浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』 2013年8月4日

 浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書18章15節-20節 『面と向かって語り合いなさい』

 2013年8月4日

 司法制度改革が行われてから約10年が経ちました。この改革は、司法が抱える様々な問題を法律によって解決する事が出来る社会の実現するために行われた改革でありました。生活上のトラブルを、法律によって解決し、予防する事は、これからの日本の社会を見据えた上で必要だという理念の下、このような改革が行われたのであります。具体的には1000人の司法試験合格者を3倍の3000人に増やすという数字が掲げられ、その為に幾つかの大学に法科大学院というものが設けられたのです。しかしこのような10年前の見通しとは裏腹に、現代の日本において、私たちの日常生活レベルにおいて、全てのトラブルを法によって解決しようという考えをどれだけの人が持っているでしょうか。むしろかえって、様々なトラブルが起こった時、その解決に司法が活用されるどころか、行政や法の専門家ではない人が仲介に入ったり、その社会の慣例に任せられたり、ひどい場合には暴力や脅しが未だに横行しているような事も少なくありません。法的な解決は最後の手段と考え、又、弁護士費用の負担や、長期にわたる裁判などを考えると、司法を活用するのはかえって面倒な事であると言うのが、今でも我々の心の中にあるのではないかと思うのです。いまだ尚、法的手段は高いハードルであるという現実があるのです。
 元々アメリカを初めとする、西欧的な法概念を日本にも植え付けたいという事があるのかもしれませんが、しかし日本人においてはトラブルの解決はそんなに簡単ではありません。つい最近も、山口県周南市の小さな集落で男女5人が犠牲になった事件も、近所付き合いのトラブルが元であると言われておりますし、このような事件は後を絶ちません。ここまでではないにしても、近所付き合いや、ご近所トラブルというものは、誰もが避けて通る事が出来ず、日常茶飯事のように起こるものでありましょう。
 会社の中でも、学校の中でも、近所付き合いでも、残念な事に教会の中でさえも、そのようなトラブルは起こるのであります。

 今日与えられた聖書箇所は、このような私たちに色々な事を考えさせるでしょう。この箇所を一読して思いますのは、教会内でトラブルが起こった時の法的手段について、という事であります。つまり自分が、ある信徒から被害を受けた時どのように対処するか、というトラブル解決方法を、教会法的な見地から語っているように思うのです。この箇所から読み取れるのは、こういう事です。

 自分に対して罪を犯した人のもとに行き、誰もいないところで「私はあなたに罪を犯されました、あなたから被害を受けました」と言って抗議するべきである。もし相手がそれを聞き入れるならば、その人と和解が成立するわけだから、その相手とは良好な関係を結ぶことが出来る、これが第一に言われている事であります。

 しかし1対1で話しても埒が明かない場合は、1名か2名の人を一緒に連れて行き、そこで忠告すべきである。その1~2名の物は、あなたの言い分の正しさと相手の罪の証人となってくれるだろう。これが二つ目であります。

 それでも駄目な場合は教会に訴え出なさい。教会が相手の罪を認めた場合、相手側に罪を認めさせるが、それでも拒否する場合は、異邦人か徴税人と見做しなさい。

 このような3段階の法的手段があると言っているように読み取れるわけであります。そして教会における、言い換えるならば、信仰者同士の間におけるトラブルの解決方法には、このような3段階のやり方があるので、私たちはこの段階に従って行いなさい、と言われているように読めてしまうのであります。

 けれども、この箇所は表面的にはそう読む事が出来るかもしれませんが、しかし少し深く読む方であれば簡単に気付くと思いますが、ここには色々な問題点や疑問点が挙げられると思うのです。

 例えば、この訴え出る人、つまり原告側の訴えそのものが不当なものである場合、という事であります。その事については一切語っていません。相手が悪い、相手が罪を犯した、という一方的な訴えの事しか書かれていないという事は、聊か疑問が残るものであります。
 もう一つの問題点は、訴え出る人が1~2名を連れて行く、とありますが、その連れて行く人は当然、訴え出る人のシンパであり、原告側に有利な証言をする人である事は火を見るよりも明らかであります。そうなると当然のごとく、ここでは被告側には大変不利であると言わざるを得ず、この2段階の内、2段階で不正な裁判が行われるというように思えてならないのであります。

 さらに、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」という言葉に引っかかります。つまりここで主イエスは何を言おうとしているのかが明確ではないのです。あれほど異邦人と共に生き、徴税人こそ神の許に来なさい、と言って、招いた人々であるのに、それらのように見做される、というのは、これまでの主イエスの行いからは場違いな言葉であるように感じるのであります。

 そしてもう一つは、教会が出す判決それ自体が、そもそも本当に正しいのか、という事も重要です。この3段階の法的手段は、言ってみれば、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所の3段階の控訴制度のようでもありますから、最終的に最高裁である教会が出した結論は全て正しい、というこの文脈は、随分と乱暴な言い方であるようにも感じるのであります。そして聖書は、否、主イエスが、このような「罪多き教会に、人を裁く権威をお与えになった」というのは、考えられないのです。何故なら同じマタイによる福音書7章1節では、「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにする為である」とはっきりと「主イエスの口を通して」語られているわけでありますから、これは今日の箇所と矛盾するように思えるのです。

   (2に続く)