2019.11.24 週報掲載の説教

<2019年3月24日の説教から>

「ゲッセマネの祈り」

マルコによる福音書14章32節~42節

牧師 三輪地塩

「イエスはひどく恐れて悶えはじめ、彼らに言われた。私は死ぬばかりに悲しい」(33節)。神の子メシアのイメージからかけ離れた、弱々しく、恐怖に怯える姿である。この真の神は、真の人でもあられた。「主、我らと共に居まし給う」キリストは、自ら痛み、嘆き、苦しむ仲保者であられる。「この杯をわたしから取りのけてください」(36節)と祈る、「苦しまれる神」なのだ。

14章26節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とある。ここで歌っていたのは、過越祭で歌われることの多かった「詩編113編~118編」と言われる。「エジプト・ハレル詩編」というシリーズである。イエス一行は特に113編5~9節を歌っていたのではないかと思われる。次のような詩である。

「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き、なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を ちりの中から起こし、乏しい者をあくたの中から高く上げ、自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返してくださる。子のない女を家に返し、子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」

(詩編113:59

この113編には「低く降って」という言葉が使われる。特に「神が身を低くする」という使い方は、旧約聖書中113編にしか出て来ない。この詩編によると、主が自ら身を低くされる目的は

①「弱い者をちりから「起こす」ため」

②「貧しい者をあくたから「引き上げる」ため」

③「主にその「王座に着かせる」ため」

と述べられる。ここから「卑賤のキリスト」「へりくだったキリスト」が想起される。我々が弱さの中から起こされ、貧しさの中から引き上げられるため、そしてキリストご自身が、その低められた究極の中にあって、神の王座に着くためであることが予期される。これこそが、我々に与えられた復活の命の希望である。