聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記40章1節-23節 2011年5月19日

 創世記40章1節-23節 2011年5月19日
聖書における「夢」について
古代中近東地域において、夢は超自然的な力発する個々うちと信じられていた。そしてその真意と解釈が、非常に大切なこととされた。メソポタミヤやエジプトには「夢に関する書物」が編纂されていた。一般人の見る恐ろしい夢は、悪霊のたくらみと見做され、一方王や祭司の夢は神々の意向を知らせる手段と理解されていたようである。また王は夢のうちに啓示を受けることを望んで、神殿で夜を過ごすこともあった。聖書にもべテルにおけるヤコブ(28:11~)、シロにおけるサムエル(サム上3章)、ギブオンにおけるソロモン(列王上3:4-15)の聖なる場所での夢による啓示の出来事が伝えられる。聖書の夢を分類すると、

直接的な告知がなされる夢(創世記20:3,6,7、31:10-13、列王上3:5、マタイ1:20、使徒9:10)
象徴的な夢(創世記37:5-10、40:5~、ダニエル2章)
となる。
夢は神の御旨を伝える手段の一つと理解されており、その夢を解く事は、神よりの特別な能力または賜物が与えられていることとされた(創世記41:38、ダニエル2:47)。偽預言者の夢は、偽りの夢であり、それは虚しい慰めしか与えない(ゼカリヤ10:2)。また、よこしまなる夢見る者は、死罪に当たる(申命13:1-5)。夢を多く見ることは、空虚なることとの理性的非難も語られている(コヘレト5:3,7)。新約では、夢は困難・危険の予報的啓示にのみ与えられている(マタイ2:13、使徒18:9)。
 資料分析的に言うならば、39章はE文書、40章はJ文書である。文書形態は違うが、内容は並行している。つまり帝国(エジプト)におけるヨセフの台頭と成功、である。この箇所は大枠として39章~41章の枠組みの中で読まれるべきである。この中心は41章にある。つまりファラオの夢を解くことである。39章~40章はその予備的なものとして書かれており、ファラオの目に留まるまでの経緯が書かれている。
 ここでは、王の料理人と給仕役が登場する。彼らは何らかの過ちを犯し、ファラオの怒りを買い、二人とも牢獄に投げ込まれることから話しが始まる。権力者の機嫌を損ねると牢獄に入れられるというのは、今も昔も同じである。その理由は得てして些細なことが多い。時には冤罪による投獄もありうる。彼らの投獄の理由は分からないが、もし冤罪だとすれば、ヨセフと同じ理由であると言える。
 牢獄にはここを仕切っていたヨセフがいた。憂鬱な顔をしている給仕長の夢の話を聞き、その解き明かしを行なった。それはまたファラオの下に戻れる、という希望の解き明かしであった。しかし料理人役の長の夢は、死に引き取られる絶望的な解き明かしとなった。
 「解き明かし」という文字について。シャーロームの訂正「説き証し」「説き明かし」「解き証し」ではなく、「解き明かし」である。その解釈をし、証するのではなく「明確にする」のである。
 つまりここでヨセフが行っているのは、給仕役にも料理人にも媚びることなく、夢で語られた通りのことを伝えるのみに徹している、ということである。これまでのヨセフの行動を振り返ると、彼は悪びれもせずに、親兄弟に対して、堂々と「皆が私にひれ伏す」とい語り、家族の反感を買い、その結果兄弟たちに疎まれてエジプトに売られてくることになったのだ。この時はヨセフの気遣いのなさや、配慮の足りなさなどの批判があるかと思うが、しかし神の与えられた言葉としての夢の解き明かしは、そこで何が言われているかを分かり易くすること以外にないと思われる。
 つまりヨセフは誰にも迎合することなく、媚びるでもなく、徹頭徹尾神から与えられた賜物を生かして、そこで語られていることを包み隠さずに伝えること。その以外を務めを行なうことは彼の頭にはないのである。彼は解き明かすという出来事に関して、忠実であり、また忠実に務めを果たすこと以外に彼を取り囲むよこしまな思いは微塵もないのである。彼は解釈者であり、神の道具である。それは説教者にも言えることかもしれない。(しかし今週の話の中にあったように、説教者の意図とは全く異なることが起こるのもじじつであるが)
 しかし只一つ彼は、その中でも「何とかしてここから脱出する」ことを望んでいる。ここにヨセフの運命的なめぐり合わせ、彼の歩みの不思議さが見られる。つまり全く支配権を握っているような環境の中で(牢獄にいるのは確かであるが)彼は夢の解き明かしという点で、神の支配という業の一旦を担っている。しかしこの支配権を握っているように思われる者が、全き困難の中にあることのコントラストがある。殆ど神と同一視されたこのヨセフという男は、しかし嘆願してこの牢獄から出して欲しいと一生懸命に願い求めるものでもあるのだ。支配権を神に委ねられた彼は、しかし同時に苦しみと悩みの只中で、悶々と解放されるときを待つ者でもある。この力に満ちた一人の男は、しかし一方で助けを必要として嘆く者でもあるのだ。
 この姿は、神の支配権を一手に引き受けた一人の方が、全能者としてではなく、むしろ人間の罪と咎の中で、打ち震え、苦悩し、血の汗を流し、神に祈り続ける様子に重なり合う。その方は、神の思いと計画を、誰に迎合するのでもなく、おもねるのでもなく、ただ神の意図と計画を忠実に語ったがために、疎んじられ、蔑まれ、罵られて、十字架で死んで行かれた方である。
 ここからキリストの苦悩とキリストの十字架、そしてその背景にある神の計画を見るのである。