マタイによる福音書6章12節 『汝、赦しの中に立て(主の祈りⅣ)』

 マタイによる福音書6章12節 『汝、赦しの中に立て(主の祈りⅣ)』

 以前、モーツァルトの特集番組が放映されておりまして、大変興味深いものでありました。それはモーツァルトという天才が如何にして造られたのか、という事と、彼の頭の中にはどのような働きが隠されていたのか、という事を解明するという、非常に興味深いものでありました。その中でピアニストの内田光子という人が、モーツァルトのオペラを批評して次のように言っておりました。「彼の作品の根底には、赦す事と赦される事、という大きなテーマが流れている。それは彼が本当に自分の罪を知っているという事、そして他者の罪を赦す事が如何に美しい事であるかが彼のオペラに描かれている」。と、このように言っておりました。フィガロの結婚などに代表される彼の作品は、非常に陽気で、明るいものであり、彼の作品の多くがそのような明るさに満ちたものであります。しかしその根底に流れている思想が「赦す事と赦されることである」、というのであります。彼はオーストリアに生まれました。オーストリアは非常に厳格なカトリックの教義を基盤とする土地柄ですから、おそらくこのような事も起因しているのであろうと思います。

 第一次世界大戦の時のことですが、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊しました。その次の日の日曜日、壊された教会の中で礼拝が行なわれました。しかしいつものように、主の祈りになって、この一節のところまで来ると、皆んな黙ってしまったというのです。その時、全ての礼拝者は、ドイツ人が自分たちに対してした事を思い出していたためでありました。「我らに罪を犯す者を、我らは赦せない」、だからこの一節を祈れなかった、というのであります。
 私たちにはこの事が、とてもよく分かると思います。自分を迫害する者、直接的な害を与えてくる者を「赦しなさい」と言われたとしても、そう簡単に許せるものではありません。主イエスが、いくら「このように祈りなさい」と言われたのだとしても、そう容易く祈れるものではないのです。このように本来祈る事が大変困難な事柄を、私たちは毎週祈っているというわけであります。

 マタイによる福音書の6章12節をもう一度見てみましょう。「私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と書かれております。主の祈りとして完成された定型文では、赦す事柄は「我らの罪」となっておりますが、その原型の一つであるマタイ福音書の原文では「私たちの『負い目』」となっております。口語訳聖書では、これを「負債」と訳しております。負債、つまり支払いの責任を負うことであります。負債とは、私たちの罪の事です。私たちは罪を犯します。その行動において又その思いにおいて、罪は、他者に対する悪として行われるものです。罪を犯す相手、損害を与える相手がいて初めて罪は成り立ちます。もし誰も嫌な思いをせず、誰にも損害を与えないのなら、それは罪にも負い目にもならないかもしれません。相手を傷つけ、他者の心や体に損害を与えるからこそ、それは罪であり、負債となるのです。
 ですから、主の祈りで祈られる負債とは他者に対する「罪」であり、相手を傷つけ、相手の痛みになる事を言い表しています。しかし主の祈りは私たちをこのように祈らせます。「我らに罪を犯す者を『我らが赦すごとく』」と。つまり私たちは、私たちに負債を抱えた者、私たち自身に罪を働いた者、私たちの心を傷つけた者を赦せるのであろうか。この事が問われるのです。

 この祈りの難しい所は、「我らが赦すごとく」という言葉がくっついている事にあります。つまり「私たちが相手の罪を赦しますから、あなたも私たちの罪を赦してください」、と祈られているのです。このため罪の赦しを祈るのにたじろぎ、小声でしか祈れないような時もあるのだと思うのです。
 しかしここで考えておきたいことは、そもそも神というお方は赦しの神である、という事が大前提である、という事です、それは新約聖書ではなく旧約聖書の中で既に赦しの神である事が明らかなのです。

 例えば詩編103編
103:2 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
103:3 主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
103:4 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
103:5 長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

それから詩編130編
130:3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
130:4 しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
130:5 わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。

出エジプト記34章でも
34:6 主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、
34:7 幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。

このように言われています。主は私たちを赦される神であり、私たちの罪を贖って下さる神である事が旧約聖書のあらゆる箇所であきらかとなります。
 しかしここで主の祈りは、私たちに重要なもう一つの赦しの要素を祈らせます。それは「我らが赦すごとく」という言葉です。つまり私たちが赦すように、私たちの罪を赦して下さい、という意味です。
 ここで疑問に思うのは、私たちの信仰告白の中で、「功なくして罪の赦しを得」と常に告白しているように、私たちの赦しは神の一方的な恵みによって赦されているという事であります。功、つまり私たちの功績がなくても罪赦されている、というように我々は教えられてきたし、そう信じてきた。だから私たち罪人は赦されるのだと考えてきたのです。
 しかしここで重要な間違いが潜みます。それは、私たちは赦されるけれども、私たちは赦さなくても良い、という間違いであります。それは大変自分勝手で、都合の良い解釈となってしまいます。つまり私たちは人を赦さなくてもよいけれども、人が自分を赦さない事は神様の意に反する、と考える事です。
 その事が明確に譬えられているのが、マタイによる福音書18章21節~35節に記されている「1万タラントンの家来の譬え」です。新約聖書35ページ下の段であります。
 
 この譬えは、私たちに今日の主の祈りの文言の何たるかを
伝えます。この家来が負っていた1万タラントンの負債を、主君が赦してやったのは、ただひとえに主君の憐れみによったのであります。何の条件もなく負債を帳消しにしたのでありました。しかしこの家来は、自ら受けた赦しを、他人に与えませんでした。負債が免除された事を本当に恵みとして受け止めていたのならば、彼もまた他者に対して負債を免除せざるを得なかった筈です。徹底的に大きな赦しが目の前にあるのだから、その赦しの中に置かれた赦された者として、彼は赦す必然を負わされ、赦す力が神から与えられているはずなのです。
 ある人が「本当の愛を知らなければ、本当の愛を行なう事は出来ない」という事を言いました。まあ一概にそうとは言い切れない部分もありますが、ある意味において真理でありましょう。本当の愛し方、愛され方を知らなければ、どのように愛して良いのか戸惑ってしまうでしょう。赦しもそれと似ております。つまり私たちは、大きな力で、大きな心で赦された時、本当の赦しとは何であるのかを知るのであります。
この家来は膨大な負債を、主君の寛大な心と憐れみによって赦されました。1タラントンというのは、6000デナリオン。現在の貨幣価値に換算いたしますと6000万円ほどの膨大な金額であります。しかしここで家来が主君に対して負っている負債額は、1万タラントンであります。つまり6000万円の1万倍、6千億円という事になります。これは文字通りの金額というよりも、私たちの罪はこれほどに膨大だと言っているのです。彼はこの6千億円を主君に帳消しにしてもらった、というのです。しかしこれだけの赦しを得ておきながら、彼は友人の100デナリオンの負債を赦すことが出来なかったのです。彼は6000億円が帳消しにされたその足で、100万円の借金を取り立てにいった。それが赦された者の行いなのか。そう聖書は問うのです。

 ここで言われている事は、あまりにも桁外れな数字である為、私たちにとってはあまりにも現実離れしている、想像の世界のように思えてしまうかも知れません。けれども本当にそうでしょうか。私たちの罪を数字に表すとしたら、低い数字に留まるのでありましょうか。そうではありません。私たちはこの家来が負っていた負債1万タラントンに匹敵するか、それ以上の罪の負債を負っているのであります。その私たちは赦されたのです。キリストの十字架によって。私たちの負債があまりにも膨大である為に、自分自身では償う事が出来なかったのです。しかし神は御子イエス・キリストをお遣わしになり、私たちに代わって、十字架によってそれを負って下さったのです。その事を心の底から本当に自分のものとして知る人は、人の負債を帳消しにする事が出来るというのであります。言い換えるならば「我らに罪を犯す者を我らが赦す」ことが出来るのは、「我らの罪が赦されている」「しるし」であると言えるのです。本当に神の下にへりくだって、自分の罪の大きさを知っているならば、自分が赦された事を棚に上げて、人の罪に執着する事は出来ないのです。つまり神に赦されている私たちは、自ずと人を赦す事ができるようになるのだ、と言われているのです。

 真の赦しを本当に良く知っている人は、自分の生活の中にその赦しがどう反映されるかにを向けるのです。赦された事を知った時、もはや「他人が自分を赦すのか」とか、「自分が他人を如何に赦しているか」、などという事を推し量るのをやめ、又、私があの人を赦すのと、あの人が私を赦すのと、釣り合いが取れているとかどうかなどという打算や計算が行なわれるのではないのです。神が私を赦して下さっている事によって、全ての計算は終わっています。大きな1万タラントンの負債は帳消しなのです。だからこそ私たちは、安心して人を赦す事が出来るのであります。
 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。主の祈りの中でこのように我々が祈る時、そこには、既に赦された私たちが、神の恵みの無限の大きさと、その下にあって私たちもまた、赦す事の出来る者であるという確信が与えられ、常に新しい赦しへの決意に立たせられるのであります。「汝、赦しの中に立て」とこの祈りは私たちの告げているのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年3月25日)