2019.12.1 週報掲載の説教

<2019年3月31日の説教から>

ユダに裏切られ、イエス逮捕される

マルコによる福音書14章43節~52節

牧師 三輪地塩

 
「たとえ、ご一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないとは決して申しません」というペトロの力強い約束は、気の利いたおべっかになってしまった。この箇所は、「ユダの裏切り」であると共に「ペトロの裏切り」でもあり、「弟子たち全員の裏切り」でもある。

この箇所の最後51‐52節には、更に逃げる者がいた。この人物は、「裸で逃げ去る」という不思議な逃げ方をしている。聖書解釈者たちによって、この人は「ヨハネ」「ヤコブ」あるいはこの聖書記者である「マルコ本人」などと考えられてきた。だが、我々はこの記事が語り、問いかけらているのが、「人間の弱さと罪」であることに気づくべきであろう。困難やパニックに陥ってしまうと、人は自分を優先して神を捨てる。「裸」であることは、この人が、何よりも一目散に逃げていることを示している。更に、この人がキリストのもとから離れたことによって「もう何も残されていない」ことを表している。新約学者アドルフ・シュラッターはこの箇所を、「マルコ自身の信仰告白であると同時に、我々の信仰告白でもある」と語る。我々は身の危険を感じて逃げる者たちである。昨日まで「何があっても主に従う」と約束していても、状況が変われば人間の意志などひとたまりもない。恥ずかしさや見苦しさをそっちのけで、とにかく神から逃げるのである。

キリストの十字架の贖いは、この逃げた弟子、逃げた我々のためにある。神を捨てる弱さをはらむ我々の罪こそが、主イエスを十字架にかけたのだ。キリストはただ一人、置いて行かれても尚、神の示す道を進んだ。罪びとを救う道を歩まれた。逃げた者のために、逃げない神の子が、痛みと苦しみを、死に至るまで受けたのである。