2019.9.29 週報掲載の説教

<2019年9月22日の説教から>

『なぜ、イサクを』
創世記22章1節~14節

長老 森﨑千恵

創世記22章は「信仰の父」と呼ばれるアブラハム物語のクライマックスです。それまでアブラム(後にアブラハム)は、主を信じ、主のご命令に従って77歳の時生まれ故郷カルデアのウルを妻サライ、甥ロトを伴って離れ、主の示されるカナンの地に移りました。こどものいないアブラムに主は「あなたの子孫は天の星の数のようになる」と言われ、彼が99歳の時に主は「あなたは多くの国民の父となる」との約束をなさり、名前を「多くの国民の父」を意味するアブラハムとされました。そして100歳の時ついにこどもが与えられ、その子をイサクと名付けました。

ところが、22章で主はその独り子を燃え尽くす献げものにしなさいと命じられます。「恵みの神様」と思っている読者はここで度肝を抜かれます。なぜ、どうして?と驚き、怒りさえ覚えます。聖書には、「神はアブラハムを試された。」とあります。神様は、なぜそのような試練をお与えになるのでしょう?

新約聖書ヘブライ人への手紙12章5節に「我が子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。・・・主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。」とあります。神から与えられる試練の意味を考えると、このようにして主を信じる人を強く鍛えることとあります。また主はアブラハムがどこまで主に従順であるかをテストされたとの考えがあります。もうひとつ、試練を通して、気づきを与えることがあります。

この物語は、「主の言葉に従って」行動するアブラハムに、最後にはイサクに代わって献げ物になる雄羊を「主は備えてくださる」ことを示すと同時に、そのような人間には無理と思える要求をなさるのは「主の主権」を表されたのだと理解します。ヨブ記にありますように「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほむべきかな」なのです。恐らく多くの場合私達は「主の主権」を忘れて、つまり自分の命の初めから終わりまで主の御業だということを忘れて過ごしていることを思わされます。被造物である私たちは、主の主権に信頼し、試練には主の備えを信じて忍耐する信仰をと願います。