2017.10.29 オータムフェスタ

2017年のオータムフェスタ
10月29日(日)11:30~13:30

雨で、心配でしたが、たくさんの方が いらしてくださり
大賑わいとなりました。

出店の福祉関係団体のみなさま
マッジクショーのみなさま
お抹茶コーナーでお手伝いしてくださった皆様
出品してくださった皆様
お買い上げくださった皆様

ありがとうございました。


2017.07.02の説教から

    <72日の説教から>
         『わたしと一緒に喜びなさい』
        フィリピの信徒への手紙212節~18
                         牧師 三輪地塩
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは言う。「自分の救い」とは一体何であろうか?これは「救い」が「相対的」な事柄だと言っているのである。人によって痛さや心地良さの感覚が違うように、人によって罪の実感、救いの実感も違ってくる。「私は本当に幸せで救われてるな」と考える人の「救い」と、「自分はどうして救われない人間なんだろう」といつも落ち込んでいる人にとっての「救い」には、それぞれの救いの受け取り方の違いが生じるのだ。
 だが、それで良いのである。信仰者が皆、ポジティブシンキングをしなければならない、とは限らないのだ。ネガティブな人もいるだろうし、能天気な人もいるだろう。だが、それぞれの到達点において、信仰をしっかりと実感する事が重要なのである。
 マタイ福音書25章には「タラントンの譬え」がある。
主人が3人のしもべに、5タラントン(以下5t、21も同じ)、2t、1tを、それぞれ預けて旅に出た、という話である。主人が帰ると、5tのしもべは仕事で増やして10tにした。2tのしもべも、しっかり働いて4tに増やした。だが1tのしもべは「失うのを恐れて」土に埋め、主人に1tを返したのである。主人は、1tのしもべを叱り、預けていた1tを没収したという話である。
 この譬えは「賜物」「救い」「信仰」という事柄が、相対的である事を示す良い譬えである。5tのしもべは優秀な信仰者であり、1tのしもべはダメなしもべである、という事ではない。「神の救い」は数値化されない相対的な事柄である。この譬えの強調点は、5tは5なりの問題を抱え、2tは2なりの問題や課題を抱える。だが「その到達したところに応じて、自らの身の丈に合わせて、それぞれの為すべきことを為しなさい」。これが主イエスの語った「タラントンの譬え」の意味である。
 フィリピ書2章でパウロが語る「自分の救いを達成するように」「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」もまた、これと同じ響きを持つ言葉である。
   
しかしタラントンの譬えの強調点は、そうではありません。5タラントンの人の信仰が救いに一番近いのではなく、2タラントンの人は頑張ってもその差を埋められない、というのでもありません。5の人は5の人なりの問題や課題を抱えていて、5の人なりの頑張りがある。2の人は2の人なりに同じく問題・課題を抱えている。その中で自分として、その与えられた物、自分が神様から行ないなさい、と命じられた事を、どれだけ真摯に向き合って行うのか、という事であります。救いは「相対的」なのです。ですから、人の信仰の強さを、いたずらに賞賛したり、あるいは批判したりも出来ないのです。
 
パウロは、「自分の救いを達成するように」と命じ、「そのために」、と彼は続けます。
「何事も、不平や理屈を言わずに行ないなさい」。この言葉に、一気に愕然としてしまいます。一体、何ごとにも不平を言わない人などがこの世にいるでしょうか?理屈をこねた事のない人がいるでしょうか?実にこの言葉は、私たちの信仰心を萎えさせ、燃え上がった熱心さに水をかけるような言葉であります。そして15節を読みながら人は言うのです。ああそうか、不平を言う私は、「とがめられるところのない清い者となり得ず」「非のうちどころのない神の子にもなり得ず」「世にあって星のように輝くことなどできない」のだ、と。
 しかし、この事に対し、ある説明の中で、次のように言われていました。「「不平」とは、外に向かう神への否定であり、「理屈」とは内に向かう神への否定である」と。このように言われて、へんに納得いたしました。つまり、不平を言う事も、理屈をこねることも、「私を弁護しよう」とするだけに留まらず、それを与えた「神を否定するものだ」というのです。
 「不平」と言って思い起こすのは、モーセが出エジプトした時、奴隷の身分であったイスラエル人たちが、「食べ物が無い」「水が無い」「肉鍋を食わせろ」「エジプトではメロンが食べられたのに」と、口々にモーセに文句を言っている場面です。この民衆たちは、明らかにモーセに対して不満をぶつけているのですが、しかし元を正せば、イスラエルを救おうとして荒れ野に連れ出した神に対する不満、という事になります。
 
 私たちは、何か足りない事があったり、モノが無くなったり、満たされなかったり、精神的に参ってしまうと、すぐに動揺し、迷ってしまうのです。信仰を持っていても、その決心は弱ることもあるのです。
 けれども、それは外からの力に自分の身を任せているから生じるのかもしれません。不平不満というのは、自分自身のことがらではなく、むしろ、何か他からの圧力や攻撃に対して、受け身となり、流されてその圧力に屈してしまう時に出てくるのかもしれません。よこしまで、悪どい力が、我々を脅し、威圧しようと、この世で待ち構えているのです。しかし、神の民は、それに耐えて生き延びる事が目的なのではなく、「この世を照らす由のように輝いて」行動したいのです。我々自らが率先して、世に光り輝く者として生きたいのです。つまり、教会は、信仰者は、この世に受け身になりたい気持ちを乗り越え、世の動きに流されて不満を口ばしってしまう気持ちを乗り越えて、世のために生きたキリストに倣って、この世に生きる者として歩みたいのです。
 不平不満を言わない人はいないと思います。しかしここで言われているのは、不平不満を言って、そこで立ち止まり、足踏みをし、そこに居座り、不平不満を言うことで溜飲を下げる、という事であってはならない、ということなのです。
 私たちは「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」と言われています。この世に流されず、キリスト者として主体的に生きる者を「星」に譬えています。これはとても面白い表現です。なぜなら、星はどのような時に輝くかを考えればよく分かるからです。