聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記36章1節-43節 2011年4月21日

 創世記36章1節-43節 2011年4月21日 祈祷会奨励
「エサウの系図」
 エサウは何人もの妻を持つ。ヘテ人の娘アダ。ヒビ人の娘オホリバマ、イシュマエルの娘バセマトです。この事情は26章34節~35節にも書かれていますが、全く名前が異なっている。
 ヘテ人は申命記7章1節によるとか何の地の七つの原住民の筆頭民族である。アブラハムはサラが死んだとき、この「ヘテ人」からヘブロンにあるマクペラの洞穴を買い取った。ヘテ人ハ北方から来た先住の民族であり、文明は進んでいた。エサウは原住民ヘテ人の娘と結婚することによって原住民と強調的に過ごすことが出来ました。また、最も東に住むイシュマエルの娘を娶ることによって、東の民(アラビア)との友好関係を築いた。そのためエドムは広い地域を安定して確保できたといえる。
 36章の系図の著しい特徴は、それがまさにこの部分におかれているということにある。ヤコブに関する伝承の長い結論部分がエサウに関するものであることは、素晴らしいことである。ヤコブについての物語り全体を聞いてきた全ての人は、古い世代の事を忘れて新しい世代へと、すなわち、ヨセフへと向かう準備が出来ていることを知っている。しかしながら、伝承それ自体はそんなに急いではいない。伝承は、エサウを放っておくことに困難を感じている。そしてそのことが、明らかにヤコブの家族からの圧力と誠実さによって形成された一つの伝承にとっての重要な問題点を提起している。
 エサウは「ヤコブ物語」全体を通して敬意を持って扱われている。27章の長子の祝福が奪われる場面では、エサウは、人の心を動かさずにはおかない情感をもって描かれているし、33章の和解の場面においては、彼は高潔に描かれている。また36章7節では、エサウとヤコブの間の富の分割が論争によってではなく、実際的に、そして平和裏になされたことが述べられている。13章のロトの場合と同じように、富の分割は、エサウに対して何らの汚点も残していない。
 エサウはカナンをヤコブに明け渡し、自分はセイルに身を引いたと読むことが出来る。33章の場面ではヤコブとエサウのやり取りの中でエサウが好んでセイルに行っているように見えるが、36章の場面では、ヤコブのために身を引いたと受け取られる。
 全体的な印象として、聖書は暗黙のうちにエサウを褒め称えていると見ることができる。ヤコブ物語の中で、ただ一度として、エサウに対する痛烈な言葉というものは見当たらない。ヤコブに対する彼の怒りさえも、批判されることなく、正当なものとして描かれている。
 私たちは、ヤコブが選ばれ、エサウが長子の権利を軽んじたという出来事を見てきたため、あまりも割り切って聖書がエサウを否定していると考えがちである。確かに聖書はヤコブを選んでいると伝える。しかしもっと正確に聖書のメッセージを語るならば、聖書はヤコブを選んでいるけれども、しかしエサウが拒否されているわけでもない、という事が言えるだろう。それは既に、女奴隷ハガルや、その息子イシュマエルに対して祝福の言葉と守りが備えられているようにである(16章)。もっと遡って言うならば、カインとアベルの争いによって、アベルを殺してしまったカインに対し、神は彼を追放するのであるが、しかし最終的に彼に与えられた言葉は、4章13節~16節の祝福の言葉であった。
 
 使徒言行録14章16節には「神は過ぎ去った時代には、全ての国の人が思い思いの道を行くままにしておられました。しかし神はご自分の事を証ししないでおられたわけではありません。」このようなパウロの言葉がある。しかし今やこの時代は過ぎ去ったとパウロは言う。つまりこれまでは別々の歩みをしてきた異邦人たちも、ユダヤ人たちも、ギリシャ人たちも、全てのひとがこぞって主を賛美し、主の御名をあがめる日がやってきたのだ。それこそが主イエス・キリストの十字架と復活である。
 キリストが我々の間に立ち給うならば、そこにはそれぞれの差異を越え、民族の違いを越え、生き方の違いを越えたもの同士が、キリストの復活に与ることが出来る。そこ現実をいま受難週のこの時に改めて感じさせられたいと思うものである。