5月16日~21日の集会

 ◇聖書の学びと祈りの会     5月18日(水) 19時30分~ (1階 集会室)

 ◇聖書の学びと祈りの会     5月19日(木) 10時00分~ (1階 集会室)

5月22日の礼拝

 【成人礼拝】10時30分~11時30分(約1時間)

 ◇説教題:「ミレトスでの別れ」

 ◇聖 書:使徒言行録20章13節-38節

 ◇説 教:三輪地塩(みわ・ちしお) 牧師

 
 【日曜学校】(こどもの礼拝) [礼拝]9時00分~ 9時30分
                [分級]9時30分~10時15分





  

使徒言行録20章1節-12節 『若きエウティコの眠気』 2011年5月15日

 使徒言行録20章1節-12節 『若きエウティコの眠気』 2011年5月15日

 昨年の11月15日、明治学院東村山高校で、キリスト教教育者懇談会というのが催されました。これは毎年2回行なわれているものですけれども、近隣教会の牧師並びに日曜学校教師がだいたい30~40数名集ったでしょうか、この中高一貫校がどのような方針によって教育され、礼拝をどのように大事にし、キリスト教主義をどのように守っているかについて、学校側のお話を聞き、そして懇談するという、説明会のような類の会でありました。その会の中で、前回、在校生が同席して、男子生徒1名、女子生徒4名の、計5名による高校生の発題がありました。この5名の方々が選ばれた理由は、皆高校生のうちに洗礼を受けられた方であるからであります。本当はもっといたようなのですが、その中から推薦入試で進学が決定している、比較的時間に余裕のある方々が選ばれていたようでありますが、彼ら彼女らがどのようにして導かれたのかについて、洗礼に至るまでの経緯について多くのことを聞くことが出来、大変に有意義なときを過ごすことが出来たわけであります。その中で―お名前を出しても差し支えないかと思いますが―「田沼さん」という女子生徒のお話に特に感銘を受けたわけです。

 何を話したかと言いますと、彼女は、毎朝行なわれている学校の礼拝が、キリスト教との始めての出会いであったようです。しかし彼女にとって礼拝は、初めのうちは「つまらなかった」というのです。毎朝この礼拝をどうやって暇つぶしをしようかと、そればかり考えていた。ある日あまりにつまらなくて暇をつぶすために聖書をペラペラとめくっていたとき、コヘレト7章21節の言葉が目に入ってきました。

 こういう内容です。「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、しもべがあなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ。」このような一節です。で、何が言いたいのかと言いますと、その彼女は、この一言で「御言葉に触れる思いがした」というのです。それがきっかけとなり彼女は昨年4月4日のイースターに受洗をしたと報告されていました。

 これ全ての牧師にとって衝撃的な話だと思うのです。つまり我々説教者は、牧師にせよ、日曜学校で子どもにお話をする先生方にせよ、どれだけ分かり易く、良い話ができるかという思いをもって取り組むと思うのです。今日のこの聖書箇所が会衆にどう聞かれているのか。どう受け取られたか。その聖書箇所が言わんとしていることが、本当に伝わっているのか。そのことに腐心し、そのことに一喜一憂するのではないかと思うのです。

 けれども、この明学の高校生は、日々のつまらないと感じた、眠ってしまいそうなお話によって、暇つぶしの手作業によって、神の御言葉と出会ったというのです。何とも皮肉な話であります。我々説教者が腐心し、心砕いていることは一体何なのか、という、何とも言えない虚無感と、人間の業のはかなさを感じると共に、しかし神様の導きとは、実際こういうものだと、思わされたのです。つまり人間が一生懸命に行なうことは悪いことではないし、そうすべきであるように思います。自分に与えられた力の最大限のことをフル活用し、出来うる限りのことを行なう。しかし最終的に為しうるのは神の業であるということです。これは人間の努力を決して無にするような意味ではなく、神様の側の絶対性と言いますか、人間の思いを遥かに超えたところで働かれる神の導きという事が、その所謂つまらない説教の中で行なわれた、ということであります。

 勿論聖書科の先生方は、何とか中高生にとって分かり易い話を、と思って一生懸命であったでしょう。そしてその話は、良く練られたものであり、決してつまらぬものであろうはずがないと想像いたします。しかし改めて思うことは、賜物のあるなしにかかわらず、神は必要な場所で、必要なことを与えられるということです。神様は、たとえ人間が弱さや不勉強を抱えていたとしても、たとえ口下手や能力のなさを抱えていたとしても、それらの負の出来事と思わしきことでさえも用いて下さる。大変粋な方であり、大胆な方である。それが神様であることを改めて思わされたのです。

 今日の箇所では、エウティコという一人の青年が登場します。長々と続く説教によって彼に睡魔が襲います。たいへんコミカルな場面であります。もしかすると長いだけで決してつまらないわけではなかったのかもしれません。説教が夜中まで続いたため、昼間の労働に疲れていた働き盛りの青年ですから、夜になると眠くなる、というだけかもしれません。決してつまらないわけではなく、生理的現象としての眠気であったのかもしれません。

 しかし、このコミカルでユーモラスな場面は、私たちの笑いを誘ったのち、一転してしまうのです。「三階から下に落ちてしまった。起こしてみるともう死んでいた。」なんと無残な展開でしょうか。ユーモアに溢れた場面は突如として悲劇に変わるのです。そして人間に襲い掛かる突然の悲劇とは、まさにこのようなものであると感じさせられるのです。それは突然やって来るのです。それまで親しく談笑していた人が、次の瞬間に命が奪われる。隣にいた人が亡骸になる。この悲劇は、私たちの現実を示すのです。
 この青年の死に関して誰が責任を取るのか。本人の不注意として片付けられる問題であるのか。これまで夜中に掛けて行なわれていた礼拝を根本的に見直さねばならず、又、青年の両親に対して、誰が責任者として事情を説明し、死んでしまった状況を伝え、事と次第によれば、謝罪や賠償の問題も抱えてしまう。現実的に言うと、このような問題もはらんだかもしれません。ユーモラスな場面は、人間の命が取り去られた瞬間、一転するのです。もう笑えない状況がそこにある。そこには真剣な人間の命の問題がそこにあるのです。無くなった命、取り去られた命。この事実がもたらすのは、事柄が現実に引き戻されたということであります。

 ひとたび私たちに目を向けてみますと、人が何かを奪われたとき、何かを喪失してしまったとき、そこから私たちの現実が始まるのではありますまいか。何不自由なく過ごしているとき、問題なくスムーズに進展していくとき、そこには余裕もあり、何事をも許しうる許容力を持ち、物事に
対しておおらかでいられる。けれども、その余裕も、力も、財産も、また時間も、空間も、家も、家族も失ったとき、つまり取り去られ、喪失してしまったとき、そこにあるのは決して逃れることの出来ない現実そのものであるのです。

 また、命があっても、もし自分自身の生きる命、魂の喪失が起こるなら、そこに死に体となった私の存在がそこにあるのです。現実の社会は、特に平成不況などと言われる昨今、職を失い、日々を生きていくのもままならない人々が本当に増えています。ネットカフェ難民、ワーキングプア、失業、リストラ、倒産、自己喪失、命の投げ出し。私たちを取り囲むのは、「失う」という現実なのです。生きる気力を失い、自信を喪失し、この私にはもう何も残っていないと考える人々の何と多いことでしょうか。この喪失という現実の中で、私たちは労苦し、もがくのです。

 青年エウティコの命が取り去られたのは、紛れも無く現実でした。喪失という現実。「もう命がない」という「もう~ない」という現実が広がっているのです。
 しかし聖書は、この一旦悲劇を迎えた彼らの中に、思いも寄らない出来事が起こることを私たちに伝えるのです。パウロは急いで降りて行き、エウティコを抱きかかえます。そして彼は言うのです。死んでしまったのが明らかに分かる彼を前にして、皆に対して言うのです。「騒ぐな。まだ生きている」と。

 この「まだ生きている」という言葉は、直訳しますと大変面白い表現です。つまり「まだ彼の中に命がある」と言われているのです。彼の中に命がある。「もう~ない」というところから「まだ~ある」の命へと向き直らされているのです。そしてこれこそが、神の前での現実であると聖書は言うのです。私たちは悲劇の中に現実を見、悲劇の中で全てが具体化されるかのように考えてしまう。しかしこの人を見よ、と。彼は「もう死んでしまった」のではなく、「まだ生きている」のであり、彼の中に「まだ命がある」のだ。このことを告げるのです。

 実はここに集っているパウロの仲間たちは、非常に苦しい境遇に晒されていたようなのです。彼らはユダヤ人たちを恐れて戸を閉め、隠れている小さな群れでした。3節には、「パウロに対するユダヤ人の陰謀があり、思い通りの計画が遂行できなかったこと」が書かれています。また、8節で「たくさんのともし火がつけられていた」ということが示すのは、キリスト信者たちは夜な夜な反抗的な計画を立てているかもしれないとローマ当局に疑われていたため、身の潔白を示すパフォーマンスのために明るくしていたと言われています。つまりこの信仰共同体は、外的な迫害を受け、何度も行き詰まり、それでも神の言葉を伝え続けていたのです。しかし何気ない一場面から、この若きエウティコの小さな眠気から、思いも寄らない悲劇に見舞われた彼らは、エウティコの死によって一旦この信仰共同体は群れとしての働きを失うところでした。このパウロの小さな教会は教会共同体としての命を失ったのです。そこには「もう~ない」という喪失感と、「もうおしまいだ」という絶望的な思いであったことでしょう。
けれども、「もう~ない」は、「まだ~ある」に変えられるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と聖書が語るように、「もう~ない」の失望は、「まだ~ある」の希望へと変えられるのです。

 主イエス・キリストの希望は、十字架の死からの復活であります。もうこれで終わりだと思ったあの十字架の出来事が、「まだ~ある」いや「あったときよりも、さらにある命へと」つまり「復活の命」へと開かれることにあるのです。

 エウティコの出来事は、私たちに、主イエス・キリストの希望を示します。ここに何がが残されているのか。ここから何を見つければよいのか。そのような失望と絶望に取り囲まれる私たちに対し、「もう~ない」と悲しみに打ち震える私たちに対して、そのあなたの中に命があることを伝えるのです。もう死んでしまったと思われたあなたの中に。もうこれ以上何も見つからないと思っていたあなたの中に。もう失われてしまったと思っていたあなたの只中に命がある。行き詰まり、これ以上に何も見当たらないと悲しむあなたの中にこそ、復活の命がある。このことを伝えるのです。
 皆さんの中に、希望がありますように。皆さんの絶望の淵から、神の祝福が見出されますように。何もないと諦めていたあなたの不毛な思いの中から、神の恵みが与えられますように。

(日本キリスト教会 浦和教会 主日礼拝説教 5月15日) 

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記39章1節-23節 2011年5月12日

創世記39章1節-23節 2011年5月12日
ヨセフは神が共におられたので、ファラオの役人ポティファルの家を任されるまでになる。主人の家の全ての管理を任せられた。身分こそ奴隷であるが、実質的には主人として王の重臣ポティファルの家の一切を取り仕切るようになったのである。
7節でポティファルの妻はヨセフを誘惑する。「高官の妻で有閑マダムのポティファル夫人は、宮廷の仕事で忙しくろくろく家にもいない夫に不満だったのでしょう。若く美しいヨセフに心惹かれ誘惑しようとしました」(小泉達人著「創世記講解説教」310頁)
この誘惑に対しての8節~9節のヨセフの言葉は、「人の道と神の道を両方立てるものであった」(小泉前出書311頁)
 ポティファルの妻は自分の思いが拒絶されたとき徹底的な復讐に出る。自分が誘惑しようとしたのをヨセフの責任に転嫁している。「しかしこの恐ろしい憎しみに変わる愛は、それが本当の愛ではなかった何よりのしるしでしょう」(小泉前出書)312頁
 ポティファルは激しく怒り、王の囚人を繋ぐ監獄に入れた。これは国の重罪人を入れる監獄であった。ある注解者はこう言っている。「本来ならヨセフはただちに殺されるはずだ。たとえ重犯罪人の語句であろうと、投獄されて殺されなかったのはおかしい。これはポティファルが妻の不倫を知っていたのではないだろうか」。これは一方では穿ち過ぎの解釈とされるが、もう一方でこのような妻の性質をポティファルは知っていたようにも思うので、ある一定の蓋然性を持っているようにも思われる。
 39章では「主がヨセフと共におられた」(2節、3節、21節、24節)という言葉が多用されている。これが今日の注目すべき言葉である。我々は、神がヨセフを守っているならば、何故兄弟たちに憎まれ、売られ、奴隷となり、婦女暴行の冤罪で投獄されていくのかと考えてしまうだろう。神が共におられるなら人生は何もかも上手くいくはずだ、否、そうであるべきだと。しかし神が共にいてくださるということは、順風満帆な人生の確約を意味していない。もしそれが確約されることを神の守りであると信じるなら、―それはそれで一つの信仰であるが―、それは人間の欲や望みの成就を願うだけの神を求めていることであり、家内安全、無事故、無病の信仰なのではないかと思う。
 しかし神のなさる祝福とは、その人間の思いを越えた所で働く正しい神。乃至、神の正しさの中で我々に働きかける神、なのである。結局我々の欲で神は動かれるのではない。ヨセフの人生は、我々の眼から見ると、何と波乱に満ちた壮絶な人生であろうと思ってしまう。父親の偏愛を受けて、どこか天狗になるところもあったかもしれない。兄弟を見下すところもあったかもしれない。そんな彼だから、たくさんいる兄弟たちに妬まれ、憎まれていったのであろう。そして彼は売られた。親戚のところに奉公に出されたのではない。まったく見知らぬ行商人に売り払われてしまったのだ。彼は故郷を捨てることを余儀なくされ、見知らぬ人に囲まれ、異国の高官の奴隷となった。その主人の妻に求愛され、それは憎悪に変わる。それが発覚した後、彼は重罪人にされてしまう。このような転がり落ちるような人生の中に、我々は何を見るであろうか。この一連の前半生には、救いどころが無い。本当に転がり落ちるようである。しかし聖書はこの人生の所々に杭を打ち込むかのように「主がヨセフと共におられた」と、何度も何度も語るのである。そしてそれに見合った、その時々の恵みが備えられることを語るのである。彼は破綻と転落の人生を歩んだのではない。彼は最も顕著に信仰者的に、信仰者の真髄を歩んだのである。それは苦難でも守り、逆境における支え、ということである。