2019.11.3 週報掲載の説教

<2019年2月3日説教から>

今後も決してないほどの苦難が来る』 
マルコによる福音書13章14節~23節

牧師 三輪地塩

この30年間の総決算をするとき、最も衝撃を与えた出来事に「地下鉄サリン事件」がある。これは我々日本人の宗教観を一変された。しかも悪い意味で。

あの教祖がしきりに使っていた「ハルマゲドン」は、ヨハネ黙示録の中で天使と悪魔がこのこの世で戦う「最終決戦」と言われるところから来ている。聖書の意味はキリストの再臨に対する希望であって、「サリン事件」などではない。まことに勝手な解釈も甚だしい。

ジャーナリスト江川紹子は「人は恐怖感、無力感、そして切迫感を同時に抱いてしまうと、立ち止まったり、振り返ったりして内省する余裕を失い、唯一救われる可能性のある行動を語る方向に誘導されやすい」と語る。

だが我々の日常にも、切迫観に煽られる思考停止は頻繁に起こる。例えば、スーパーマーケットに行き、食品売り場で鳴り響く、急かされる音楽と連呼される「お買い得!」の言葉。タイムセールになると「半額」シールが貼られ、我々は思考を停止し、パーセンテージの高い商品を、必要であるか否かを考えずにカゴに入れてしまう。レジを通すとき、ハタと我に返り、自らの愚行を悔やんでも時既に遅し。切迫は脅迫となり、無思慮な思考停止を生んでしまう。

恐らく、かのカルト信者たちも、切迫した終末観を植え付けられ、世の終わりを迫られ、恐怖に駆られ、教祖の言葉に全てを委ねてしまっただあろう。あの教祖は自らの「予言」を現実させたかに見せるため、「予言の成就」を、血で塗られた出来事としてデッチ上げた。「まやかしの終末」である。

マルコ福音書は我々に終末を語る。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら― 読者は悟れ ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」。我々は「憎むべき破壊者」を見極め「悟れるかどうか」にかかっているという。見誤ってはならず、いつも悟ることが出来るよう、くまなく世を見続けねばならないとマルコは語る。

我々信仰者は知っている。終末の出来事は「恐怖」ではなく「最終的な審判の時」である。言わば、この世の混乱した結び目がほどかれる時、それが終末である。決して恐怖ではなく「祝福」だ。我々は自信を持って終末の備えをしたい。