形式をとっている。話が一旦途切れているのである。
 私たちにとって信仰とは、いつも直接法で語られ、自らの主体性の中で自分の告白として言い表すものである。しかしペテロが主を否み「違う」と言ったその瞬間、彼は主イエスにしたがう主体者ではなく、客体者(傍観者)になったといえる。彼は主イエスの痛みを、自分の痛みとして受けるつもりで大祭司邸宅に入ったのだが、彼はイエスとの関係を「違う」と否定した。彼は無自覚に主を否定したであろうが、罪において「病」に罹ったのである。キェルケゴールが「死に至る病」と言った我々の罪。この罪が死に至る病であるならば、無自覚に罪に生きていたペテロは大祭司邸に入ったとき既に「罪の未病」(未罪)の状態であり、「違う」と否定した時、いよいよ「死に至る病」の状態になったと言える。
 ヨハネ福音書が、18節で場面を転換し、その後、鶏が鳴くまで「暫しの猶予」を与えているのは、「立ち返れ」というメッセージが込められているからだろう。つまり、我々もまた「未病」の状態であり、いつどちらに転ぶか分からない状態であるからだ。我々は、主に従うのか、あるいはそのように告白しながら傍観者となるのか。その瀬戸際を歩む「未病の民」であり、「未罪の民」である。クオ・ヴァディス「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13章36節)というペテロの言葉は、私たちは主と共にどこに行こうとしているのかが示される言葉でもある。イエスが度々語られたのは、十字架のない信仰、十字架を飛び越えた救いの無益さ、であった。我々は、今一度、この時ペテロに与えられた状況を、自らのものとして受け止めたいのである。

2017年4月2日~4月8日 集会

今 週 の 集 会
祈祷題  「神学校入学式(編入学生、新校長)のため」
        「受難週を覚えて」
聖書の学びと祈り                     6日(木)10:00
       サムエル記下23章(担当 三輪地塩) 司会 菊地」晴子
「生と死の学び」
                 三浦綾子著「泉への招待①」       担当 増田裕子
聖書の学びと祈り                     6日(木)14:00
                 使徒言行録8章1節~13節        担当 安井國男
全国青年の集い 準備委員会(大森教会)      8日(土)13:00~18:00
     
     

2017年4月2日主日礼拝

主日礼拝  午前  10:30
                  【レントⅤ・聖餐式】
        奏楽  田端 誠治
<神の招き>
 招 詞  詩編43編1節
*讃 詠  (21)83
*罪の告白と赦し  交読詩編102編1節~15節
*讃美歌  (21)352
<神の言葉>
 聖 書  イザヤ書19章19節~22節(旧約P.1090)
       ヨハネによる福音書21章1節~14節(新約P.211)
 祈 り
*讃美歌  (21)304
 説 教  「153匹の大きな魚」
                    三 輪 地 塩
<神への応答>
*讃美歌  (21)303
*日本キリスト教会信仰の告白
 聖餐式  (21)79
 公 告
*献金感謝  ひかりにいます主                          クワイア
*主の祈り  (座席前そなえつけ)
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
*後奏
     聖餐補佐  増田 森崎 安井 河野

2016年11月13日の説教から(合同礼拝))

         
1113日の説教から>(合同礼拝)                
                      
基礎を据える』

 

マタイによる福音書724節~27

              牧師 三輪地塩 

イエス様はマタイ福音書724節以下で「砂の上にではなく、岩の上に家を建てなさい」と言われました。「建築技術」の話をしているのではありません。あなたの人生は、何の上に建っていますか?と質問しているのです。

砂に棒を刺すと簡単に刺さりますが、簡単に倒れてしまいます。その反対に、堅い土には簡単には刺さりません。しかし一度刺さると簡単には倒れないのです。このような譬えを用いてイエス様は言うのです。あなたたちの人生もそれと同じだよ、と。

 皆さんにとって「基礎」とは何でしょうか?勉強すること、遊ぶこと、体力、親子・兄弟などの人間関係、色んな方向から色んな答え方が出来ると思います。では、キリスト教信仰にとっての基礎とは何か。それは「御言葉」「聖書」に聞き続けることです。世の中はどんどん新しい物を造り出し、新しい発見や発明を行っています。人間の知恵は本当に素晴らしいなあと感じます。しかしそのような如何なる知恵にも増して、神様から与えられる知恵こそが、何よりも最も大事なことだ。そう信じる事、そしてそのように御言葉に聞き続けることこそが、私たちの基礎になっていくのです。

 建物の「基礎」には2つの特徴があります。一つ目は「基礎を作るのは大変な作業である」という事です。しっかりと建てる基礎は、時間が掛かりますし、簡単に据えることはできません。しかし確実にそのかけた時間は、その人を下支えするのです。

 二つ目は「基礎は見えない」という事です。基礎は美しさを競うものではなく、これ見よがしに人に自慢して見せるものではありません。いざと言う時にあなたの「心」も「体」も「魂」をも、その全てを、人生の全てを支える、堅い土台です。

 イエス・キリストに聞き従う事は、まさにこの「土台」を固めることになります。時として人生には、嵐が吹きますし、地震や津波にも似た状況が起こるでしょう。一瞬で自分の人生がかき消されてしまうようなことも起こるし、あまりにも理不尽で承諾しえない状況にも襲われるかもしれません。しかしその時、キリストという基礎が私たちの内に堅く据えられていることが、全ての困難を乗り越えることの出来る「土台」となるのです。