聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記35章1節-28節 2011年4月14日

創世記35章1節-28節 2011年4月14日
1節~4節
 シメオンとレビが犯した虐殺に対し、周囲諸民族たちはその報復を考えていたはずである。新参者というだけでも肩身が狭いのに、その新参者たちが大勢を殺したとなれば、周辺諸民族が黙っているわけがない。そのため神は「さあ、べテルにのぼり、そこに住みなさい」と言われた。神はヤコブ一家に対し、逃れのための命令と、新しくやり直す言葉を与えた。
 1節の「神のための祭壇」や2節の「服装を変えること」は、心機一転させるための表面的な変化ではなく、恨みを持つ人たちから逃れるためだけのものでもなく、また、報復に対して軍備を備えるということでもない。これはヤコブ家の宗教改革であった(渡辺)。身につけてい外国の神々とそれに関連する全ての習慣と装飾品を捨て、真の神に立ち返ろうとしたのである。それはアブラハム、イサク、そしてヤコブの神への立ち返りであった。
5節~15節
 彼らはシケムを立ち、べテルについた。神は逃れた彼らを追跡することなく(5節)無事にこの土地まで行かせた
 ここで乳母のデボラが死んだことが述べられている。デボラとはリベカの乳母であり、イサクと結婚するときに一緒に(24章59節)ついて来た乳母である。リベカはこの時やコブと対面する前に亡くなっていたと考えられるが、デボラは3世代に亘って長寿であったという。
 重要なことは、彼女が死んだとき「嘆きの樫の木」の下に葬られたということから、彼女が大変慕われていたということである。ヤコブの家でも屋台骨を支える柱となっていたのかもしれない。
16節~29節
 ヤコブの家はベテルから南下し、父イサクの住む、ヘブロンのマムレに向けて出発した。
 これまでの道のりを考えるならば、ヤコブはイサクに対して特に愛着を感じていなかったようである。パダンアラム(ラバンのところ)にいた時に「親族の下へ行け」と神に示されたのち、ヤボクでエサウと20年ぶりの再会を果たす。しかしエサウの「ヤボクの南にあるセイルで一緒に暮らそう」という申し出を断り、ヤボクから遠くない「スコト」に留まった。その後すぐにべテルに行くわけでも、ヘブロンに向かうわけでもなく、シケムでぐずぐずとしていたために「息子たちの罪」を招いてしまう。そこで父と再会するのであるが、パダンアラムを出てから父に会うのが明らかに遅いように思う。つまり「父はエサウを愛し、母はヤコブを愛した」のは、「エサウは父を愛し、ヤコブは母を愛した」ということを示しているのだろう。
 最終的にエサウとヤコブに看取られてイサクはその生涯を終えるわけであるが、その前にヤコブは最愛のラケルの死を迎えるのである。
 (16節)一同がべテルを出発した後、ラケルは産気づいた。かなりの難産であったため、その苦しみは大変なものであったようだ。彼女は生まれた子に「ベン・オニ」(私の苦しみの子)と名づけたが、それでは耐えられないと思ったのであろう、ヤコブは「ベニヤミン」(幸いの子)と名づけた。
19節~22節
 19節以下~22節はヤコブ一家にとって衝撃的な出来事であり、父ヤコブに対する侮辱でもあった。なぜこのような事が起きたのかは分からないが、おそらくラケルの死によって、ラケル所有の側女であるビルハの(所謂)所有問題が起こったのかもしれない。いずれにしてもルベンはレアの子でありヤコブ家の長男であるが、その彼がビルハと関係を持ったということは、ヤコブ家の罪を現している。父に対して罪を犯し、母レア、ラケルに対しても罪を犯し、姦通の罪ということで、自らの命への罪を犯している。
 渡辺信夫は次のように言う。「ラケルの死は、ヤコブ一家にとって衝撃的な事件であり、その衝撃は必ずしも人々を精神的に高めるのではなく、むしろ刹那的快楽に陥らせない歯止めになっていた支えを取り外す作用をします。イザヤ書22章13節に『我々は食い、かつ飲もう、明日は死ぬのだから』という不信仰の世界で横行する諺が惹かれています。死の陰がチラチラするところでは性の快楽への誘いが活発化します。この諺をコリント前書15章32節が引用するところであきらかになりますが、死の衝撃には死人の復活を対置させなければ、人間の崩壊を食い止めることはできません」
 とにかく、ここに出てくるのはイスラエルの(選ばれた)12部族の始祖たちである、ということである。つまりこの始祖たちの罪の数々を見る限りでは、決して「選ばれた」という言葉を使うことが出来ないほどに彼らの行いは汚れている。しかし神はこの罪深い12部族を選んだのだ。それは美しく、清く、正しい、聖なる民であるからではない。申命記7章6節~9節にある約束の言葉がそれを証している(旧約292頁)