6月7日~6月12日の集会予定

○8日(火)午後7時00分   結婚式準備会

◇9日 (水) 午後 7:30   聖書の学びと祈り (祈祷会)

                【箴言1:20-33】(奨励:関口 安義 司会:大和 文彦)

◇10日(木) 午前10:00  聖書の学びと祈り (祈祷会)     

                【創世記6章】    (奨励:三輪 地塩 司会:河野 武郎)

◇12日(土)午前11:00 トレインキッズ (幼児~中学生 [※高校生も可] の集まりです)                         今回は「ガラスエッチング」をします。
                        コップやお皿に絵を刻もう!

※◇印の集会は、どなたでも参加出来ます。是非お集まり下さい。

『民衆全体から好意をよせられた』 2010年6月6日

浦和教会主日礼拝説教    使徒言行録2章37節-47節

 「キリスト教共産主義」という神学的な理念があります。特にマルクス・レーニン主義が脚光を浴びていた時代盛んであったようですが、「共産主義こそがキリスト教徒が求めるべき、理想の社会体制なのだ」、と声高に叫ぶ者たちがいたということであります。それを唱える者たちが根拠にし、拠り立っているのが、イエス・キリストが、エッセネ派であったということです。ユダヤ教の一派であるエッセネ派は、財産が共有されていたと言います。だから主イエスも財産の共有を奨めていたはずである、という論理であります。もちろん聖書には主イエスがエッセネ派に属していたなどとは書かれておりませんから、憶測による状況証拠的な論理でしかない、といえます。

 そしてもう一つ彼らが拠り立っているのが、今日私たちが聞こうとしている箇所、使徒言行録2章、特に43節以下の記述である、というのです。彼らは、聖書によると、エルサレム教会では財産を皆が共有することによってキリスト教社会主義共同体が既に維持されていたのだ、と理解しているのです。エルサレム教会とは神学的な理念の異なる使徒パウロでさえも、ヤコブも、教会員同士の不平等があってはならない、と信じていた。だからこの聖書の箇所は、原始教会が共産主義的理念に立っているのだ、と、そのような根拠を引き出そうとしてきたのであります。

 確かに、この箇所をもう一度見てみますと、44節「信者たちは皆一つになって、全ての者を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」とあります。この言葉から連想されるのは、少なくとも資本主義社会ではなく、共産主義社会のそれに近いものであることは間違いありません。共産主義はご承知の通り、一切の私有財産の所有を認めません。簡単に言いますと、自分の財産を持ってはいけませんよ、つまり自分の土地も、貯金通帳も、タンス預金もその理念に反する行為である、というのが共産社会なのです。そしてこの箇所を読んでみると、そう読むことも出来なくもない。では聖書はそのように生きる世の中の実現を求めているというのだろうか。この箇所は私たちに何を語ろうとしているのだろうか。その辺りが、今日の主題となってくるのです。
 
 今日の箇所を読んでいると、このようにして生活することが、キリスト教倫理道徳上、優れたことであるのか、という疑問が沸いてまいります。やはり貧富の差が無くなる社会、キリスト教共産主義という理想を掲げることが、教会が支持すべき社会理念であり、社会システムであると聖書は言っているのか。という疑問であります。そしてもう一つ、共産主義が言われているのではないにせよ、今日の箇所が語るのは、教会とは助け合って、和気藹々と、和やかに過ごす集団であることが求められているように感じる、ということであります。一体、教会とは、信仰共同体とはこのような家族的な、あるいは共産主義的に生きる事が求められている集まりであるのでしょうか。結論から申しますと、「否」でありましょう。つまりこの箇所が語るのは、社会理念やシステムの構築、こうやって生活することが信仰的であって望ましい、という、共同体のあり方が語られているのではないのです。ですから私たちは、良く目を凝らして、聖書に耳を傾けねばなりません。

 47節「(彼らはこのように生活していたので) ~民衆全体から好意を寄せられた」とあります。ここに書かれている言葉を間違ってはならないのです。つまり単に「財産を共有しあっていたから好意を持たれた」のではなく「必要に応じて分け合ってたから」でもないのです。そうではなく、彼らが財産を共有するという事柄の前に、「彼らの内に起こった出来事が何であったのか」に注目したいのです。

 財産というのは、私たち人間にとって何を表すのでしょうか。それは、生きるための道具、自分の頑張りに対する価値、あるいは人生を賭けて得る報酬という方もいるかもしれません。とにかく、私たち人間にとって、財産は生きる術であり、自分を支える目に見える安心材料であり、また安全保障であると言えるでしょう。そのような財産は多かれ少なかれ、私たちはそのために生き、それを稼ぐために汗水流していると言えるのです。

 しかし彼らはそれらを「共有している」のです。自らの生きる術であり、安心材料であるそれを投げ出している、のであります。これが財産共有の意味です。つまり、彼らはそれまで生きてきた大事なものを、イエス・キリストの名において、放棄している。それまで彼らを支えてきた生きるために最も大事であると思ってきた物を投げ出しているのです。言い換えるならば、彼らは、財産の呪縛から解放されているのです。人は財産を得るためになら何でもおこないます。他者を傷つけ合うことも厭わず行います。それは私たちが「所有する」という欲求に縛られているからであります。創世記4章に出てくる、あのカインが、『主の祝福』という財産を得た弟アベルを妬み殺害したように、人間の罪はの多くは「所有する」ことに由来します。しかし今日の箇所で彼らは、多く持つ者が、そこから解放されて、共有することを良しとしているのです。彼らはそのように生きる選択をしたのです。そのように生きる者へと変えられたのです。
 それはちょうど、あのザアカイが、小銭を貯める事に必至に自分の命を費やしていたあのザアカイが、ルカ福音書19章で「主よ、私は財産を半分を放棄します。騙し取った分を4倍にして返します」と言って解き放たれたように、この人々は、自分の人生を縛り付けていた所有欲から解き放たれたということなのです。

 勿論私たちは、この話を聞いて「では全てを投げ出さなければならないのか」と早合点する必要はありません。決してこの箇所は私たちにストイックに、禁欲的に生きることを求めておりませんし、また財産の所有を敵視しているのでもありません。そのような早計な御言葉の適用ではなく、私たちは御言葉と信仰的生活によって、自らが変えられているか、という事に思いを寄せてみる必要があろうと思います。私たちは、キリストに出会う前に自分を生かして来た物や、縛られてきた事柄から、解放されているか。キリストとの出会いによってそこから解き放たれているか、ということが重要なのであります。御言葉は私たちを変えるのです。それがここでは彼らが財産の共同所有という形で現れた、ということなのです。


 さて、もう一度47節に戻りましょう。「(彼らはこのように生活し
ていたので) ~民衆全体から好意を寄せられた」というこの言葉には、もう一つの理由があります。それは、共同の食事ということです。これはしばしば、聖餐式の食卓を表していると言われてきました。勿論そのように読むことも出来ます。一同に集まり、パン裂きを伴う共同の食卓は、まさに聖餐式そのものであるからです。しかし当時の食事は、通常、その家の主人が「パンを裂いて、取り分けて、もてなす」という形式が採られていたようですから、必ずしも聖晩餐でなくてもこのような行為は伴ないます。聖晩餐であれ、通常の食事であれ、いずれにしましても、「信者たちは皆一つになって」(44節)それが行なわれていた、ということの中に、意味があると言えるでしょう。それは、貧富の差、地位の高さ、男女の性差、年齢差、そのような全ての格差を越えて彼らは皆一つになっていた、ということなのです。

 そもそもこの共同の食事の中に、イエス・キリストを見出さずにはおれません。使徒言行録の第1巻であるルカ福音書の中で「イエスが食事の席につかれた」という時は必ず、一緒に食事をすることを拒否された者たちとの食事か、もしくは、主イエスの論敵であるものたちとの食事でありました。ルカ5章29節では、忌み嫌われた徴税人レビと食卓を囲み、7章36節以下では、罪深い女と呼ばれる人と共に食卓を過ごし、19章5節では徴税人ザアカイに「今日は是非あなたの家に泊まりたい」と言ったのです。またファリサイ派とは、11章37節、14章1節などで、自分の論敵であるにも関わらず、共に食卓を囲んでいるのです。
 そしてルカ15章1節では、ファリサイ派の人たちが、罪深い者たちと食事をしている主イエスの行動を避難しているのです。それはイエス・キリストという方自身が、罪人を交え、論敵を交え、そして世間から忌み嫌われる者すべてを招く、分け隔ての無い方である事を示しています。社会的に差別される人たちは、しばしば食卓で排除されることを現代の私たちは知っています。南アフリカ然り、南北戦争のアメリカ然り、であります。当時のユダヤ地方も勿論厳格に差別を行い、被差別者たちを排除するのが慣例でありました。しかしイエス・キリストにある交わりは、かつて厳格に行なわれていた差別的な見方から、一人の信仰者として共に食卓につき得るものへの変革の徴であるのです。主イエスの共同の食卓は、社会的な障壁が打ち破られたことを証しする徴なのであり、また私たち信仰者がこの世においてそう生きることへと派遣されることを示す行為なのであります。

 つまりここで行なわれている行為によって示されていることは、単に道徳的に物を持ち寄って和気藹々と過ごすことが求められているのではなく、又、一緒に食事をする、という和やかさが求められているのでもないのです。ここに示されているのは、自分を縛り続けていた価値概念からの解放であり、また、社会を縛り付けていた差別的社会通念からの解放が、この主にある共同体の中で行なわれているのだ、ということなのです。だからその新しさに民衆は驚き、民衆全体が好意を寄せてきたのではないでしょうか。

 教会は、決して家族の延長として存在する集まりではありません。優しさとか、道徳心とか、理想の家族的集まりや、ほのぼのとした家庭の実現を教会の到達点としてしまうならば、必ず限界が訪れると思うのです。つまり私たちの教会という信仰共同体は、家族的なものとは違った又別の原理によって結びつかなければ、心を一つにして歩むことは出来ないと聖書は言うのです。それが46節以下に書かれています。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、~喜びと真心をもって~、神を讃美していたので」。つまり、至極単純なことですが、「信仰共同体は信仰を何よりもの柱とする」ということなのです。その中で、私たちの内には、自分を縛り付けていたもの、そして、社会を縛り付けていたものからの解放が与えられていく共同体として、成長していくのです。解放とは、主の救いであります。日々の雑多な生活での、また社会生活での、様々な労苦と、呪縛からの解放が、私たち自身の身に起こるならば、それは主の救いでなくして何でありましょう。私たちはその救いが、全ての人々に広がっていくことを求め、その業に参与し、我々の身を主の救いに投げ打って生きて行きたい。それを今日の聖書から聞き取るのです。

 

靖国問題学習会

第1回靖国問題学習会
  日時:7月23日(金)14時-17時
  場所:蒲田御園教会
  講演:「韓国併合100年にあたって、共生社会のために」
    ~天皇制と植民地主義を考えてみよう~
  講師:古賀清敬(北海道中会宣教教師)

6月6日の礼拝予定

説教題:「民衆全体から好意をよせられた」 

説 教: 三輪地塩 牧師


聖書箇所:(旧約)イザヤ書 44:1-8
     (新約)使徒言行録 2:37-47       

讃美歌 :(21)83、6、204、402、79、27

 『ペトロの説教』

<5月30日の説教から>
 使徒言行録2章14節-36節
   牧師 三輪地塩
 このペトロの説教は私たちに、週毎の礼拝式順序を思い起こさせます。勿論意図して書かれたわけではありませんが、人が神に招かれ、罪を自覚し、御言葉に慰められてキリスト者になるということは、このようなプロセスを辿るのだと暗示されているかのようです。つまり私たちの礼拝式というのは、単に儀式的な順序、セレモニーとして整えられただけの順序なのではなく、私たちが救いに導かれるプロセスがこの1時間という小さな時間の中に込められている、ということです。この礼拝の中で語られた御言葉を、私たちが自分の事柄として受け止め、自分が悔い改めへと導かれるための糧として、自らのものにする作業こそが、礼拝への参加であり、御言葉に、又説教に聞く、ということなのではないでしょうか。
 語る者は真剣に語り、それと同時に、聞く者が全身全霊を傾けて聞く者でなければ、説教は神の御言葉としての御言葉性を失ってしまいます。礼拝は出席することそれ自体に意味があるというより、むしろ、その中から自らへ問い掛けられた言葉を捜す作業です。神様の招きの意味を礼拝の中から見出すのです。聖書の中に、説教の中に、讃美歌の中に、祈りの中に、オルガンの奏楽の中に、礼拝の奉仕や、招きの言葉の中にでさえも、神様を見出すことが出来たならば、それがあなたへの御言葉です。だからこそ説教者同様、礼拝者も御言葉の解釈者であると言えるのです。耳を澄まして、目を凝らして、神様があなたに今日語る言葉を、自らの心で、自らの信仰で、聞こうではありませんか。