聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記39章1節-23節 2011年5月12日

創世記39章1節-23節 2011年5月12日
ヨセフは神が共におられたので、ファラオの役人ポティファルの家を任されるまでになる。主人の家の全ての管理を任せられた。身分こそ奴隷であるが、実質的には主人として王の重臣ポティファルの家の一切を取り仕切るようになったのである。
7節でポティファルの妻はヨセフを誘惑する。「高官の妻で有閑マダムのポティファル夫人は、宮廷の仕事で忙しくろくろく家にもいない夫に不満だったのでしょう。若く美しいヨセフに心惹かれ誘惑しようとしました」(小泉達人著「創世記講解説教」310頁)
この誘惑に対しての8節~9節のヨセフの言葉は、「人の道と神の道を両方立てるものであった」(小泉前出書311頁)
 ポティファルの妻は自分の思いが拒絶されたとき徹底的な復讐に出る。自分が誘惑しようとしたのをヨセフの責任に転嫁している。「しかしこの恐ろしい憎しみに変わる愛は、それが本当の愛ではなかった何よりのしるしでしょう」(小泉前出書)312頁
 ポティファルは激しく怒り、王の囚人を繋ぐ監獄に入れた。これは国の重罪人を入れる監獄であった。ある注解者はこう言っている。「本来ならヨセフはただちに殺されるはずだ。たとえ重犯罪人の語句であろうと、投獄されて殺されなかったのはおかしい。これはポティファルが妻の不倫を知っていたのではないだろうか」。これは一方では穿ち過ぎの解釈とされるが、もう一方でこのような妻の性質をポティファルは知っていたようにも思うので、ある一定の蓋然性を持っているようにも思われる。
 39章では「主がヨセフと共におられた」(2節、3節、21節、24節)という言葉が多用されている。これが今日の注目すべき言葉である。我々は、神がヨセフを守っているならば、何故兄弟たちに憎まれ、売られ、奴隷となり、婦女暴行の冤罪で投獄されていくのかと考えてしまうだろう。神が共におられるなら人生は何もかも上手くいくはずだ、否、そうであるべきだと。しかし神が共にいてくださるということは、順風満帆な人生の確約を意味していない。もしそれが確約されることを神の守りであると信じるなら、―それはそれで一つの信仰であるが―、それは人間の欲や望みの成就を願うだけの神を求めていることであり、家内安全、無事故、無病の信仰なのではないかと思う。
 しかし神のなさる祝福とは、その人間の思いを越えた所で働く正しい神。乃至、神の正しさの中で我々に働きかける神、なのである。結局我々の欲で神は動かれるのではない。ヨセフの人生は、我々の眼から見ると、何と波乱に満ちた壮絶な人生であろうと思ってしまう。父親の偏愛を受けて、どこか天狗になるところもあったかもしれない。兄弟を見下すところもあったかもしれない。そんな彼だから、たくさんいる兄弟たちに妬まれ、憎まれていったのであろう。そして彼は売られた。親戚のところに奉公に出されたのではない。まったく見知らぬ行商人に売り払われてしまったのだ。彼は故郷を捨てることを余儀なくされ、見知らぬ人に囲まれ、異国の高官の奴隷となった。その主人の妻に求愛され、それは憎悪に変わる。それが発覚した後、彼は重罪人にされてしまう。このような転がり落ちるような人生の中に、我々は何を見るであろうか。この一連の前半生には、救いどころが無い。本当に転がり落ちるようである。しかし聖書はこの人生の所々に杭を打ち込むかのように「主がヨセフと共におられた」と、何度も何度も語るのである。そしてそれに見合った、その時々の恵みが備えられることを語るのである。彼は破綻と転落の人生を歩んだのではない。彼は最も顕著に信仰者的に、信仰者の真髄を歩んだのである。それは苦難でも守り、逆境における支え、ということである。