浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日 (2)

 浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節
              『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日 (2)

 ≪(1)からの続き≫

 このような疑問を受けて、私たちは、この箇所をどのように読む事が勧められているのでしょうか。それは、この箇所がどのような文脈の中にあるかによって明らかになるのです。

 今日の箇所の一つ前には、10節以下で「迷い出た羊」の話があります。99匹の正しい羊ではなく、1匹の羊の救いにこそ、天の国の喜びがある、という話であります。
 そして今日の箇所の次の箇所には何があるでしょうか。来週の先取りになりますが、「仲間を赦さない家来の譬え」があります。この話は単に借金を帳消しにしてやらなかった家来の愛の無さを伝えようとしているのではなく、むしろ有罪判決を受けるべきものがその罪を赦されている、という事に焦点が当てられているのです。

 つまり今日の箇所は、迷い出た1匹の羊の話と、借金を帳消しにされた家来の話にうまく囲まれるようにして、ここで語られようとしているメッセージを示されているのです。それはすなわち、罪を犯した者がどのように裁かれるかではなく、この二人はどのようにして和解が成立するのか、という大事なメッセージであります。神が望んでおられるのは、3段階の教会法制度によって、改心し悔い改めないものは、教会の群れから除外されるというペナルティーを負う事になる、という事ではなく、神は、罪人同士が和解し、共に救われるようにという事が求められているのであります。
 
 19節にはこうあります。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」この文脈では唐突に出てくるような言葉でありますが、しかしJ.D.M.デレットという神学者はこの19節を次のように読み替えています。

 「もしあなたがたのうち二人が何であれトラブルになっている事柄に関して、お互いに同意する事    ができるなら、その同意に対して、天の父は祝福してくれるだろう」。

 このように言い換える事が可能であるとデレットは言うのです。そしてその流れで20節も解釈されるべきであると思います。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」。この教会を表わす時に良く用いられる有名な一節は、単に教会とは仲の良い信仰者2~3名、乃至、神様を信じる信仰者2~3名が集まればそれは教会である、と言うだけの言葉に留まりません。この20節は、神の救いと神の赦しの文脈の中で読まねばならないのです。

 それは、「ここに集まる人々が、キリストの名によって集まる時、それらはキリストの十字架の赦しに属しているのである」という事です。従ってここに集い得る2~3名の中には、仲裁する者が居ようと居まいと、言い争っている2名の信仰者が、彼ら彼女らを隔てているどんな問題や、どんなトラブルや、どんな怒りや憎しみや損害にも拘らず、和解を目指そうとする2~3名なのであり、お互いに和解を目指そうとして進む時、その只中にこそ、真の贖いの主、イエス・キリストが居られるのだ、という事がこの20節で語られているのであります。

 この19節には大変印象的な言葉が使われております。それは「シュンフォネーソーシン」というギリシャ語であります。これは「心を一つにして」と訳されている言葉です。これは「共に」「一緒に」を意味する「シュン」という接頭辞に、「音」を表わす「フォネオー」が付き、「シュンフォネオー」、すなわち「音が調和する」、とか、「意見が一致する」「合意する」「協定を結ぶ」などの意味を持つこのシュンフォネオーは、交響曲「シンフォニー」の語源にもなっております。

 シンフォニーとは、まさに、一つの音として、響き合う一つの音楽となります。交響楽が奏でられる時、コンサートホールでは数十種類の楽器が準備され、それが複雑に絡み合ってあの大きな潮流のような音楽となるのです。どんなに音の小さな楽器、たとえば、トライアングルや、カスタネットのような、小さなパーカッションであっても、その音は独特の響きをもって、ここぞと言う場面で用いられるでしょう。あるいは一曲の中で一回しか出番のないようなものであっても、そこに不要な楽器というものは存在しないのです。数十人から曲によっては百人を越える大編成の演奏者がおり、コンサートマスターからはじまって、大きな楽器の陰に隠れてしまうような目立たない立ち位置にいる一人まで、すべてがシンフォニーとして必要とされており、役割の違いがあるだけであります。舞台の右にいる人は左の人の音を聞きながら、指揮者の奏でようとする音楽を目指して、共に音を聞き合って、それぞれの個性を生かしながら、しかし楽譜の支持に、作曲者の意図に従って、心を一つにして、思いを一つにして奏でるのです。そしてシンフォニーは生まれるのです。まさにシンフォニーは、全体の調和、全員の心が一つにされる時に、本当の音楽となって響き渡るのです。

 教会も、教会員の交わりも又シンフォニックなものである、と聖書は言います。教会は罪人の集まりです。ですからそこには間違いも起きます。トラブルもあります。しかしそれぞれの心がどこを向いているのかが重要なのです。それぞれがいがみ合い、キリストを除外し、キリストをそっちのけで訴訟し合う時に、そこにあるのは不毛な結論でありましょう。

 しかし互いに向き合い、共にキリストの臨在を求めつつ、心を一つにして、和解を願い、赦しを願い合うならば、その方向に進む事を心から願い求めるならば、そこには真のキリストの十字架が立ち給うのだ、と聖書は語るのであります。

 私たちは神が望んでおられる事を求めたいのです。二人または三人がキリストの名によって集まるところに、裁きがあるのでも、決裂があるのでもありません。キリストの名によって集まるところには赦しと和解があるのです。私たちの教会という集まりが、このような場所である事を願い、主イエス・キリストがいつも共におられる事を信じて、歩みたいと、いつも願っています。

  祈りましょう。