聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記38章1節-30節 2011年5月5日

 創世記38章1節-30節 2011年5月5日
 37章からヨセフ物語が始まったが、突然38章で、前章の流れは中断される。ヨセフ物語りは性格には「ヨセフを中心としたヤコブの息子たちの物語」ということなのであろう。
 34章では娘のディナが辱めを受け、シメオンとレビが報復をするという出来事があった。37章ではルベンを初めとするヨセフの兄たちがヨセフをイシュマエル人に売る相談をしている。そして38章でユダに焦点が当てられる。
 この話しを読む限りにおいて「ユダの罪」が強調されるように感じる。我々はこの箇所を罪の箇所として読むのか、もしくはそれ以外の御言葉として読むのか、そのことを考えつつ読み進めていきたい。
 ユダはカナン人シュアの娘を妻とした(名前はなく「シュアの娘」とだけ言われている)。ユダは妻との間に、長男エル、次男オナン、三男シェラをもうけた。ユダは長男エルにタマルという女性を嫁に迎えたが、エルが主の意に反したのでエルは死んでしまった。そこからこの物語が始まっていく。
 ユダはタマルに、次男オナンとの間に子を儲けよ、ということを命じた。これは当時の風習の中にあった「レビラート婚」もしくは「レビラート婚姻法」と言われる有名な規定で、旧約律法の中にも記されている(申命記25:5-6)。子が出来ないまま早くして夫を亡くした者は、夫の兄弟もしくは最も近い近親者との間によって子を儲けることができる、という法律である。この法律には拘束力があり、未亡人にはその権利があり、夫側の親族にはそれを果たす義務があった。(新約聖書のマタイ22:24ではレビラート婚を前提にサドカイ派の人がイエスに問答を仕掛けている)
 この法律は、未亡人のためにある法律と考えてよい。当時、子が生まれることはその家の祝福と見做された。従ってそれが叶わずに命の絶たれた家のためにこの慣習があったのである。その為タマルは夫の弟であるオナンとの間に子を儲けることとなった。
 しかしオナンは、生まれた子が自分の子ではなく「兄の子」となることを承服しなかった。彼はタマルとの関係の中で敢えて子が出来ないように振舞った。つまりそれが神の御心に反したということで、次男オナンも死んでしまうこととなったのである。
 これらによって想像出来ることは、エルとオナンの兄弟仲が大して良くなかった、否、悪かったのではないかということである。祖父ヤコブとエサウの兄弟仲、ヨセフと父である兄たちの兄弟仲が悪いのに加え、その息子たちも悪かった、ということは親が親なら子も子である、ということであろうか。
 さて、これを見たユダは三男のシェラもまた兄たちのように死なせてはならないと思い、タマルに近づけさせなかった。林嗣夫氏は「タマルは災いをもたらす不吉な女であるとして人間的な判断をした」と言っている。
 11節では「シェラが成人するまで~」とその期限が設定されているが、その後に「シェラもまた兄たちのように死んではいけないと思ったからであった」とあるように、これがユダの本心であるように思われる。とにかくユダはタマルに近づいて欲しくなかったのだ。
 この判断に対して、タマルは娼婦の格好をしユダと関係を持ち、彼女の画策したとおりユダとの間に子を儲けたのである。それがペレツとゼラであったことが最後に書かれている。冒頭でも言ったように、この話は「ユダの罪」がクローズアップされるように思われる。つまりユダ中心の物語としてこれを読むことが多いと思うのである。しかしここで視点を変えタマルの物語として読むならば、これが罪の物語ではなく、神の祝福の物語となる。
 タマルは何とかして子を授けられる事を願った。それで義父との間に子を儲けることを考え付くのである。考え付くというよりも、タマルにとって当然であったのかもしれない。なぜならば、それが彼女の常識であったからである。タマルが行なったような、義父との関係によって子を儲ける、ということは、現代の我々の感覚から言って、非常に不謹慎で、倫理上あり得ない事柄と感じるかもしれない。しかし聖書の中で法制化される前に、既にレビラート婚は古代東方諸国で一般的な慣習として行なわれていた。特にヘト人の間では、義父もその責任を負う、ということが認められていた。つまりタマルはヘト人であった可能性が高いのだ。そう考えるならば、タマルの行なったことは何ら非難されることではないと言えるだろう。
 彼女は三男シェラとの関係が絶たれたことを知ると、しばらく自分の父の家に無をひそめる事となった(11節)。タマルは満を持して行動にでた。タマルという言葉は「ほっそりした人」という意味だそうである。彼女が細く背の高い女性であったとするならば、神殿娼婦として道端に立ったとき、目立つ存在であったのかもしれない。
 また彼女は賢く振舞っている。それは保証の品として「印章と杖」(18節)を受け取っていることである。印章と杖は、身分保証書にもなりうる。コピーすることや、同じ物を大量生産できない時代である。羊のように同じような判別のつきにくい保証ではなく、彼の持ち物に着眼したことは、彼女の賢さである。
 彼女は計画を果たし、そこから3ヶ月身を潜めた。これもまた身ごもったことを確認するための期間であった。ユダはこの知らせに憤慨した。タマルが不義を犯したとなれば、身内関係者として生かしておくことは出来ない。姦淫を犯した女性は、祭司の娘は焼き殺され、一般の女性は石で打ち殺される規定になっていた。(だからと言って彼女が祭司の娘であるとも限らない。律法が出来る前の出来事だからである)。
 そこでタマルは保証の品を見せたのである。身ごもったのは自分の子であったことを認め、ユダは彼女の非常手段を肯定せざるを得なかった。ユダは罪を犯した。それは人間的な思いを優先させ、自分の身を守ることに執着した結果であった。しかしタマルは身を危険に晒しながらも、自分と神との関係の中で、正しいと思う事を行なったのであった。タマルの行動は、一方では「騙す」という決して正しいとは言えない行動でありながら、しかし自分の名誉と命の危険を冒してでもこのような措置にではことは賞賛に値するのである。
 特に彼女の境遇や、置かれた状況を考えて
みると分かるのではないか。タマルは長男と結婚した。しかしタマルの罪ではなく、長男エルの何らかの罪によってエルは早死にしてしまった。それはタマルによって、大変不幸なことであったに違いない。しかし律法はこのやもめに対して寛容であり、レビラート婚という措置を設けていた。そのため、彼女には将来を見ることが可能であった。しかしオナンは兄弟仲によるものか、自分の子にならない事を妬んでか、とにかく人間的な思いの中でタマル中心に考えることはしなかった。そしてオナンも死んでしまった。またやもめとなったタマルは、今度こそとばかりに三男シェラに期待をかけるのだが、今度は穢れた者を扱うかのように(言ってみればタマルは冤罪であるにもかかわらず、タマルが不吉であるかのように扱われ)、シェラが成人するまでという条件が提示された。彼女はこれを信じたのだろう。しかし「かなりの年月がたった」のち、シェラが成人したはずなのにその連絡はこなかった。その為彼女は非常手段に出た。義父との関係を得るための強硬手段に出たのだった。しかし義父がタマルの妊娠に気がついたとき、それは彼の犯した結果となっていた。彼は26節で語っている。「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」と。ユダは素直だった。自らの罪を認め、その原因・理由も理解していた。
 タマルの行為は、娼婦を装い半ば騙す形で子を得るということであった。これは決して手放しに賞賛されることではないかもしれない。しかし男性主導の家父長制社会を生きる女性として、レビラート婚の権利を人間的な感情で(しかもタマルに近づくと不吉である、という勝手な解釈のもとで)彼女は子を得る権利を奪われていたのだ。そうなればこうするより他はない。彼女には情状酌量の余地がある。
 タマルは人間による妨げをかき分けるようにして、神の約束(子の誕生)を得たのだ。決して人間の知恵や行いや努力を賞賛するものではないのだが、しかしヤコブが何とかして神の祝福を得ようとしたあの思いに通じるものがあると感じる。使徒パウロもフィリピ書で「私は既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです」と言っているとおりである。
 
 最後にイエス・キリストとの関係について述べよう。タマルは異邦人(ヘト人?)であったのだが、彼女の祈りは神に聞き入れられた。この出来事を通して、さらにマタイ福音書1章のキリストの系図を見てみたい。興味深いことにヤコブの次はヨセフではなく、ユダがイエスの系図に繋がっていることが分かる。それはキリストが、異邦人も罪人も含めた、全ての人類の救いのためにお生まれになったことを示しているということである。
 聖書は決してユダヤ人のみの神なのではなく、ユダヤ人を罪人のモデルとして選び、人類の救済について語った神の言葉であると言える。タマルもまた、神の祝福と恵みのうちにあったのである。