ヨハネによる福音書18章28節-38節 『真理に属する者はキリストの言葉を聞く』

 ヨハネによる福音書18章28節-38節 『真理に属する者はキリストの言葉を聞く』

 裁判員制度が始まってから来月で3年が経過致します。いささか混乱を招きつつも、少しずつ浸透しつつあるこの制度でありますが、当初この制度は、司法関係者だけでなく、一般市民を判決に巻き込むという事で混乱が生じました。つまり先週一年数か月ぶりに行われた死刑執行に関しても、犯罪者とは言え一人の命を一般市民が担うという事ですから、その責任の重さは並大抵ではないと思います。又、実際の裁判に関して言えば、見たくもない証拠資料を見せられたり、心痛むような自供を聞かねばならなかったりと、強制的に嫌な事をさせられるという点で、人権侵害であると考える人もいるぐらいであります。
 しかしこの制度は、裁判所をオープンにする、というのが本来の目的であるそうです。私たち日本人は、裁判所に対して、社会正義を行使する立派な行政機関であると思い込んでいる向きがありますけれども、実際は、閉鎖的で、中身の見えない、密室で行なわれる、言わば「官僚主義の役所である」というのが現実であるようです。もちろんこれは司法関係者の言葉ですから、あながち間違いではないと思われます。つまり、検事や弁護士たちが議論を戦わせ、積み上げられた証拠を基にして被疑者の罪状の白黒をはっきりとさせる、というような裁判のイメージを映画やドラマの中で、私たちはそのように思い描くのですが、実際の裁判はもっと官僚的で、機械的で、事務的であるという事であります。例えば、少しでも目立つような画期的な判決を下した裁判官は左遷され、裁判長の印象を良くするための判決をし、それによって出世するか否かが決まってくる。そのためには、事件に対して余計な詮索はしない、と言うのが暗黙の了解であるそうです。勿論これは現在の司法制度に疑問を投げかける一部の関係者の言葉ですから、真実が如何なるものであるかはもっと検証の余地があるのでしょうけれども、ある意味で事実であるという事であります。ですからこのような官僚的な裁判所に対する非難を回避するために、一般市民を判決の仲間に入れて、透明性をアピールするというのが、裁判員制度の目的なのだそうです。
 政財界と異なり、裁判所だけは信用できると思い込んでいる私たち日本人にとって、いささか残念な話ではあるのですが、しかし司法のみならず、一般企業であれ、教育機関であれ、どのような機関であっても、本音と建て前の矛盾のような問題は存在するわけでして、裁判に関しても同じという事であります。そして「裁判の不正」と「そこにある官僚的な性格」に関しては、時代や文化が違っても同じことが言えるようであります。
 それが今日の箇所にあります、主イエスの裁判の場面であります。ここには3人の人物が登場します。一人はユダヤの総督ピラト。そして訴えを起こしているユダヤ人祭司たち。そして主イエスであります。
 これは、エルサレム入城から始まって、最後の晩餐を終えた木曜日の夜、ゲツセマネで逮捕され、十字架に架かるために行なわれた裁判であります。クエンティン・マセイスという中世の画家がおりますが、彼が「この人を見よ」という題の絵を描いております。そこには、茨の冠を頭に乗せて惨めに立っているキリストと、それに群がる民衆の異様な光景であります。理性を失い、異常な心理状態で、目を剥き出しにして、血眼になってイエスの死刑を求めている、民衆の憎悪に満ちた表情が印象的な絵であります。機会があればぜひ一度ご覧になって頂ければと思いますが、いずれにしましても、今日の箇所で行われた裁判は、まさに異様な興奮状態の中で行なわれていたと思われます。人間がひとたび憎しみに取り付かれ、そこに執着する時、異様な状況になっていく。その事を表しております。
 しかしこの中でただ一人だけ、その異様な心理状態になかった人がおります。それがユダヤの総督ポンティオ・ピラトであります。彼は民衆とイエスの間に立ち、裁判の判決を出すように迫られておりました。しかし彼にとって、イエスが有罪であろうとなかろうと、生きようと死のうと、関係なかったのです。それは彼がローマの官僚であったからです。
ローマ帝国の属州であった当時のユダヤ地方は、ローマ皇帝から派遣された総督がエルサレム一体を治める事になっていました。ローマ総督は一年の大半を地中海沿岸のカイザリアという町で過ごしておりました。しかし「過ぎ越し祭」というユダヤ最大の祭りが行なわれる期間中に限り、エルサレムに滞在する事になっていたと言います。それは、暴動や犯罪などを取り締まる、治安維持のためでありまして、過ぎ越し祭が無事に終わる事が総督の最終的な目的であったからです。つまりピラトは、ローマ皇帝から権限を委ねられ、ユダヤが平定されることによってその仕事ぶりが評価されたわけです。ですから、エルサレムで暴動や混乱が起こった場合、彼は出世できなくなります。その為彼は「イエスを十字架にかけよ」という民衆の異様な雰囲気に飲み込まれることなく、彼はただ只管(ひたすら)、治安維持のため、暴動が起こるのを阻止するため、その事のためだけに働いたのであります。31節に「あなたたちが引き取って自分たちの律法に従って裁け」という言葉には、余計な事に巻き込まれたくない、という心境が現れています。彼の心には、目の前に連れてこられたこのナザレのイエスという罪人を「適切に、正しく裁く」ということ念頭には無かったのです。むしろ彼が求めたのは、自分に対する皇帝の心象を良くすることと、ローマに帰ってからより高いポストに就くこと。それだけであっただろうと思うのです。ピラトにとって恐れるべきはローマ皇帝あり、神も、神の独り子も、彼にとっては恐れるべき対象ではなかったのです。混乱を避けるために、ただただローマの法律にのみ忠実であろうとしたのであります。

 それに対してユダヤ人の権威者たちはどうだったのでしょうか。主イエスをここに連行してきたのは、祭司長や律法学者たちでありましたが、彼らが規範とし、従っていたのは「律法」であります。律法とはご存知の通り旧約聖書のモーセ五書に記されている、神の言葉である、あの「律法」です。しかし彼らは決定的な矛盾の中で律法を守っておりました。その矛盾が、今日の箇所の最初に記されています。28節。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし彼らは自分で官邸に入らなかった。けがれないで過ぎ越しの食事をする
ためである」。ここに書かれているのは、完全な矛盾であります。つまり、彼ら祭司たちは、「イエスを殺そうと急ぎながら、不浄を避けることには几帳面であった」のです。不浄というのは「汚れた行い」ということであります。「彼らはイエスを殺そうというけがれた行為に躍起になりながら、律法のけがれは行なわないようにしていた」。完全な矛盾であります。総督官邸は異邦人の場所であり、血なまぐさい場所であるために、律法上は不浄の場所とされていたのでしょう。だから彼らは官邸に入らなかった。けれども彼らが行なおうとしているのは、他でもなくイエスという律法違反の罪人の血を流させるためであったのです。完全なる矛盾に彼らは気付いていません。ユダヤの法律には人を死刑にする権限はないからローマ法で死刑にしてくれと懇願するほどイエスの処刑を望んでいた。しかし自分は汚れないようにしていた。律法が神の愛の言葉であるならば、彼らの律法解釈から、「愛」と「慈しみ」の文字消えていたのであります。
 つまりここにあるのは、ローマ帝国の官僚として、ローマ法に則ることだけを考えて行動した総督。そして自らの利権と名誉を守るために、自らの矛盾に気付かずに、もしくは気にせずに、イエスを死刑にしようとする祭司長たちがここにいたのです。

 ピラトと主イエスのやり取りの中には、「お前はユダヤ人の王なのか」という言葉が何度も出てきます。それに対して37節で主イエスは「私が王だとはあなたが言っていることです。私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」。このように答えるのです。
 ここでは「真理」が語られています。ピラトは思わず「真理とは何か」と質問しましたが、このことは大変重要であります。 
 ピラトにとっても、祭司長たちにとっても、真理は大して問題ではありませんでした。真理が何か関係ないから矛盾にも気付かないわけです。ピラトも祭司長も、立場は違えども、事務的に仕事を遂行することを目的としている、ということからするならば、彼らの目的には真理は必要ないのです。真理を伝えるイエスが自分たちの偽善を暴いてくため、イエスの存在が邪魔になったから消そうとするわけですし、またピラトにとっても、真理を追究しても出世できないから、真理など必要ないのです。機械的に事務的に裁くことや、おかみの顔色を伺う事が何より大事であるならば、キリストの真理はいりません。実用主義とはそのようなものであります。実用主義には真理は邪魔なのです。
 例えば第二次大戦中の日本では、哲学や文学などは見向きもされず、ただ、物を作る技術、生産するための政策や方法だけが重宝されました。それは「戦争に勝つ」という実用主義のゆえでありました。実用主義は、ある一面では私たちの生活を便利にし、活発にします。固定概念を取り払い、必要なものを作り上げるための力となります。けれども、そこに理念や理想、哲学や思想が皆無であったらどうなるでしょうか。自分の国を繁栄させ、裕福にさせる事のみを考える国家と政治家が、神の真理を見失ったとき、日本では侵略に侵略が重ねられ、ドイツでは600万人もの人間が虐殺されたのです。実用的であること、事務的であることは効率が良いかもしれません。しかしそこに神が居られるのか。神の真理が存在するのか。そこが最も大切なのではないでしょうか。
 信仰から真理を抜き取ったとき、そこに現れたのが、「イエスの裁判」であります。神の愛の律法から神の愛という真理を抜き取ったとき、祭司長たち、ユダヤの権威者たちは、実用主義的に律法を適用したのであります。「私たちには人を死刑にする権限がありません」という言葉は、それを象徴しております。もはや彼らの信仰には神はいない。彼らが読み、そして従おうとする聖書には、真の神は存在していないのです。そのとき十字架が起こりました。人間の中から神の存在が消し去られるとき、十字架が起こるのです。
 
 しかし37節で主イエスは大切なことをお語りになります。「私は真理について証をするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、私の声を聞く」。「真理に属する人は皆、私の声を聞く」。私たちはこの言葉を忘れてはならないのです。言い換えるならば、「キリストの言葉を聞く人は皆、真理に属している」と言うことです。キリストの言葉を聞く私たちは、皆真理に属する者たちである、ということです。であるならば、私たちは神の真理によって歩まねばなりません。物質主義や実用主義に流されて、真理を見失ってはならないのです。知恵と賢さを与えられておきながら、中傷、誹謗、憎しみ、殺戮のために自らを加担させてはならないのです。むなしい働きにではなく、神の栄光を輝かせる働きに従事していきたいのです。なぜならば、いつも私たちのうちにはキリストの真理があり、私たちはその真理と共に歩んでいるからです。そしてそのように聖書が証言してくれているからです。次週のイースターに向けて、自らの思いを人間の罪に向け、その贖いの主に祈り求める一週間でありたいと思います。この受難週をキリストの真理の言葉と共に過ごしましょう.

(浦和教会主日礼拝説教 2012年4月1日 棕櫚の主日)